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古墳から見た大和の古代 その20 

古墳から見た大和の古代
02 /10 2020

ここまで糸島宇美八幡宮に関連して仲哀天皇の検討を続けていますが、同社では気比大神が重要視されています。例えば由緒には、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ「皇后の船と国土を守護する」の旨を現わされました、と書かれていました。また、仁徳天皇の治世10(322)年に平群木挽宿禰(へぐりのづくのすくね)の子、博公を神主として神社を立て、気比大神を祀らせました。これが本宮の起源とされています。とあります。気比大神とはどんな神様なのか、またなぜ同社で重要視されているのかを考えつつ、今回も仲哀天皇の実像に迫っていきたいと思います。

気比大神がどのような神かを知るには、敦賀市に鎮座する気比神宮を見ていく必要があります。同社の主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)で、この神が気比大神とも称されていました。他の祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊、玉姫命(神功皇后の妹)、武内宿禰命となっています。同社のホームページは以下を参照ください。
https://kehijingu.jp/about/#about2

気比神宮が鎮座する角鹿(つぬが)には、糸島宇美八幡宮関連で登場する主要人物すなわち仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、応神天皇の全員が来訪しており、且つ気比神宮の祭神にもなっています。祭神だけからも両社の密接な関係が見て取れますが、なぜそうした関係が成立したのか、各史料から探ってみましょう。

角鹿の地名由来は「日本書紀」に書かれており、垂仁天皇紀には、御間城天皇の世に、額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けひのうら)に泊れり。故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。と書かれていました。この額に角のある人物は意富加羅国(おほからのくに)の王の子であり名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)ですから、彼の名前が角鹿(つぬが)の地名由来になっていると確認されます。

「日本書紀」垂仁天皇紀の一に云わくによると、阿羅斯等が自分の国にいる時、白い石が化して美しい童女となった。喜んだ阿羅斯等は交合しようとしたが、童女は日本に逃げたので阿羅斯等は彼女を追い求め日本に入った。そして童女は難波と豊国・国前郡の比売語曽社の神になった、とのことです。

気比神宮の社伝によると、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとのことで、氣比神宮境内摂社の角鹿神社はその政所跡であり、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされています。

「古事記」応神天皇記の天之日矛の段には、また昔、新羅国王の子の天之日矛がいて、賤しい男から玉を受け取ると、美しい乙女に化したので妻としたが、女は小舟で逃げて難波に留まった。これが比売碁曽の社に鎮座する阿加流比売神と言う、とあります。「日本書紀」と「古事記」の記事基本構造はほとんど同じであることから、都怒我阿羅斯等と天日槍は同体と見做せます。(注:「古事記」は応神天皇記に書かれていますが、また昔、とあることから垂仁天皇の時代に天日槍が渡来したと理解してよさそうです)

一方で糸島宇美八幡宮が鎮座する糸島市にも天日槍に関連する伝承があり、ここが彼の上陸地と推定され、同社は気比大神と天日槍を同体としています。気比神宮は都怒我阿羅斯等と関係し、糸島宇美八幡宮は気比大神(=天日槍)と関係しており、都怒我阿羅斯等が天日槍と同体で天日槍が気比大神なら、事実関係は別として都怒我阿羅斯等=天日槍=気比大神との仮説が立てられることになります。

「日本書紀」の仲哀天皇2年2月6日には天皇が角鹿に行幸し行宮を建てて笥飯宮と言う、とあります。
「気比宮社傳」によれば、仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に詔し同地にて気比大神を祀らせ、これが創始とされています。詳細は以下の「古事類苑第9冊」コマ番号488を参照ください。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873551/488

「古事記」の仲哀天皇記・気比の大神と酒楽の宴の段では、武内宿禰が太子(応神天皇)を率いて禊をしようとして角鹿に仮宮を建て、太子の夜の夢に伊奢沙和気(いざさわけ)大神が現れて名を換えようと申し出たので、太子はお言葉のままにしますと答えた、とあります。有名な名前の交換説話ですね。翌日、笥飯の浦一面に余るほど御食の魚を太子が賜ったので、神を御食津(みけつ)大神と号した。そして今、気比大神と言う、と書かれています。記事を読む限りでは名前の交換はなく、伊奢沙和気大神→御食津大神(=気比大神)の変更があっただけの話となっていました。

名前の交換に関して「日本書紀」の応神天皇前紀一に云うでは、名を換えたので大神は去来紗別神、太子を誉田別尊という。然らば元の名前は逆のはずだがそうした所見はなく、詳らかでない、としています。これらからも、実際には名前の交換は行われず、伊奢沙和気大神の名前のみが保食神である御食津大神(気比大神)に変更になったと確認されます。

「日本書紀」神功皇后13年3月8日には武内宿禰が皇后の命により、太子(即位前の応神天皇)に従って角鹿の笥飯大神を拝み祭らせた、とあります。
帝王編年記9年2月条によれば、驚いたことに仲哀天皇が気比大神でもありました。(上記コマ番号488参照)と言うことは、天皇が崩御したその年に気比大神として祀られたことになってしまいます。
延喜式によると気比神宮は気比大神、仲哀天皇鎮座となっています。(上記コマ番号488参照)
これらから事実関係は別として、都怒我阿羅斯等=天日槍=気比大神=仲哀天皇としておきます。(注:気比大神=仲哀天皇かどうかは、「古事類苑第9冊」にも異論が書かれており定まりません)

以上、糸島宇美八幡宮・宮司家の先祖である武内宿禰及び同社の主要な祭神は全て気比神宮にも関係していると確認され、加えて両社はあたかも相似形のように糸島市と、遠く離れた敦賀市に鎮座しているのです。この密接な関係の背後には何があるのでしょう?

糸島宇美八幡宮の由緒によると、神功皇后が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ皇后を守護すると述べています。これを現実に即して見れば、敦賀の人々が皇后の新羅討伐を助けたと理解でき、皇后は帰還後にその助力を多として敦賀にまで赴き、気比大神を祀ったと言うのが合理的な解釈になりそうです。ではなぜ、敦賀の人々は神功皇后に助力したのか?それを考える前に仲哀天皇や神功皇后と天日槍の関係を見ていきます。

仲哀天皇は製鉄集団を率いて新羅から渡来した天日槍の子孫・五十迹手から三種の神器に相当する宝物を受け取り、天日槍が上陸したと思われる伊都県の長野で埋葬された伝承があります。また伊都県には新羅系の白木神社が4社もあり、高祖(たかす)神社が鎮座する高祖山の北東山麓には製鉄遺跡が数多くあるそうです。仲哀天皇の新羅及び天日槍との密着度がこれらから推し量られます。

天日槍に関して、「糸島郡誌」には日槍はまず新羅往来の要津たる伊都を領有し此に住し云々、と書かれている点を前回で指摘しています。以上から、糸島市は新羅との往来の要の場所であり、かつ新羅の王子だった天日槍が領有すると書かれるほど新羅と密接な土地柄だったことになります。仲哀天皇はそうした場所の中にいた訳ですから、当然新羅との関係も密接であり、新羅系の人物であった可能性さえ浮上してきます。一方の神功皇后は新羅の王子・天日槍の子孫となり、しかも新羅征伐に出ています。

都怒我阿羅斯等=天日槍=気比大神=仲哀天皇であれば、仲哀天皇と天日槍は同体になってしまいますが、幾らなんでもそんなことは有り得ません。ただ、そんな説も出るほど仲哀天皇が新羅に近い点は確認されます。このように、仲哀天皇と神功皇后が新羅や天日槍のキーワードに取り囲まれて存在しているのなら、長嶽山に埋葬されたとの伝承を持つ仲哀天皇の実像は、長野川流域の邑を支配していた親新羅或いは新羅系の首長だったことになります。

それを証するかのように、仲哀天皇の宮殿ともされ、天皇と神功皇后の霊廟であった香椎宮(香椎廟)の「カシヒ」は古代朝鮮語の「クシヒ」や「クシフル」に由来するとの説があります。さらに香椎宮に近い志賀島のつけ根に和白町(わじろちょう)があって、和白は新羅語で評議を意味し、しかもこの場所は香椎宮の神領でした。従って、新羅討伐の評議は実際には和白にて行われたと理解され、実際にそうした言い伝えがあるそうです。詳細は以下を参照ください。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=7&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjxmMeowdTmAhWJvZQKHQNUDTIQFjAGegQIBxAB&url=https%3A%2F%2Fwww.wikiwand.com%2Fja%2F%25E5%2592%258C%25E7%2599%25BD&usg=AOvVaw13Nn-N-DV3ILPCgycswbTI&cshid=1577404518699625

和白が安曇族の志賀海神社に近いこと、一帯が安曇郷の中心地と思われることから、評議には安曇族など海人系も参加していたと思われます。と言うか、新羅への遠征には海人の協力が不可欠なので、神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰の三人は彼ら自身の意志で蚊田から和白に出向き安曇族と相談していたのでしょう。もちろん仲哀天皇は不承不承だったはずです。

和白での評議において、親新羅或いは新羅系の仲哀天皇は討伐に反対し、同地から幾つかの場所を経由して糸島宇美八幡宮に近い室小路に戻った時点で殺害されたことになります。(注:あくまで同社の伝承に基づけばの話です)

和白(朝鮮語の読みでファベック)は新羅の族長会議を意味し、「新唐書」東夷伝新羅の条によれば、反対者が1人でもいれば審議事項は実施されないとのことです。会議で仲哀天皇が反対に回った以上、新羅討伐は実施できないことになるので、万やむを得ず天皇を謀殺する筋書きとなったのでしょう。神功皇后も仲哀天皇も新羅に所縁があるのになぜとの疑問も湧きますが、いつの世にも内紛は付き物です。

糸島市と同様に敦賀市には白城神社や信露貴彦神社など新羅系の神社が鎮座しており、新羅との濃厚な関係が推定されます。両社の詳細は以下の玄松子さんの記事を参照ください。
https://genbu.net/data/etizen/siraki_title.htm
https://genbu.net/data/etizen/siragihiko_title.htm

これらを踏まえると、気比神宮と糸島宇美八幡宮の関係性の背後には新羅の存在があったと確認されます。それらが背景となって、記紀などの史料に両地域の交流が書かれたと理解されますが、ではなぜ糸島市側における仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、応神天皇は角鹿を訪問したのでしょう?またなぜ敦賀市側から糸島市側に主要人物が赴いた伝承が皆無なのでしょう?難問ではありますが、新羅人の日本への渡来は敦賀の方が糸島より早かったと設定すれば、糸島宇美八幡宮→気比神宮のみの一方通行だった理由の説明にはなりそうです。

例えば新羅討伐に関して糸島市側の新羅と関係する人々は、より古い敦賀市側の人々に相談に行ったようにも見受けられます。「日本書紀」の垂仁天皇2年条一に云わくには、崇神天皇の御代に額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来た、と書かれています。一方天日槍の場合は垂仁天皇の時代の来訪とされ、都怒我阿羅斯等の渡来が天日槍より古い時代である点は確認されます。

二人は多分、渡来時期は異なるものの、新羅における同一集団にいたことから、同じ伝承が語られたものと思われます。なお都怒我阿羅斯等は意富加羅王子とされていますが、Wikiによれば、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる、とのことで、実際には新羅から渡来したのでしょう。

そこで、既に書いた内容を以下に再掲します。
糸島宇美八幡宮の由緒によると、神功皇后が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ皇后を守護すると述べています。これを現実に即して見れば、敦賀の人々が皇后の新羅討伐を助けたと理解できます。皇后は帰還後にその助力を多として敦賀にまで赴き、気比大神を祀ったと言うのが合理的な解釈になりそうです。
つまり、糸島市側のメンバーは新羅討伐に関して敦賀市側の渡来時期が古い新羅に関係する人々に相談に行き、出兵の協力まで得ることができたので、敦賀まで赴いて感謝の意を表し気比大神を祀ったと考えられるのです。

応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換した話は、実際には既に書いたように伊奢沙和気大神→御津気大神、気比大神への改名でした。これは古い北陸の新羅系が応神天皇の御代になって単なる保食神に変貌させられ、力を失ったことを示しているのかもしれません。気比大神の実像はなかなか解明が困難で、今後の課題とせざるを得ないものの、本論考において必要な情報は仲哀天皇と新羅の密接な関係であり、その点は確認できたと思います。

あれこれ纏まりなく書きましたが、以上から仲哀天皇の実像は400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた親新羅或いは新羅系の小さな邑の首長で、天日槍が率いた製鉄集団と近しい人物であった、と確認できることになります。
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酔石亭主

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