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北九州古代史の謎を解く その4

北九州古代史の謎を解く
04 /03 2020

今回は邪馬台国が北九州に存在できない九つ目の理由を検討していきます。

9台与の女王国からの移動を証明できるか。
 何度も書いているように北九州では小国が乱立し争いの絶えない状況が続きました。卑弥呼の時代になっても、晩年の正始8年(247年)に狗奴国と戦争状態であると帯方郡太守に奏上しています。卑弥呼の死後男王を立てたものの、国中(注:倭国の中)が不服で互いに殺し合い千余人が殺されました。その後台与が宗女となり国中は安定しますが、一旦平穏になっても再び争いが起き、移動を余儀なくされたと容易に想像できます。もちろんこれは酔石亭主の想像に過ぎないので、より明確な根拠を与える必要があります。

例えば卑弥呼以前の100年代終盤頃、饒速日(にぎはやひ)は大和に東遷しました。理由は倭国大乱による混乱から逃れるためと推察されます。事実関係は別として神武天皇も九州から大和へ東遷しており、それに相当するような動きがあったのは間違いなさそうです。つまり、九州から大和へと移動する流れは卑弥呼以前、卑弥呼以後にもあったと考えられるのです。饒速日以前にも遠賀川式土器が東に伝わり、尾張にまで到達している点は「尾張と遠賀川流域の謎を解く」シリーズで詳しく書いています。九州勢力の東遷は数次に亘ったと考えられ、台与の移動を一定程度裏付けるものにはなり得ます。

女王国において台与は日々卑弥呼の霊を祀っていました。しばしの間は倭国も平穏でしたが、小国乱立の国柄、再び争いごとが激化し、台与は女王国の移転を決断します。決断に当たっての大きな問題は、他の場所に移ると卑弥呼の霊をその墓前で祀れなくなることです。やむなく台与は、本来なら絶対に許されないはずの卑弥呼の墓を開き、中から卑弥呼と太陽を象徴する鏡(八咫鏡)を取り出し、その鏡を卑弥呼の霊=天照大神として祀ることにしました。

この経緯は「日本書紀」の天岩戸伝説に象徴的に書かれています。神代上第七段、一書に曰くには、日神が岩戸から出るとき、鏡をその石窟に入れていたので、戸に触れて小瑕が付いた。その瑕は今もなお残っている。それがすなわち伊勢に斎祀る大神(天照大神)である、と記載されていました。日神と鏡が別のような書き方にしてありますが、よく読めば日神である天照大神が鏡だとすんなり理解できる内容です。

以上から、「日本書紀」の天岩戸神話は台与が卑弥呼の墓から鏡を取り出したことを証明するものだったと確認されます。その鏡が崇神天皇の時代大和にあった事実は、鏡が北九州から大和に運ばれたことの証明になるでしょう。鏡(=天照大神)が大和から伊勢に運ばれたことも、上記した「日本書紀」では簡略に、また「倭姫世記」では詳しく記述されています。

「晋書」には泰始二年(266年)十一月 倭人、来たりて方物を献ず、とあり、これに対応する日本側の記事としては、「日本書紀」の神功皇后紀66年条に以下の内容が書かれています。

この年、晋の武帝の泰初二年(泰始二年の誤り)、晋起居注に云う。武帝の泰初二年十月、倭女王は譯を重ねて遣わし貢献す

ここに書かれた倭女王とは台与で、彼女はこの時点で既に大和へ移動していた可能性があります。理由は「晋書」の成立が唐の時代の648年であり、その時点における編纂者は大和王権の存在を当然知っており、しかも大和の古名は倭、大倭であったからです。北九州倭国の台与が大和に移動したから大和(やまと)の古名が倭(やまと)になったと考えれば、「晋書」の編纂者が倭女王と書くのも当然の話となります。(注:「魏志倭人伝」で景初二年(238年)六月、倭の女王は大夫難升米たちを、帯方郡に使者として遣わし云々と書かれた部分は北九州倭国の女王で卑弥呼です)また「梁書」(629年の成立)の倭伝には以下の記述がありました。

正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、並んで中国の爵命を受ける

台与は卑弥呼が死去し、男王が立ってまた争いになった後に13歳で後継宗女すなわち女王となります。台与が275年頃に死去したとして、その後また男王が立てられるのであれば、少し遅れて崇神天皇(290年から318年頃在位の人物)の時代となります。卑弥呼以降、男王→台与→男王が北九州にいたとして、では台与と男王の墓は北九州のどこにあるのでしょう?大和であれば、台与は箸墓古墳の被葬者となり得るし、続く西殿塚古墳、外山茶臼山古墳、メスリ山古墳を経て崇神天皇の行燈山古墳へと連続していきます。

これらを踏まえて、台与後の男王に該当しそうな糸島市の古墳を見ていきましょう。平原遺跡から1kmほどの場所に端山古墳があるので、内容をWikipediaより引用・抜粋します。

端山古墳(はやまこふん)は、福岡県糸島市三雲にある古墳。古墳時代前期(4世紀初め頃)築造と推定される前方後円墳である。全長78.5メートル、古墳時代前期)と推定されるが、前方部は完全に消滅していて、大きな円墳状態になっている。
前方部は二段築成、後円部は三段築成で、斜面には葺石が施されている。前方部の長さ約38メートル、後円部の直径は約42メートル、高さ約8メートル。盾形の周濠が廻らされており、周濠を含むと全長は約99メートルとなる。
古墳は、細石神社の北東約200メートルの所にあり、さらに、北西約1キロメートルには平原遺跡がある。付近は魏志倭人伝の伊都国の主要な地域と考えられている。 古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられている。



端山古墳の位置を示すグーグル画像。

端山古墳の詳細写真等は以下のPDFファイルを参照ください。
http://ohoka-inst.com/hayama999.pdf

端山古墳の検討は次回とします。
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酔石亭主

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