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北九州古代史の謎を解く その15

北九州古代史の謎を解く
04 /29 2020

今回は台与一行が宇佐市と行橋市のどちらに移動したのかという問題から検討を進めつつ、最後まで残ってしまった天孫降臨の意味やその具体的な内容について考えてみます。台与一行の東遷は酔石亭主の勝手な推論なので特定可能な史料はありませんが、台与以前の饒速日や、台与以後における神武天皇の大和への東遷が間接的な材料にはなりそうです。

例えば東大阪市東石切町1丁目1-1に鎮座する石切劔箭神社の神話によると、饒速日は日の御子の証である天羽々矢も携え天磐船に乗り込み、船団を組んで高天原を出航。船団が豊前国(大分県)の宇佐につくと、息子の天香具山命に船団の半分をあずけ、自らは瀬戸内海を通って大和に向かったとあります。神話ではありますが、台与以前は宇佐からの出航と確認されました。また瀬戸内海を航行して大和に向かった点も書かれています。詳細は「石切劔箭神社ホームページ」を参照ください。

「日本書紀」の神武天皇即位前紀によれば、天皇は塩土老翁から、東に善き地があり天磐船に乗って飛び降りるものがあると聞き、それが饒速日だったので自らも東征を決意し、筑紫国(実際には豊前国)の宇佐に至り、次に筑紫国の岡水門(遠賀川の河口付近。以前「尾張と遠賀川流域の謎を解く その7」にて詳しく書いています)に至ります。

続いて安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)に移り、難波にまで来て河内国の草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩之津(しろかたのつ)に上陸しました。台与以後に関してもやはり宇佐であり、瀬戸内海を航行しています。

台与の東遷は饒速日と神武天皇の間の時代となることから、彼女も基本的にはこのルートを辿ったものと容易に推察されます。すなわち豊前国の宇佐から出航し瀬戸内海を渡り、途中投馬国であった吉備国などに停泊して難波に到着。大和の入り口となる草香邑(東大阪市日下町)、白肩之津(枚方市?)で上陸したことになります。ただ酔石亭主は、台与一行は上陸せずそのまま大和川を遡り、大和に入ったと考えています。

「古事記」における神武天皇の行程には少々問題点もあり、日向を発って筑紫国を行幸し豊国の宇佐に至ったと書かれていました。この場合、南九州の日向国のようにも見えてしまいますが、日向国とは書かれていないし、そもそも当時日向国は存在していないので、糸島市の日向と見做せることになります。加えて既に書いたように、「大震国本紀」には伊都国が日向国だと記されていました。

筑紫国の中にある日向国(伊都国)を発って筑紫国を行幸したとの文面はややおかしいようにも思えますが、現代を例に取ると、例えば名古屋市を発って愛知県を行幸し、と書くのと同じなので、問題は解消できそうです。宇佐以降は筑紫の岡田宮(遠賀郡芦屋)、阿岐国(広島県)、吉備(岡山県)、難波、白肩津のコースとなっています。

「日本書紀」にも問題点があります。神武天皇即位前紀には神武天皇の諱(ただのみな、実名のこと)が彦火火出見とあります。彦火火出見尊は日向二代の人物なのになぜ神武天皇の諱と同じなのでしょう?妙ですね。多分編纂者の当初構想では、彦火火出見尊が東征することになっていたのです。

その場合、神代と人代の間が短すぎるため、日向三代を間に置いて調整を図り、彦火火出見尊の東征を分離して神武天皇に充てる形としたのでしょう。この論点は相当説得力があり、「日本書紀」岩波書店版の補注(巻三)四の神武天皇東征説話にもほぼ同様に書かれ、東征した彦火火出見尊(=神武天皇)が南ではなく北九州にいたと確認される結果にもなっています。

ただ酔石亭主は、上記に加えて、編纂者が実年代を念頭に置きこのような人(神)の配置にした可能性もあると考えており、後の回で検討してみます。天照大神から神武天皇までの系譜は以下となりますので、ご参考としてください。

天照大神(卑弥呼)―天之忍穂耳命―瓊瓊杵尊-彦火火出見尊―鵜葺草葺不合命―神武天皇

次の問題として、神武天皇は長じて日向国の吾田邑(あたのむら、薩摩国吾多郡吾多郷)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶った点が挙げられます。これでは初代の天皇が天皇家に敵対した隼人の女性を娶ったことになり、隼人(この時点では南方系の海洋民族)の地が皇室の発祥地となってしまいます。

岩波書店版の補注(巻三)四には逆賊の占領地で長く国家組織に加わっていなかった土地が皇室の発祥地であり得たのは、天皇を日の神の子孫とした以上、その故郷を日の出ずる方に向かう国とするしかなく、作為された説話だとする津田左右吉氏の見解が載せられています。(注:内容を要約しています)

岩波の補注は一定の説得力もありますが、日向を鹿児島の前提で書いており、その場合地理的に日向とは言えないのではないでしょうか?日に向かう国としての日向にきちんと当て嵌まるのは宮崎になるからです。(注:日向国成立当初は宮崎と鹿児島の両方が日向だったと推定されています)だとすれば、宮崎は台与に近い時代から大和と何らかの関係があったことになります。

そう考えて調べたところ、宮崎県には日本最大級の西都原古墳群があり、最古とされる第81号墳は3世紀末から4世紀初頭に築造の前方後円墳で、墳丘長は約54mあり、大和の纏向石塚古墳(注:築造時期は3世紀初めから半ばまで諸説あって、墳丘長は96m)の相似形とされていました。

(注:81号墳に関して当初4世紀初め頃とされていたものが3世紀半ば頃に修正されたとの説がネット上に見られますが、後に再度修正され4世紀初頭前後になったと酔石亭主は理解します)

また宮崎には築造時期が5世紀前半に下るものの、九州最大の前方後円墳で仲津山古墳を元にして築造されたとの説もある女狭穂塚古墳(めさほづか、176m)など大和との関係が推定される古墳が見られます。

上記した大和と南九州(宮崎)の関係は、北九州から大和と南九州の両方に移動した人々がいたから、一定の関係や情報交換があったとする以外に適切な説明が付きません。81号墳の詳細は「宮崎県教育庁のホームページ」を参照ください。

上記をうまく纏めるには、台与以降にも大和への東遷があり、その際、台与の時代に南九州の宮崎に移動したグループにも声が掛けられ、隼人系の女性と結婚していた宮崎の首長がこの東遷に加わったことから、神武天皇の后を隼人の女性とする説話が形成された、と設定するしかなさそうです。

そうした仮説をベースにすれば、神武天皇と隼人系の后、大和と宮崎との関係の両方に合理的な説明が付けられることになります。とは言えここで重要なのは神武天皇と隼人系后ではなく、大和王権と宮崎(日向)の関係であり、そうした関係性が成立した背後には、台与一行による大和と宮崎の二方向への移動があったと推察される点です。この視点なしには大和と宮崎の関係を合理的に説明できないと思料します。

少し話がそれましたが、饒速日の東遷と神武天皇の東征に関する「日本書紀」の記述内容から、台与一行の北九州における最終地点が宇佐であり、一行の北九州から大和への移動経路は瀬戸内海だったと確認されたことになります。

また台与一行は宇佐市から船で瀬戸内海を渡り大和へと向かい、別動隊は南九州へ向かったことが、南九州に日向の地名や日向三代の痕跡があった理由となるでしょう。天孫降臨神話には、伊都国→早良国(実態は初期の伊都国)→宇佐市だけでなく、宇佐市→南九州と言った異なる要素も混在してしまったため、分別できず後代の混乱を招いたものと思われます。

今回天孫降臨の意味やその具体的な内容に触れることができなかったので、台与一行の伊都国から宇佐への移動を、天孫降臨に絡めながら次回で検証していきます。その決め手となるのが日向の地名です。

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酔石亭主

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