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古墳から見た大和の古代 その19

古墳から見た大和の古代
02 /07 2020

今回は前回で触れた長嶽山奥の院古墳をもう少し深堀りしつつ仲哀天皇の実像に迫っていきましょう。糸島宇美八幡宮のホームページには以下の由緒内容がありました。(注:同社のホームページは削除されたのか現時点では見当たりません)

当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、大臣武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて香椎の宮に安置していた仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御棺を当山、長嶽山山頂に納めて陵を築いたとされ、これが上宮の起源とされております。その後、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ「皇后の船と国土を守護する」の旨を現わされましたので、無事に帰国した神功皇后は、長嶽山でお礼の祭礼を催したといわれています。その後、仁徳天皇の治世10(322)年に平群木挽宿禰(へぐりのづくのすくね)の子、博公を神主として神社を立て、気比大神を祀らせました。これが本宮の起源とされています。
さらに称徳天皇の神護景雲元年(767)に宮司、社務、社司の公実が八幡宮、聖母宮、宝満宮を勧進し、その後八幡宮の威徳霊験があらたかで人々の崇敬が多く、社名も八幡宮が用いられるように為ったとされています。


同社の縁起に関しては「糸島郡誌」のデジタルコレクションコマ番号362、363を参照ください。重要な部分は上記とほぼ同じ内容になっています。なおコマ番号363にある清瀧権現とは気比大神を意味していると理解されます。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186769

長嶽山山頂の奥の院古墳は全長38mの前方後円墳で、古墳の解説板によれば445年頃の築造と推定されています。また古墳が死者を埋葬するための前方後円墳である点、由緒に陵を築いたとある点を踏まえれば、仲哀天皇の殯斂の地ではないと確認されます。(注:神社側は蓋し三韓征伐の間に於ける仲哀天皇御殯斂の地か、と書いて含みを持たせており、コマ番号362とコマ番号57に出ています)

既に書いたようにこの規模の古墳なら北九州における邑の首長レベルの墓に過ぎず、しかも仲哀天皇が実在すると仮定して、その没年代(仮定の実年代)である300年代後半より80年前後遅い築造時期となっています。長嶽山古墳群に関しては以下に詳しい内容が書かれていますので参照ください。
https://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-category-2.html#entry3228

一方、宮内庁が仲哀天皇陵と治定する岡ミサンザイ古墳(所在地:大阪府藤井寺市藤井寺4丁目)は古墳時代中期の5世紀末頃の築造と推定されています。仲哀天皇が実在していたと仮定して、その没年代(仮定の実年代)と古墳の間には100年以上の時代差があり、奥の院古墳同様に全く合致しません。従って、岡ミサンザイ古墳の被葬者は仲哀天皇ではないことになります。岡ミサンザイ古墳の墳丘長は245mと、5世紀末の時代においては極めて巨大で、築造時期やその規模から雄略天皇陵との説も提示されています。

岡ミサンザイ古墳が雄略天皇陵かどうかは別として、仲哀天皇陵でないのは確実です。他に候補はないでしょうか?仲哀天皇の偽陵との説もある五色塚古墳(兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目、墳丘長194m、築造時期4世紀末から5世紀初頭)はどうでしょう?「日本書紀」神功皇后摂政元年2月条には、仲哀天皇の為に陵を造ると偽り、播磨に至って山陵を赤石に建てた。船で淡路島に渡り、その島の石を運んで造った。とあります。これを造ったのは神功皇后ではなく、次の天皇が誉田別尊(後の応神天皇)に決まるのを恐れて皇后軍を迎え撃とうとした麛坂王と忍熊王とされています。

要するに仲哀天皇陵を造ると偽って神功皇后を迎撃するための砦を築いたことになるのですが、円筒埴輪列などの出土から五色塚古墳が古代の砦や陣地とは考えられません。また200m近い巨大古墳を仲哀天皇崩御後にごく短期間で築造するなど不可能です。実際には当時の豪族の古墳だった可能性が高く、一方で佐紀陵山型古墳の相似形であることから、明らかに佐紀王朝より設計が配布されたものであり、築造自体に関しても大和側の強い影響が想定されます。

五色塚古墳に関して可能性が高いのは、佐紀王朝の主流派だった忍熊王が播磨の豪族の古墳築造に協力した事実を、「日本書紀」の編纂者が利用し改ざんしたとするシナリオです。従って、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓ではないとの結論になります。

以上、真の仲哀天皇陵が畿内或いはその周辺地域に見当たらないとすれば、同天皇は大和王権とは関係ない人物になってしまいます。(注:既に書いたように津堂城山古墳を仲哀天皇陵に充てる説もありますが、陪家もないことから、これは間違いと判断します)

残る可能性は北九州の人物ですが、北九州で仲哀天皇陵とされる長嶽山・奥の院古墳の被葬者は400年代前半頃に生きていた邑の首長なので、こちらも仲哀天皇の実年代となるべき300年代半ばから後半とは大きな時代差があると確認されています。よって(「日本書紀」に書かれた)仲哀天皇は大和側と北九州側のどちらから見ても実在せず、編纂者が創作した架空の人物になりそうです。ただその元ネタは間違いなく存在していますので、見て行きましょう。

現実的な側面から「日本書紀」に仲哀天皇として書かれた人物の実像を纏めると、大和王権とは無関係の、400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた小さな邑の首長であり、この人物を基に創作されたのが仲哀天皇となりそうです。

なぜそのような人物が仲哀天皇として記されたのか知るすべはありませんが、「魏志倭人伝」に書かれた卑弥呼時代の伊都国がたった千戸の小国であるにもかかわらず、極めて重要な地位にあったことが影響しているのかもしれません。「日本書紀」編纂時点の天皇家においても、旧伊都国の重要性に関する意識が残存しており、400年代の同地域で起きた事柄にまで十分な目配りをしていたとも考えられます。それはさて置き、一点実に不思議な問題があります。

仲哀天皇陵に治定される岡ミサンザイ古墳は「日本書紀」で河内国の長野陵と記載されています。長野川沿いに鎮座する糸島宇美八幡宮はかつて長野八幡宮と呼ばれており、一帯の地名は長野でした。長野県長野市に鎮座する蚊里田八幡宮の由緒は筑前国怡土郡長野村蚊田の伝承が元になっていました。これら三つが全て長野繋がりとなっているのです。妙だとは思えませんか?ちょっと気になるので長野の地名由来や分布などを見ていきます。

長野の地名で最も有名なものは長野市です。長野市の地名は善光寺平の長く緩やかな傾斜地の野、に由来するとされています。けれども、他の数多い長野の地名はそうした形状とは関係のない場所に付けられており、長野市の見解が正しいとは言い切れません。蚊里田八幡宮の由緒に、仁平年間(1150)に現在の本殿裏山をゆかりの地、九州蚊田の里の地名を取って蚊里田山(かりたさん)と称し、とあるように怡土郡における蚊田の里の地名が持ち込まれたのであれば、同時に長野の地名も持ち込まれ、現在の長野市の地名が成立した可能性は十分にありそうです。

さらに、長野の地名は天日槍と関連付けられる可能性もあります。例えば「日本書紀」の垂仁天皇3年3月条には天日槍が播磨国に泊まって、宍粟邑(しさはのむら)に在りと書かれています。そしてこの地には宍粟郡安富町長野がありました。(現在の姫路市安富町長野)天日槍の推定移動ルートは、新羅-旧伊都国-播磨国宍粟邑-近江国吾名邑-若狭国-但馬国、となりますが、但馬国への入り口に当たる街道筋には京丹後市久美浜町長野があります。「古事記」の応神天皇紀には、昔天之日矛が阿加流姫を追って難波に来た話が出ており、河内にも長野の地名があって現在の河内長野市になっています。

「筑前国風土記」逸文(「釈日本紀」所引)によれば、仲哀天皇が筑紫行幸の際、怡土県主(いとのあがたぬし、伊都国のあった怡土県の県主で現在の糸島市)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎え、五十迹手は自分を高麗国の意呂山に天降った日桙(天日槍)の後裔と言上しています。朝鮮から製鉄集団を率いて渡来したとされる新羅の王子・天日槍が糸島市に上陸した可能性は上記から推測され、その一帯の地名が長野だったのです。

天日槍の糸島市上陸に関し「糸島郡誌」には、日槍はまず新羅往来の要津たる伊都を領有し此に住した云々、と書かれています。詳細はコマ番号51を参照ください。これ以降のコマには神功皇后の活動などが詳細にわたって書かれており、興味深いものがあります。

以上、長野の地名の検討から実に興味深い結果が導き出されてきました。「日本書紀」の編纂者は糸島宇美八幡宮の長嶽山に埋葬された邑の首長と、埋葬場所一帯の地名である長野を取り込んで、河内国にある仲哀天皇とは無関係な古墳の名前を長野陵に決定し、仲哀天皇陵として「日本書紀」に書き込んだのです。

酔石亭主は仲哀天皇に関して、大和王権とは無関係の、400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた小さな邑の首長であり、この人物を基に創作されたのが「日本書紀」における仲哀天皇。との見解を持っていますが、長野の地名までもがこの見方を補強する大きな材料となっていました。地名一つが古代史を検討するための強力な武器になるとは、実に面白いですね。

また仲哀天皇とされたこの邑の首長は、天日槍の後裔である怡土県主らの祖・五十迹手(いとで、名前は明らかに伊都国の伊都から取っている)と深い関係を持っていることから、親新羅或いは新羅系とも考えられるので、次回で少し詳しく見ていきます。
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酔石亭主

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