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北九州古代史の謎を解く その5

北九州古代史の謎を解く
04 /06 2020

前回の端山古墳に関するWiki記事で、「古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられている。」と書かれた部分は、ほぼ同じ内容が古墳の解説板(糸島市教育委員会作成)に記されていました。これに対し「梁書」では、また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、並んで中国の爵命を受ける。と書かれています。果たして二つはきちんと整合しているのか考えてみましょう。

まず「梁書」の記事に沿い、台与(臺與)→男王(共立された倭国王)から見ていきますが、男王が端山古墳の被葬者と仮定して検討を進めます。古墳が300年代初頭頃の築造であればこの人物は、13才で250年代に卑弥呼の後継宗女となった台与の後を継ぎ、280年から290年代末頃にかけて勢力を持ち、300年の初め頃築造された古墳の被葬者となるので、年代的にはきちんと整合しています。

また古墳の規模は全長が78.5メートルなのでやや小さいと思われますが、共立された王と考えれば男王(倭国王)の条件は満たしているようにも見受けられます。これらを整理すれば台与→男王=豪族との仮定が正しそうに思えてきます。ところがです。上記の場合だと伊都国が300年頃まで存続するので、端山古墳の記事内容と矛盾します。加えて台与の墓となる古墳が糸島市に見当たらない点も気になります。

端山古墳の被葬者は、解説板によれば伊都国王に代わる豪族ですから、伊都国と豪族との間には大きな隔たりがあります。すなわち台与の治世中、或いはその後の280年頃に伊都国は消滅したか断絶し、豪族の世となったことになります。この場合、台与の後に立つ男王が豪族とはならないし、豪族が大和と深い関係がある点も「梁書」の記事と矛盾してしまいます。また伊都国は千戸程度の小さな国なので、その地域だけを支配する豪族が全長78.5メートルの古墳を築造できるとは思えません。倭国全体を統括すべき男王は伊都国地域の豪族とは立場も異なります。

従って、台与→男王=豪族は成り立たず、台与→男王、台与→豪族と二つの異なる流れが相互に矛盾せず成立するかがポイントになるはずです。その前提条件を満たせるか台与→豪族の流れを追ってみましょう。その場合、台与と豪族の関係、豪族と大和王権との深い関係を同時に証明できるような筋道で読み解いていく必要があります。

端山古墳の解説板が豪族と大和王権との深い関係を指摘するのは、同古墳の盾形周濠が大和王権の古墳に特徴的なものなので、それを根拠に書いたものと推察されます。けれども、それだけで大和王権との関係を説明するのは無理がありそうです。もっと別の見方がないでしょうか?

周濠を持つ大和最古の前方後円墳は酔石亭主が台与の墓と考える箸墓古墳で、築造は200年代後半と推定されています。従って、この豪族は大和王権との関係と言うより、卑弥呼の後継宗女だった台与との関係から箸墓古墳を真似て周濠のある前方後円墳を築造させたと理解すべきです。また、全くの推測ですが、大和における盾形周濠は端山古墳の周濠の形状を参考にしたのかもしれません。

端山古墳の被葬者である豪族に関して、内紛の続く北九州で大和の勢力をバックにして伊都国(台与の次の男王)を攻め滅ぼした人物と推定することも可能です。けれども、当時の大和勢力は北九州における内紛を避けるため畿内に向かった人々が主流なので、彼らが王権としての立場で北九州を影響下に置いていたとは到底思えません。

以上から、端山古墳の被葬者である豪族とは台与の次の男王ではもちろんなく、例えば伊都国の台与時代における大率の子供で、幼すぎるため大和には向かえず北九州に残留した人物となりそうです。台与が255年頃に伊都国内(或いは伊都国の南)にあった女王国を離れたとして、当時1歳だった赤ちゃんが280年頃地域の豪族としての地位を固め、290年代末に死去して300年の初めに端山古墳が築造されたと考えれば、台与→豪族の流れや各年代・年齢などに不合理な点はありません。(注:伊都国王の赤ちゃんとの設定も可能です)

また「魏志倭人伝」によると伊都国王は卑弥呼に世々従ったとされていますから、卑弥呼の宗女である台与にも当然従うはずで、台与の移動に伊都国王の一行も同行したと判断され、これにより伊都国が255年頃消滅した点も確認されることになります。

台与と端山古墳に葬られた豪族との関係、豪族と大和との関係(注:実際は豪族と大和に入った台与との関係)はほぼ明らかになりましたが、台与→男王の流れはどうでしょう?こちらは簡単で、台与が大和に入り死去した後に王位を得た人物と考えれば、「梁書」に書かれた台与→男王の流れも一応確定されそうです。

台与の古墳が糸島市に見当たらない疑問も、彼女が大和に東遷し箸墓古墳に埋葬されたとすることで解消されるでしょう。結局、台与の東遷と言う要素を投入することで、台与→男王、台与→豪族の二つの相容れない流れに何とか筋道が付けられ、同時に邪馬台国とは近畿地方全域を意味すると証明できたことになります。

伊都国内或いは伊都国の南にあった女王国が大和に東遷すれば、ほとんど自動的に中国王朝の北九州連絡窓口が消滅してしまうので、中国史書に約150年間も日本関係の記事が登場しなかったことを証明する小さな一助にもなりそうです。まだ論証としては不十分な面も多々ありますが、台与の大和東遷に関連して、卑弥呼→男王→台与→男王の流れを年代順で以下のように推定してみます。

卑弥呼の死去(248年)→男王(248年~250年)→台与(女王国女王:250年~255年)、
台与(宇佐市又は行橋市に滞在:255年~256年)、台与(大和時代:256年~275年)、
台与(箸墓古墳:280年頃)→男王(280年~290年末頃に在任。西殿塚古墳被葬者?)

もちろん上記に関して異なる流れを想定することも可能ですが、今までの検討内容を総合的に見れば、酔石亭主の推定の方が可能性は高いのではないでしょうか?さて、東遷を決めた台与は鏡(天照大神)を卑弥呼の墓から取り出して、伊都国の南から九州の別の場所に移動します。では台与一行はどのような経路を辿ったのか?糸島市を出て最初に向かった候補地の一つは宇佐市です。伊都国の南(平原王墓)から宇佐までの直線距離は約106㎞となります。

「魏志倭人伝」に書かれた伊都国と女王国間の距離も一里77mとした場合115㎞、88mとした場合132㎞ですから、女王国までの距離の矛盾はある程度解消されたことになります。またご存知のように邪馬台国宇佐説が何人かの研究者によって唱えられています。宇佐に女王国の台与が移動し天照大神も遷座したから、後代にその重要性が伝わり邪馬台国の候補地ともされたと思えませんか?

もう一つの候補地が行橋市です。「豊前国風土記」には、「宮処の郡 むかし天孫がここから出発して日向の旧都に天降った。おそらく天照大神の神京(みやこ)である。云々」と書かれていました。宮処の郡とは現在の行橋市一帯に相当します。台与が鏡(天照大神)を奉じて行橋市のどこかにしばし留まり、台与を含む主力は瀬戸内海を東に、別メンバーが南九州(注:台与当時は日向の国名は存在しない)に向かったと考えれば、一定の筋は通ります。「魏志倭人伝」に投馬国と邪馬台国への方位が南と書かれているのは、南九州に向かった別動隊の情報があり、これが混乱の元となったのでしょう。

平原王墓から行橋市までの直線距離は約75㎞ですから、実際の行路がその1.5倍として113㎞になります。距離を考えると行橋市(注:邪馬台国行橋市説もある)も有力ですが、現状ではどちらからも決定的な論拠を得られないため特定することは困難です。他の情報も仕入れつつ、もっと後の回で再検討したいとは思っています。

卑弥呼の墓から取り出された鏡(天照大神)はその後瀬戸内海を経由して大和に運ばれました。年代的な整合性を考えれば、運んだのは台与以外に考えられません。(注:鏡は第5代考昭天皇の時代から宮中で祀られたとされる)そして第10代崇神天皇の時代に宮中を出ています。

邪馬台国(近畿地方全域)は、「魏志倭人伝」によると不弥国の後に南投馬国と続き、その後に南邪馬台国と記載されています。この方位を勝手に東に変えるのは問題との指摘もありますが、そもそも南であれば熱帯の海に至るし、西は東シナ海を経て中国大陸となるし、北は朝鮮半島に戻る形となって有り得ません。

よって選択肢は東(=ひんがし=日向し=太陽の出る天皇家にとって良き方向)しかないのです。記紀の神代の段には日向と言う地名が頻出することも、台与の東への移動を証明するものと見るべきでしょう。(注:台与グループの移動は北九州の各地にある日向の地名とリンクしていると思われ、後の回で検討する予定です)

鏡(天照大神)を奉じる台与はしばし宇佐市か行橋市に留まった後、争いの続く北九州を棄て瀬戸内海を東に向かい、投馬国(吉備と推定)を経て難波から大和川を遡り大和に至ったと理解されます。「魏志倭人伝」に邪馬台国は女王の都する所と書かれた女王とは台与を意味していたのです。(注:北九州の域内及び大和に至るまでの移動経路も後の回で検討します)

台与の大和への移動を証明するものが、天岩戸伝説と崇神天皇の時代まで宮中で祀られていた天照大神の存在でした。その後天照大神は後継宗女である豊鋤入姫命、倭姫命の手で伊勢に遷座し、祀られます。従って、伊勢神宮こそが卑弥呼の女王国の最終形態になるのです。三重県多気郡明和町には伊勢神宮に奉仕した斎王の御所・斎宮があり、現在も発掘が続いています。その規模は東西約2キロメートル、南北約700メートルと広大です。ひょっとしたら女王国のイメージを参照し、模したものが斎王の御所・斎宮だったのかもしれません。

北九州・倭国と近畿・邪馬台国のありようには似通った部分もあります。倭国は北九州全域を意味し、卑弥呼が倭女王と称されたのと同様に、邪馬台国も近畿全域を意味し台与は邪馬台国の女王と称されたのです。また大和の古名は倭、大倭であり、北九州・倭国から東遷した台与が持ち運んだものと考えれば、両者のありようや国名に似通った部分があるのも当然の話となるでしょう。

以上で「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国は近畿地方全域を意味すると確認されました。(注:卑弥呼の女王国が北九州の伊都国内或いは伊都国の南に存在する可能性は非常に高いと思われますので、次回以降その見方を論証すべく具体的に検討していきます)

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酔石亭主

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