熱田神宮の謎を解く その1


ここ数カ月間は写真を載せるだけのお手軽記事ばかりが続きました。そろそろ歴史の謎解きに挑戦しなければと思いつつ、果たせないまま時間だけが経過した次第です。そこで面白そうなテーマがないか考えた結果、比較的短いシリーズで済みそうな熱田神宮の謎を取り上げることにしました。と言うことで、早速書き始めます。

熱田神宮は名古屋市内にあって誰でも手軽に行ける場所です。ところがその手軽さと反比例して、この神社には謎が多いように思えます。例えば、熱田神宮が鎮座する熱田は古来より蓬莱の地とされ蓬莱島と称されています。

日本においては蓬莱の地は三カ所あるとされます。すなわち、紀州熊野、尾州熱田、富士山麓です。熊野と富士山の二カ所には徐福伝承と秦氏の存在が認められます。一方熱田神宮は蓬莱宮と称されるものの、徐福伝承は存在していません。ここで「尾張名所図会」の記述を参照します。

041_convert_20121020154846.jpg
尾張名所図会。

達筆な上に撮影が下手ではっきり読めませんが、「蓬莱」に関して記載があり、「本朝神社考に本朝における蓬莱は富士、熊野、熱田であるとされ、東海瓊華集には秦の徐福が海に入り三神山に不死の薬を求めたが遂に帰らなかったとある」との主旨で書かれています。名所図会は蓬莱と徐福を関連付ける意図があるようにも見受けられますが、これをもって熱田に徐福伝承があるとは言えないと思います。

さらに熱田周辺には「旗屋」など秦氏地名と推定される場所もあります。けれども、秦氏が活動した痕跡は見当たりません。ここに熱田神宮を含む熱田の特殊な立場があります。この問題は「鎌倉大仏の謎 その7」や「秦さんはどこにいる? その7」でも少し触れています。

なぜ他地域と異なり蓬莱の地であるはずの熱田に、秦氏や徐福伝承の痕跡が見られないのでしょう。これは不思議です。

熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ大社とされます。そして神社の主祭神は草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)であり、神剣を御霊代(みたましろ。神または人の霊魂の代わりとして祭るもの)とした天照大神です。ところが熱田を含む一帯地域は尾張氏の拠点であり、熱田神宮の社殿はかつて尾張造りと言う形式でした。それが明治26年になって天照大神を祀る伊勢神宮と同じ神明造りに変えられているのです。

同様の変化は御祭神にも現れています。天保15年(1844年)に編纂された「尾張志」には、神剣は日本武尊の御霊代と書かれています。ところが熱田神宮のホームページを見ると、「ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです」となっていました。いつの間にか日本武尊が天照大神に変わっているのです。(古い史料によっては天照大神が相殿神にも入っていません)

草薙神剣(天叢雲剣)は三種の神器の一つで、他には八咫鏡と八尺瓊勾玉があります。これらは歴代天皇が継承してきた宝物で、天皇の地位と正統性の証でもあります。現在八咫鏡は伊勢神宮に、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているとされます。八咫鏡が伊勢神宮にあるのはわかりますが、なぜ皇室を象徴し、その存在が皇統の正統性を担保する草薙神剣は熱田神宮にあるのでしょう?熱田神宮のありようには、かなり無理な操作が行われているような気がしないでもありません。

また、なぜ日本武尊は東国征伐に際し草薙神剣を持って行ったのに、伊吹山の神を討伐する際は宮簀媛命の元に預けて行ったのか?熱田神宮は草薙神剣を祭る神社なのに、本宮の相殿神として草薙神剣とは直接関係のない建稲種命が祀られているのはなぜか?建稲種命の父で、より重要な人物と思われる初代尾張国造の乎止與命(おとよのみこと)はなぜ相殿神として祀られていないのか?など、数多くの謎が存在します。

(注:相殿神とはWikiによれば、「相殿(あいどの。合殿とも書く)とは、主神を含めて複数の神が祀られた社殿のことを指す。「相殿神」とは相殿に祀られる神のことであるが、主神と配神とがある場合は配神のことを相殿神という」となります)

こうした謎に迫るには熱田神宮を見るだけでは不可能と思えます。時間軸や空間軸をより広く取って探索する必要性があるのです。

と言うことで、まず名古屋市周辺にはほとんどないと思われる秦氏の痕跡をいつもの手法で探ります。地図を見ると熱田神宮の北西に「旗屋」と言う地名が出てきます。これは以前にも書いていますが、秦氏地名かもしれません。


大きな地図で見る
旗屋を示すグーグル地図画像。

調べてみるとこの場所はかつて幡綾村でした。この地名で閃くものがあります。秦王国である豊前国には綾幡郷があり、宇佐八幡宮の元宮とされるのは福岡県築上郡椎田町の矢幡八幡宮(豊前綾幡郷矢幡八幡宮)です。ここに鎮座する金富神社は原始八幡神顕現の霊地ともされています。秦氏にとって最重要拠点の地名綾幡をひっくりかえしたものが幡綾ですから、秦氏地名である可能性はより高くなります。

なお「蓬州(尾張の別称)旧勝録」によれば、幡綾臣は甚目(はだのめ)臣とあります。甚目氏は名前からしても秦氏の傍流氏族と考えられます。「蓬州旧勝録」は愛知県図書館がデジタルライブラリーにて公開しており以下で全文を見ることができます。膨大な引用資料を駆使して書かれており参考になりますが、読みにくいので大変です。
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/28.html

では幡綾の地名は何に由来するのでしょう?調べてみると、雄略天皇の時代に呉から渡来した綾織女が熱田神宮に仕え、織物を織った機屋がこの地にあったことから幡綾となったのが始まりとのことです。多分、幡綾が転じて機屋になり、最後には旗屋となったでしょう。

別の説としては、日本武尊が東征のとき天から幡が降り、これを日本武尊に捧げた、或いは、日本武尊が命を落として白鳥となって飛んだとき旗が落ちたので旗屋になったとされます。大幡の飛翔伝説は「富士山麓の秦氏」の後半部分で詳しく書きましたが、秦氏の移動経路を示しています。移動経路に当たる都留市の大幡川脇には機神社も鎮座しています。

これらの説は「尾張志」などを参照ください。「尾張志」の場合、以下のようにデジタルライブラリーとなっています。
http://www.aichi-pref-library.jp/wahon/pdf/1103283666-001.pdf

以上から、「旗屋」の地名由来はどの説も秦氏との関係が推測される結果となりました。秦氏地名の検討を続けます。熱田神宮の北西、名鉄金山橋駅のほぼ西には幡野と言う地名があります。これも秦氏地名と思われます。


大きな地図で見る
幡野を示すグーグル地図画像。

その西には高畑や八田と言う地名がありました。名古屋市北区には春日井方面から八田川が流れ、地図上では庄内川を越えて名古屋城に続いているように見えます。名古屋城の近くには田幡と言う地名もありました。さらに見ていくと、多奈波太神社(たなばたじんじゃ)が北区にありました。鎮座地は名古屋市北区金城 4-13-16。 主祭神は天之多奈波太姫命 となっています。「尾張名所図会」を見たところ、多奈波太神社は田幡村に鎮座すると記載ありました。田幡の地名は田畑ではなく、多奈波太が転じたものと断定できそうです。


大きな地図で見る
八田川を示すグーグル地図画像

八田川の東には勝川と言う地名があり、秦川勝の川勝が反転したようにも見えます。守山区には小幡と言う地名があります。「富士山麓の秦氏」では大月市の古渡(こわた)が小幡で秦氏の居住地域でした。

守山区小幡から東に進むと瀬戸市に入りますが、幡山町があり幡山町の北には幡野町があります。瀬戸市の北東には半田川が流れ、瀬戸市下半田川町には秦川城址がありました。


大きな地図で見る
瀬戸市下半田川町を示すグーグル地図画像。

一般的に半田は秦氏地名とされますが、瀬戸市の例から半田川や半田の地名の元が秦であったと理解されます。秦川城址に関しては以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Hatagawa-Jo.html

以上、秦氏地名を拾ってみたのですが、書いているうちにある傾向があることに気が付きました。それは秦氏地名の分布が熱田からほぼ北に向かい次に東に向かって瀬戸で尽きていることです。この背後には古代の地形が影響していると思われるのですが、それはまた後で検討していきます。

次に秦姓から派生した姓を見ていきます。羽田野姓で見ると、全体数が169人中、豊川市が41人、豊橋市が32人、春日井市が19人となっています。

波多野姓の場合全体数543人中、春日井市が103人、豊川市が79人、小牧市が79人、瀬戸市が55人です。秦野姓になると全体数53人中、小牧市が12人です。

波多野姓と羽田野姓、秦野姓が春日井市、小牧市、瀬戸市などのエリアに多くなっています。秦氏地名と一定の整合はあるように思えますが、例えば愛知における波多野姓が秦氏から派生した姓か確定できません。

熱田の名前も検討してみましょう。秦氏の河内における拠点であった寝屋川市の熱田神社境内からは、古瓦や礎石に使用された巨石が多く出土し、一帯は太秦廃寺跡と呼ばれています。同じ熱田の名前に関係があるのかもしれません。

大阪市平野区の大念佛寺のホームページには以下の記載があります。

良忍上人(聖應大師)は、延久四年(1072)尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市富木島町)に誕生、父はその地方一帯を治める領主で、名を藤原秦氏兵曹道武といい、母は熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。

知多市に秦氏の存在が認められしかも熱田神宮と絡んでいますが、時代的に古代とは言えず現在のテーマと関係はありません。いずれにしても、熱田周辺で秦氏の活動した記録はなさそうです。以上の検討結果から、秦氏地名と秦姓から派生した姓は見られるものの、蓬莱の地である熱田に秦氏が関与している可能性はほとんどない結果となりました。

次に熱田が蓬莱島と称される点について見ていきます。既に書いたように「蓬州旧勝録」の蓬州とは尾州の別称で蓬莱に由来しています。ではなぜ熱田が蓬莱島とされたのでしょう?一般的には、鬱蒼とした樹木が茂る往古の熱田の地が海に突き出した岬のような姿だったので、不老不死の仙人が棲む伝説の蓬莱島とされたようです。

いつ頃から熱田が蓬莱島と呼ばれるようになったのか定かではないのですが、いずれにしても熱田の地に徐福の渡来伝承は存在していません。第一回目で熱田には秦氏の痕跡もほとんどなく、徐福伝承もないと判明したのはちょっと残念です。

しかし熱田神宮にはまだ多くの謎が秘められているので、次回以降で検討していきたいと思います。

            熱田神宮の謎を解く その2に続く
スポンサーサイト

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

亶洲  長門市 油谷・日置

徐福亶洲居住説 徐福は平原広沢の亶洲に王として定住したとされる。 油谷・日置・土井ヶ浜には道教・方士を感じさせるものがある。 日置の地名「国常」 は国常立尊にちなむ? 国常立尊は徐福か。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる