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古墳から見た大和の古代 その18

古墳から見た大和の古代
02 /04 2020

前回で神功皇后は応神天皇(実態は多分武内宿禰の子)を怡土郡長野村蚊田で出産したと書きました。そしてこの地に事実の核となる諸要素が出揃っている以上、彼女は北九州の人物とせざるを得ません。但しそう断定するには、仲哀天皇を長嶽山・山頂に葬った年代が神功皇后の実年代と整合している必要があります。と言うことで、神功皇后の実年代を見ていきましょう。

大和における神功皇后の没年(書紀紀年)は269年で、干支二運(120年)繰り下げた実年代では389年になります。佐紀古墳群内にあって彼女の古墳とされる五社神古墳は築造時期が4世紀末から5世紀初頭とされており、実年代の没年と古墳築造時期は整合しています。これらから神功皇后の活躍した時代は360年から380年頃と設定しておきます。

次に仲哀天皇の年代を確認するため、長嶽山の奥の院古墳が築造された時期を調べてみます。同古墳に関する平成7年(1995年)の解説板によると、1550年ほど前に築かれた長野川流域一帯を治めていた首長の墓であると考えられています。とのことで、仲哀天皇陵の築造時期は445年頃になると理解されます。

上記の理解に基づくと、事実の核が出揃っているのは「日本書紀」に書かれた仲哀天皇ではなく、400年代前半における邑の首長になってしまいます。この人物とほぼ同時代になる北九州の神功皇后が活躍した時期は440年頃以降と見積もられます。これらを整理すれば、

大和における神功皇后の最盛期→360年~380年代頃。
北九州における神功皇后の最盛期→440年~460年代頃。
となります。

上記のように、同じ神功皇后の名前を冠していながら約80年もの時代差がある以上、この二人は別人と考えざるを得ません。ここで北九州における仲哀天皇の実像も明らかになります。奥の院古墳の築造時期から判断して仲哀天皇は400年代前半の人物であり、解説板にあるように長野川流域の邑を支配していた首長だったのです。北九州の神功皇后もその実像は同時代における地域の有力な女性首長だったのでしょう。

年代の問題に続いて、糸島宇美八幡宮の由緒で長嶽山・山頂に築かれたとされる仲哀天皇陵を検討してみます。ここが真の仲哀天皇陵だとすれば200m級の巨大古墳になるはずですが、長嶽山山頂の奥の院古墳は全長38mの前方後円墳とのことで、大王墓クラスの古墳と言い難いものがあります。事実の核が出揃っているはずの仲哀天皇陵がこのレベルのものであれば、真の仲哀天皇陵とは言えず、解説版に書かれているように邑の首長レベルの墓と考えるべきでしょう。

一方この古墳は殯斂(ひんれん。死者を埋葬するまで棺に納めて安置すること)の場所だとの見方もありますが、その場合古墳の築造は必要ないはずです。仮に築造したとして、また後に武内宿禰が掘り出したとして、ではどこへ移して新たに古墳を築いたのか確たる答えが得られないと思われます。

「日本書紀」の神功皇后摂政元年春二月には、皇后が天皇の遺骸を収め(取り出して)海路にて京(大和)へ向かい、各地を巡りつつ忍熊王らを討伐し、2年の冬11月に天皇を河内国の長野陵に葬ったとありますが、大和や河内に仲哀天皇の宮殿もない中、北九州からわざわざ大和まで運ぶ意味が不明です。次回で詳しく見ていく予定の岡ミサンザイ古墳(宮内庁が仲哀天皇陵と治定する)は築造年代が実年代と整合しておらず、加えて墳丘長245mの巨大古墳を短期間で築造できるはずがありません。「日本書紀」の記述にはかなりの無理があると思われます。

ただ、奥の院古墳を殯斂の地と設定した場合、長嶽山から直線で約4㎞の糸島市神在405番地にある釜塚古墳が本葬の候補地となるかもしれません。この古墳は直径56mの円墳で、築造時期が5世紀前半とされ、初期の横穴式石室を備えることから朝鮮半島との結びつきが窺えますし、周濠も有することから大和王権との関係も想定されるので、築造年代や古墳のありようが(邑の首長としての)仲哀天皇に見合うような気もしてきます。まあこれは史料面の裏付けがないので単なる推測に過ぎませんが…。続いて神功皇后の新羅討伐も見ていきましょう。

長嶽山の仲哀天皇陵とされる奥の院古墳が445年頃の築造とされているので、神功皇后の新羅征伐はそれ以降の話となります。ここで「新羅本紀」を見ると以下のようになっていました。

459年 夏四月に、倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。


上記以降も倭人の侵攻は何度か見られます。けれども、北九州の神功皇后が実際に新羅に遠征したとすれば、459年と462年の二度が対象となりそうです。戦いで勝ったのは462年ですから、実態が地域の女性首長だった神功皇后の新羅討伐は、462年の話を題材として書かれたものと考えられます。従って、「その16」で書いた以下の内容は採用できない結果となりました。

神功皇后の死去年が実年代では389年なので、それ以前で最も近い倭人の侵攻は「新羅本紀」によると以下の通りです。
364年 倭兵が大挙して侵入してきた。倭人は多数をたのんで、そのまま直進して来る所を伏兵が起ってその不意を討つと、倭人は大いに敗れて逃走した。


また北九州において武内宿禰と神功皇后が仲哀天皇を謀殺していた445年頃、皇后のお腹にいたはずの応神天皇は既に超巨大な誉田御廟山古墳(5世紀初頭から前半の築造)の中で永久の眠りについていたことになります。そうした理解からも、北九州の別人としての神功皇后が産んだのは応神天皇ではないと確認され、武内宿禰の子である可能性がより高まり、実際の応神天皇は北九州で誕生していなかったことになります。(注:武内宿禰も複数の人物を一人に纏めたものとされますが、ややこしいのでそのまま武内宿禰と書いています)

既に書いたように、武内宿禰の子孫が糸島宇美八幡宮の宮司家となっているのは、仲哀天皇を謀殺した首謀者が武内宿禰だったからであり、天皇の御霊を鎮める役割を担うのはその子孫以外にないと理解されます。

以上の検討から、「日本書紀」の編纂者の意図が明確になってきました。彼らは、怡土郡長野村蚊田一帯で5世紀半ば前後に活動した武内宿禰、神功皇后(地域の女性首長)、仲哀天皇(長野川流域にある邑の首長)の事績や地域の古伝承、倭人の新羅侵攻などを取り込み換骨奪胎して、大和における神功皇后や河内に葬られた応神天皇の存在に結び付けて一つのストーリーに仕立て上げていたのです。

こうした作為は神功皇后から応神天皇、仁徳天皇へと至る日本の歴史を目一杯大きく見せようとした天皇家や編纂者の意図によるものと判断して間違いなさそうです。またその過程で、多くの他の大王の存在は無視されてしまいました。そして事実を捻じ曲げる意図的な編纂方針に基づき、大和の神功皇后に事寄せて創作されたのが、北九州における神功皇后(実態は北九州における女性首長)伝説だったのです。

伝承の量や史料の集積度から勇猛な女性首長が北九州にいたのは間違いないと思われ、同地における神功皇后の実在が確信される面は確かにあります。但し、大和における神功皇后の時代より80年程度遅い点を踏まえれば、北九州の神功皇后は「日本書紀」の編纂者によって実に巧妙に取り込まれてしまったと理解するしかなさそうです。

あれこれ検討してきましたが、これで大和における神功皇后(4世紀後半頃の人物)と北九州の神功皇后(5世紀前半の後期から後半前期頃の人物)は別人であると確認できたことになります。
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酔石亭主

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