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古墳から見た大和の古代 その22

古墳から見た大和の古代
02 /13 2020

前回までの検討には不十分さが感じられたので、少し追加することにしました。取り上げるべき課題の一つに、かの有名な鎮懐石があります。石を裳の腰に挟んだら出産を遅らせられるなど、現実問題としては有り得ない話ですが、単なる伝説の類と切り捨てるわけにもいきません。その裏には才略にたけた「日本書紀」編纂者の意図が隠れているのではないかと推察されるからです。例えば、この石が何らかの仕掛けつまりギミックだとしたら、実際には存在しなかったとも考えられ、そうした筋道を付けられないか検討してみたいと思います。

鎮懐石に関して過去記事では、石の大小は別として実在するとの前提で論じてきました。それが存在しないとしたら、どうなるのでしょう?多分、全く違う歴史の姿が浮かび上がってくるはずです。またこの問題を検討する中で仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰の三者の関係にも光を当てられそうな気がしています。

そこでまず、鎮懐石が持つ機能を考えてみます。言うまでもなくそれは出産を遅らせることでした。これを一般常識に照らして見れば、編纂者は何らかの理由により皇后の出産を遅らせる形で記述する必要性があった。その必要性を満たすために鎮懐石を登場させた、となります。しかし、出産を遅延させる形にすることで、様々な矛盾も噴出してくるはずです。

幾つもの矛盾を、彼らはどう矛盾が目に付かないよう処理して書き込んだのか?そうした部分に留意しつつ「日本書紀」の記述を整理した上で「古事記」の内容も含めて検討してみましょう。と言うことで改めて「日本書紀」の関連部分を読み直してみると、想定通り幾つもの矛盾や問題を孕んでいました。少し長くなりますが、以下に列挙してみます。

「日本書紀」仲哀天皇8年9月5日条を簡略に書きます。
天皇は群臣を詔して、熊襲討伐を審議させた。その時、神が神功皇后にかかり、教え諭した。「天皇よ。なぜ熊襲が服従しないのを憂うのか?服属させるべきは財宝が数多くある新羅国であり、よく私(=神)を祀れば、その国は服従するし、熊襲も服従するだろう」
天皇はこの神の言葉を疑い、神に「周囲を見ても、海しかなく、国はありません。どこの神が私を欺こうとしているのか」と答えた。神はまた皇后にかかって言った。「お前は『国は無い』と言い、わたしの言葉を誹謗するというのか。私を信用しないならば、お前はその国を得られないだろうが、今、皇后は孕んだ。その子は国を得られるだろう」
天皇はそれでも信じず、強引に熊襲を撃とうとして勝つことは出来ず、帰還した。

(注:酔石亭主の文章では雰囲気を十分伝えられないので、ぜひ岩波書店版で全文を味読下さい)

8年9月5日条を読むと、極めて唐突な書き方ですが、この時点で皇后は懐妊したと理解されます。熊襲討伐を強行しようとするほど血気盛んな仲哀天皇ですから、読み手は当然、天皇の子だと確信します。また「日本書紀」には応神天皇が仲哀天皇の子と書かれており、血気盛んは別としても二人は夫婦なので、誰が読んでも皇后は天皇の子を宿したと受け止めるはずです。

けれども天皇は神の言葉(実際は神功皇后の言葉)を疑い、神意に反する態度・行動を取っています。その結果、神は天皇にお前は新羅を得られない、その子が得ると言いました。いさかいの挙句、神功皇后が天皇に「お前は新羅を得られない」などと言い放つ状況で、天皇が皇后を懐妊させるのは無理があります。この書き方から編纂者は、神功皇后の懐妊のお相手は仲哀天皇ではないと示唆しているように思えてきます。この条に関して、神功皇后の懐妊は仲哀天皇8年9月5日である点、また仲哀天皇は神に逆らったにもかかわらず、この時点で崩御しなかった点に留意ください。

「日本書紀」の仲哀天皇9年2月5日条
天皇はたちまち病み、翌日に崩御し、その理由は神の言葉(実際には神功皇后の意向)に従わなかったからだ
とあります。
8年9月5日条で天皇は既に神の言葉に従っていなかったのに、随分時間をおいて崩御した点に疑問が残ります。編纂者にはきっと何らかの意図があったのでしょう。(注:神功皇后摂政前紀の一に云うでは、病を得た当日の夜に崩御しています)

神功皇后前紀9月10日条(仲哀天皇9年に相当)
時にたまたま開胎(臨月)に当たるので、皇后は石を取って腰に挟み、事(新羅征伐)を終えて還る日にここ(伊都県)で生まれてほしいと祈った。

ここで鎮懐石が登場しています。まず奇妙に思えるのは、懐妊から臨月までほぼ1年以上もかかっている点です。これ自体が有り得ない話なので、編纂者は皇后のお相手が仲哀天皇ではないと示唆しているように見受けられます。

神功皇后摂政前紀12月14日条(仲哀天皇9年に相当)
誉田天皇(応神天皇)が筑紫にお生まれになった。

鎮懐石のお蔭で出産はさらに遅れ、懐妊から出産までの妊娠期間は15か月に及ぶことになります。臨月時点と出産時点のどちらも非現実的で不合理だと理解されます。従って、皇后のお相手は仲哀天皇ではないとの意識が読み手の中でさらに高まってきます。

この問題を合理的に解釈するため、出産時点から逆算して考えてみましょう。昔から妊娠期間を十月十日と言いますが、この期間に即して12月14日の十月十日前を見ると2月5日になります。驚いたことにこの日は仲哀天皇9年2月5日条の記事と同じ日で、天皇は急に病を得て翌日(或いは当日)には崩御となります。

翌日(或いは当日)に亡くなるような病気の身で皇后を懐妊させるなど不可能であり、ここでも皇后のお相手が仲哀天皇ではないと暗示しているように感じられました。「日本書紀」の編纂者は、建前としては仲哀天皇の子を応神天皇とせざるを得ないが、事実はそうでないとほのめかしているように思えます。彼らの策謀が見えてきそうなので、「古事記」の記事と比較検討してみましょう。

「古事記」神功皇后の新羅征討の段
神功皇后が神を招き神託を受けようとした。仲哀天皇が香椎宮で熊襲を撃たんとして琴を弾き、武内宿禰が神の命を請うた。天皇は新羅に遠征すべしとの神の言葉に従わず、偽りをなす神と言い、琴を押しのけて弾かなかった。神は怒り、この国はお前が統治する国ではない、あの世へ行けと言い放った。武内宿禰が琴を弾くように言うと、しぶしぶ弾き出したが、どれほどの時間も経たないうちに琴の音が聞こえなくなり、既に崩御していた。


「古事記」の記述では神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰の三者が新羅討伐を評議し、天皇が神の言葉に従わなかったのでその日のうちに崩御しています。天皇が熊襲討伐を主張し、新羅討伐をすべきだとの神の言葉に従わなかった点は、「日本書紀」の仲哀天皇8年9月5日条の内容と全く同じだったと理解されます。ここから「日本書紀」は、本来一日の出来事だった内容を二つに分け時期も変えて記載していたことになります。

当然その裏には何らかの意図があったと思われます。「日本書紀」の編纂者は「古事記」の内容に合わせ、本来なら9年2月5日条で新羅征討の評議、仲哀天皇の崩御、神功皇后の懐妊を書くべきだったのに、わざわざ8年9月5日条と9年2月5日条に分けているのです。なぜこんなにややこしい書き方をしたのでしょう?

「日本書紀」の編纂者としては皇統の連続性に鑑みて、応神天皇を神功皇后と仲哀天皇の子として書かなければならなかったはずです。但しこれは建前であり、事実ではなかった。本当の懐妊日である9年2月5日条で皇后の懐妊を書くと、今にも死にそうな(或いは当日の夜に崩御した)仲哀天皇が皇后と交合できるはずがないとの疑問や異議が噴出してしまいます。

仲哀天皇が皇后と交合できたと見せかけるには、新羅遠征の審議と懐妊を過去に飛ばし8年9月5日条で書くしかありませんでした。この場合、出産までに1年3か月を要するので鎮懐石の記事を挿入して、誤魔化したことになります。と言うか、二つに分ける書き方で、実際には8年9月5日に懐妊などしていない、だから皇后のお相手は仲哀天皇ではないと強く示唆していたのです。

仲哀天皇の8年9月5日条で新羅討伐が紛糾し皇后が孕んだ話を、仲哀天皇の9年2月5日条に置き換えれば、応神天皇の誕生が十月十日後の12月4日になるので何の矛盾も問題もありません。けれどもこの場合、既に書いたように9年2月5日に急の病を得た(或いは崩御した)仲哀天皇が皇后を懐妊させるなどできず、一方「古事記」によると新羅討伐の評議は神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰の三者で行われたことから、皇后を懐妊させ得るお相手は武内宿禰しかいないと確認できることになります。

さらに「日本書紀」の編纂者が狡猾だと思えてならない点があります。神功皇后摂政前紀12月14日条に誉田天皇(応神天皇)が筑紫にお生まれになった。と書いた後に、一に云う、として新羅征伐に関する神と仲哀天皇のやり取りが繰り返され、その夜に天皇は崩御したと記述しているのです。しかも、天皇が神の名を尋ねると神は住吉三神と答え、それに重ねて速狭騰尊(はやさのぼりのみこと)と答えます。天皇は皇后に向かって語り、聞き悪いことを言う婦人か、何で速狭騰尊と言う、と難詰しています。

上記から神と天皇とのやり取りが、実際には神功皇后と天皇のやり取りであったと判明します。と言うか、編纂者が今まで神の言葉として書いてきたものを、最後になって真実を暴露したのです。以上から、仲哀天皇は新羅討伐の評議をしていたその日に崩御していたと確認されますし、応神天皇誕生の記述に続いて仲哀天皇が新羅討伐の評議後に崩御したと書いていることから、応神天皇が仲哀天皇の子でなかった点も明確になります。

従って本来のあるべきストーリーは、仲哀天皇の9年2月5日において、武内宿禰、神功皇后、仲哀天皇の三者による新羅討伐の評議が紛糾し、同じ日の夜に天皇は謀殺され、その当日に神功皇后が武内宿禰と交合して子を懐妊した。そして同年十月十日後の12月14日に応神天皇(実際は安曇族或いは武内宿禰の子)が誕生し、めでたしめでたしとならざるを得ないように思えます。

以上から「日本書紀」の編纂者は、応神天皇が神功皇后と仲哀天皇の子供のように見せかけながら、その裏で本当は武内宿禰の子供で別人だよと示唆していたことになります。いかに編纂者が複雑で狡猾な策をめぐらせていたかが、これ明らかになりました。(注:明らかになりましたが、もう一つ裏がありそうな気がしています)

そして、9年2月5日の十月十日後となる12月14日に応神天皇が生誕するのなら、鎮海石など必要なく、この石はやはり単なる目眩ましのギミックに過ぎなかったと判明します。鎮懐石の記事は作り話と確認された結果、恐ろしいことに鎮懐石八幡宮と蚊里田八幡宮の存在も消滅せざるを得なくなってしまい、宇美町の宇美八幡宮もまた同様の憂き目を見ることになります。一方「古事記」には、新羅の領有を意味する内容の後に、政(まつりごと)がまだ終わっていない間に産まれそうになったので、御裳の腰に挟んだなどと書かれていますが、いかにも取って付けたような記事で真実味はありません。

ここまで「日本書紀」編纂者の意図を裏読みしながら書いてきましたが、ひょっとしたら裏の裏があるかもしれないので、そうした可能性がないか探ってみましょう。但し「日本書紀」ではなく「古事記」からです。「古事記」の神功皇后新羅征伐の段を読むと、以下のようにちょっと不審な内容が書かれていました。

仲哀天皇が崩御した後、罪汚れを祓う行事を行った上で武内宿禰が神の命を請うと、神は神功皇后のお腹の子がこの国の統治者になると言った。これに対して武内宿禰は「恐ろし(かしこし)、我が大神、その神(神功皇后)の腹に坐す御子は、いづれの御子ぞや」と尋ねた。これに対し神が「男子(おのこご)ぞ」と答えたので、今そう教示いただいた大神の御名の詳細を知りたいと武内宿禰が請うた。すると神は天照大神の御心ぞ、また住吉三神の大神ぞ。と答えた。

武内宿禰が「いづれの御子ぞや」と大神に尋ねたのは、男の子か女の子かではなく、誰の子かと聞いたように受け取られるのに、大神は「男の子」としか答えていません。その答えに納得できなかったかのように、武内宿禰は続けて「そうお教えになられた神の御名を知りたい」と畳みかけているのです。すると神は天照大神の御心ぞ。また底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神ぞ、と答えました。

この異様な問答は武内宿禰が神功皇后に孕んだ子供は誰の子だと問い、男の子だとの答えに納得できずさらに問い詰めたので、皇后は仕方なく住吉大神だと答えたように見受けられます。(注:天照大神に関しては「御心」なので具体性がない)それを証するかのように「住吉大社神代記」には、仲哀天皇が崩御した晩に、神功皇后と大神の間で密事(むつびごと。夫婦の交わり)があった、と書かれています。具体的には以下の通りです。
於是皇后與二大神有密事。注記:俗曰、夫婦之密事通。

これに加えて、「日本書紀」神功皇后摂政前紀12月14日条に誉田天皇(応神天皇)が筑紫にお生まれになった。とする記事があり、その後の一に云うで、新羅征伐に関する神と仲哀天皇のやり取りが繰り返されています。そして天皇が神の名を尋ねると神は住吉三神と答えていることからも、住吉大神が評議に参加していたと確認され、大神が皇后のお相手だった可能性は高いことになります。武内宿禰は自分の子かと思っていたのに違う答えが出て、さぞがっかりだったことでしょう。

となると、天皇が崩御してから神功皇后、武内宿禰、住吉大神は乱交していたことになります。ここで三者は絆を最大限にまで高め、新羅討伐で完全合意したのでしょう。但し、住吉神が港や航海の安全祈願で国家的な祭祀を担うようになったのは後の時代であり、住吉大神と書かれた記事の実態は安曇族と考えるべきです。それは新羅討伐の評議が行われたのが和白であり、同地がかつての安曇郷(筑前国糟屋郡安曇郷)であることからも確認されます。「その20」にて、「気比宮社傳」によれば、仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に詔し同地にて気比大神を祀らせ、これが創始とされています。と書いていますが、この記事からも住吉大神と書かれた記事の実態は安曇族であると理解されます。

なお北九州の蚊田で誕生した応神天皇は誰の子かの議論は、北九州における神功皇后が大和の神功皇后より80年も遅い時代の人物なので、実際には議論として成り立ちません。北九州で起きた変事の真相は多分、和白における神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰、安曇族の新羅討伐に関する評議において仲哀天皇一人が反対し、既に書いたように和白の評議では一人でも反対者がいるとその評議事項は実施できないことから、やむなく仲哀天皇を謀殺し、反対者のいない形で討伐の評議が決したと言う事実のみで、それ以外の記事は粉飾されたものになりそうです。

以上から、神功皇后の懐妊と応神天皇(実際には安曇族或いは武内宿禰の子)の誕生、そして鎮懐石も全て、目的は神功皇后から応神天皇へと繋いで日本の歴史を限りなく大きく見せるための「日本書紀」編纂者による仕掛けすなわちギミックに他ならないと判明しました。よくもまあこれだけの離れ業ができたものだと、ひたすら感心するしかありません。

結局編纂者は神功皇后と言う一人の人物の時代において、書紀紀年では240年から260年頃の卑弥呼と台与の時代、実年代では300年代後半、北九州においては440年から460年頃までの、合計およそ220年分を描き出したことになります。当時の衛生状態などを勘案すると、せいぜい50年程度の寿命しかない人物紀の中で、できるだけそうとは悟られないよう220年分にまで拡張させた訳ですから、その手腕にはもう脱毛、いや脱帽です。

佐紀古墳群の検討をする中で北九州の問題にまで踏み込み、最も謎の多い仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の生誕までを見てきました。多少の成果はあったと思いますが、あくまで一定の切り口から見たものに過ぎず、切り口が異なればまた別の結論に至る可能性もある点お含み下さい。以上で本シリーズは終了です。

佐紀古墳群を見た後に、幾つかの大和のお寺も訪問していますので、別途書きたいと思います。
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酔石亭主

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