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古墳から見た大和の古代 その15

古墳から見た大和の古代
01 /25 2020

前回の検討から宇美町以外の蚊田の候補地となる大城村が出てきました。けれども、他の候補地が存在する可能性も否定できないのでさらに調べてみます。その結果、北九州とは全く関係なさそうな長野県の神社を発見。長野市若槻東条字蚊里田1313番地に鎮座する蚊里田八幡宮です。同社には驚くべき由緒があったので以下に引用します。詳細は以下の同社ホームページを参照ください。
https://www.karitahachiman.com/

社伝によると当社の御神体である霊石は九州福岡県怡土郡(いとぐん)蚊田(かだ)の里から運ばれてきた鎮懐石(ちんかいせき)と伝えられ、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐(さんかんせいばつ)の折、皇子應神天皇(おうじんてんのう)のご誕生を遅らせられるため腰に帯せられた霊石であると伝えられております。この霊石を源義家が陸奥征伐に陣中の守護神として奉持し、戦が終ってその子の義隆に授けられ、仁平年間(1150)に現在の本殿裏山をゆかりの地、九州蚊田の里の地名を取って蚊里田山(かりたさん)と称し、その麓に蚊里田神社(かりたじんじゃ)として霊石を祀ったと伝えられております。

何と、長野県の蚊里田の地名と蚊里田八幡宮の由緒は福岡県怡土郡蚊田の里が元になっていました。怡土郡(いとぐん)はかつての伊都国内にあり、現在の糸島市に相当します。これで宇美町以外の蚊田は二か所あったことになります。由緒や地理的な優位性から判断すると、蚊田の里が応神天皇の生誕地としてふさわしそうな気もしますが、即断は禁物なので、二か所のどちらが真の蚊田なのかチェックしてみましょう。

蚊田に関して岩波書店の「日本書紀」注によると、「通証」(谷川士清の「日本書記通証」)等は筑後国御井郡賀駄郷(福岡県三井郡小郡町平方。現在の小郡市平方で、大城村は小郡市
平方のすぐ近く)とし、鈴木重胤は筑前国怡土郡長野村蚊田(福岡県糸島郡前原町長野)としているが確かではないとのことです。糸島郡前原町長野は現在の糸島市長野、糸島市川付一帯に相当します。

上記で注目すべきは「注」に宇美町が書かれていない点です。ここから、宇美町の古名だった蚊田が応神天皇の誕生で宇美に変わったと言う宇美八幡宮の由緒は誤りと判明し、後付けの話に過ぎなかったと確認されることになります。では、小郡市と糸島市のどちらが真の蚊田になるのでしょう?

蚊田の里に相当する糸島市長野、糸島市川付の辺りをグーグル地図で見ていたところ、驚いたことに糸島市前原町川付785にも宇美八幡宮が鎮座していました。蚊田の里と宇美八幡宮が同じ場所にあるのなら、やはり糸島市側に軍配が上がりそうですが、ここでも即断は禁物、さらに検討を進めます。


糸島市の宇美八幡宮の位置を示す地図画像。

(注:なぜか糸島市川付の範囲に含まれる宇美八幡宮の鎮座地だけが糸島市前原町川付となっていました。なお宇美町の宇美八幡宮と区別するため今後は糸島宇美八幡宮と表記します)

蚊里田八幡宮の由緒にある鎮懐石に関して、糸島市二丈深江には鎮懐石八幡宮も存在していました。鎮懐石八幡宮の詳細は以下の同社ホームページを参照ください。
https://www.chinkaiseki.com/

真の蚊田は、幾つかの関係神社や伝承などから糸島市の可能性が高くなってきましたので、さらに史料から調べてみます。「日本書紀」によると、新羅遠征を前に臨月となっていた皇后は、石を腰に挟み、「事が終わって還ってきた日に、ここで生まれてほしい」言いました。その石は今、伊覩県(いとのあがた。かつての伊都国で現在の糸島市、福岡市西区一帯)の道のほとりにある。と書かれています。

「日本書紀」が石は伊覩県にあるとしており、加えて新羅遠征後に同じ場所で(応神天皇に)産まれて欲しいとしている以上、宇美町のみならず大城村の可能性はかなり低くなります。別の史料にも当たってみましょう。

「古事記」(岩波書店)には、その石は筑紫国の伊斗村にあると書かれており、「注」によれば、糸島郡深江にその石があったと伝えている。とのことでした。糸島郡深江は現在の糸島市二丈深江に相当し鎮懐石八幡宮の鎮座場所であり、糸島宇美八幡宮からは直線で約5㎞と近い場所になります。「万葉集」巻第五 山上憶良の歌にも、以下のように書かれています。
筑前國 怡土郡 深江村 子負原の海に臨める丘の上に二石あり

「風土記」の筑前国逸文には芋湄野(うみの)の項があり、逸都(いと)の県にて新羅討伐から凱旋した日に芋湄野まで来られた時に太子がお生まれになったので芋湄野と言う、とあります。続く児饗(こふ)の石の項にも同じ話が書かれていました。「風土記」も逸都の県=現在の糸島市となっており、蚊田の所在地に関して宇美町、大城村はほぼ完全に脱落したと理解されます。

ただ大城村における伝承の場合、筑後国御井郡賀駄郷(現在の小郡市平方)から南東へ約5㎞の場所(福岡県小郡市大保1032)に御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)が鎮座しており、由緒は以下の通りです。

神功皇后2年(202)創建、社記・伝説によれば第14代仲哀天皇は熊襲征伐に当り、橿日宮の本陣より此の地に軍を進められ大保の里が白州で清浄であったので天神地祗を祀り仮陣地として軍を指揮された。偶々近臣を従え士気を鼓舞するため戦線を廻られた折、敵の毒矢に当られて此の地にて崩御された。皇后は時恰も激戦中で士気の沮喪をおそれ深く秘して御殯葬申し上げた。
熊襲征伐後軍を纏めて御崩御を布告し、御霊柩を橿日宮に移して発喪された。その後、三韓征伐に於て御魂代の石を軍船に乗せ、その石に仲哀天皇の御鎧及び兜を着せて征途につかれ、戦勝後凱旋されて、その石を天皇の御魂代として、大保の郷の殯葬の地に宮柱太敷立て斎き祀られ御勢大霊石と崇められた。
今、社前にある石がこれで御剣・御衣も納められ御本體所と称する。御勢は夫にて皇后よりの尊親の称である。

上記由緒は以下の九州式内社顕彰会ホームページから引用させていただきました。
http://kyushu-shikinaisha.com/shrine/43/

熊襲は魏志倭人伝時代の狗奴国と理解されますので、200年代半ばから仲哀天皇の時代に下ってもなお、北九州勢力とのいざこざが絶えなかったことになります。「日本書紀」仲哀天皇紀の一に云はくには、天皇が自ら熊襲をお討ちになり、賊の矢に当たって亡くなられたという。との簡単な記事がありました。この記事がベースとなって御勢大霊石神社の由緒が成立したのかもしれません。

応神天皇が生誕したとされる蚊田の候補地(小郡市平方)から遠くない場所に、鎮懐石ならぬ仲哀天皇の御魂代の石が存在するのは興味深いし、北九州の沿岸部から熊襲征伐に向かう中間地点に仮陣地を設けるのも納得感があります。問題は同社に応神天皇生誕関連の伝承がなく、仲哀天皇の崩御に重きを置いている点で、小郡市平方の蚊田と連結できないのが弱点となります。このことから、例えば熊襲討伐軍の軍団長が敵の毒矢に当たって亡くなったことが仲哀天皇の話として語られたとも言えそうです。

前回で書いた赤司八幡宮の「止誉比咩神社本跡縁記」には、神功皇后が西征の途に於て中ツ海(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。 皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名井の霊水を産湯として奉った。とあります。

一方、水沼君の古墳とされる御塚古墳(所在地は久留米市大善寺町。墳丘が全長約65mの帆立貝式前方後円墳で、三重の周濠まで含めると全長が121m)は5世紀後半の築造とされており、神功皇后の時代から100年近く遅れているため、この縁起はそのまま受け止められません。

三重の周濠は九州においては異例で、大和王権の影響も想定され、そうした関係から神功皇后伝説とリンクした可能性もあります。もちろん御塚古墳に埋葬された人物の5代程度前の人物が神功皇后に奉仕したとする見方も有り得ますが、そうした人物の古墳があるかどうか不明ですし、神功皇后伝説とリンクさせ得る人物なら当然古墳の規模は大きくなるはずです。

あれこれ見てきましたが、小郡市平方の蚊田が伝承や史料の集積する糸島市の蚊田を差し置いて応神天皇生誕地とするのは無理がありそうです。まだ断定はできないものの、以上の検討結果から、神功皇后は新羅遠征前に糸島宇美八幡宮周辺で鎮懐石を裳の腰に挟み、帰還後同じ場所で応神天皇を出産したとしておきましょう。(注:鎮懐石八幡宮には応神天皇誕生の伝承がないので、生誕地は暫定的に糸島市長野、糸島市川付一帯としています)

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酔石亭主

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