熱田神宮の謎を解く その3


時代はさらに下ります。「日本書記」によれば、天智天皇の7年(668年)新羅の僧道行が神剣を盗み、清雪門(せいせつもん)を通って逃走したとされます。道行は神剣を新羅に持ち帰ろうとしますが、嵐により失敗に終わり、捕らわれの身となりました。逮捕後は斬殺されたとの説もあります。

道行に奪われた神剣は無事取り戻されたのに、なぜか熱田神宮に返還されず宮中で預かることになりました。しかし、神剣の祟りで天武天皇が病を得たことから朱鳥元年(686年)に朝廷より戻されます。(天皇は686年10月1日に崩御)結局ほぼ18年の間、神剣は宮中に留め置かれたのです。この事件以降清雪門は開かずの門として固く閉ざされ続けています。

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清雪門。撮影時点では改修工事中でした。

この話はどうも納得し難いものがあります。草薙神剣は三種の神器の一つであり、皇室の正統性を保証する宝物として皇位継承の際に代々伝えられるべきものだからです。なのに、神剣が正当な所有者であるはずの天皇に祟ったとは何を意味しているのでしょう?

答えは一つしかありません。神剣は本来尾張氏が祀っていた神器で、天皇家のものではなかったのです。「その1」において、熱田神宮のありようには、かなり無理な操作が行われているのでは、と書きました。この事件はその一端が露呈したものではないでしょうか?

それを示す一つの史料があります。愛知県知多市の法海寺に伝わる「法海寺略由緒」です。由緒によれば、道行は神剣を盗んだのが発覚して星崎の浦の土牢の中に幽閉されたが、修行をつんだ高僧であると判明し、天智天皇の病を快癒させ、薬師如来を本尊とする法海寺を創建したとのことです。


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法海寺を示すグーグル地図画像。

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仁王門越しに見た法海寺。法海寺は酔石亭主にとって思い出のあるお寺です。

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楠の巨木。

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本堂です。

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解説板。関連部分を以下記載します。

法海寺の開基は、新羅国明信王の太子道行法師といわれ、由緒は「日本書記」巻二七の天智天皇七年の条につながっている。そこには、「沙門道行、草薙剱を盗みて新羅に逃げ向く、而して中路に雨風にあいて、荒迷ひて歸る」と道行の名前が登場している。後世に編纂された寺伝の「薬王山法海寺儀軌」によれば、この後、沙門道行は帰国を断念して当地に堂宇をいとなんでいた。そして、天智天皇の御不例(病気)を当山ご本尊に祈願して平癒した功によって、「薬王山法海寺」の勅額と寺田二八〇町歩を賜った。時に、天智七(六六八)年、八月三日の創建とされ、…以下略

天智天皇の代となり天皇家の王権がほぼ固まり始めます。そうなると必要なのが自分たちの権威をさらに高めるレガリアです。レガリアを求める天皇家は、尾張氏の聖地である熱田から神剣を無理やり献上させたとは考えられないでしょうか?それを道行に神剣を盗ませたことしたのでしょう。

天皇家にとって最も神聖な神剣を奪うなど不敬の極みです。本当に道行が奪ったなら、天智天皇の病平癒を祈願させてもらえるはずがありません。「法海寺略由緒」によれば、道行は神剣を盗んだのが発覚して星崎の浦に幽閉されます。星崎は当時海に面した岬のような場所でした。しかもこの地は尾張氏の重要拠点。よって道行は幽閉されていたのではなく、尾張氏に厚遇されていたと考えられるのです。


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星崎一帯を示すグーグル地図画像。本星崎とある辺り。

この場所の詳細は後になって出てくるので記憶に留めてください。法海寺は当時広大な敷地を誇った大寺院で、境内は何度も発掘調査が実施され、解説板に見られるように弥生式土器や白鳳時代の蓮華文瓦が出土しています。

さて、道行が神剣を奪ったとされるのは天智天皇期とされていますが、実際には天武天皇の時代だったのではないでしょうか?天武期には記紀の編纂も始まり、天皇家の正統性を担保するガレリアとして三種の神器を決める必要性に迫られ、尾張氏の神剣に白羽の矢が立ったと考えられるからです。

そこで尾張氏に神剣を献上させたものの、各方面から批判が高まり返還せざるを得なくなったものと推定されます。道行が盗んだとした時代を天智天皇期に繰り上げたのは、天武天皇に批判が集中しないような配慮があったとも考えられます。また神剣が祟るなら相手は当然天智天皇のはずなのに、天武天皇に祟っているのは神剣の献上が天武天皇期に起きたことを示しています。

このようにして返還された神剣ですが、実は熱田神宮の本宮に直行してはいません。ではどこに…?名古屋市熱田区白鳥二丁目には影向間社(ようごのましゃ)が鎮座していました。この神社の御祭神は熱田大神すなわち草薙神剣です。


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鎮座場所を示すグーグル画像。木に覆われた一画。

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影向間社の敷地。

木々は画像より少ないように思えます。影向とは神仏が姿を現すことを意味します。

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影向間社??隅っこにぽつんと社が一つあるだけです。

同社の由緒は「名古屋市史」に記載ありました。

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名古屋市史。左ページに書かれた内容の主旨は以下の通りです。

天皇が病を得て急遽(熱田大神=草薙神剣が)遷座されるとき、御殿の修造がはかどっておらず、その間尾張宮簀媛命のご在世の例に任せ、尾張氏の家に在することとなった。これが今影向間と言う縁である。

神剣が宮中から還座する際、社殿の修築がはかどっておらず、本宮に入れないため、宮簀媛命の例にならって尾張氏の邸内に影向の間を設け、仮に奉安申し上げたと言う意味です。この尾張氏とは、尾張氏の流れをくむ田島氏で、熱田大神が本宮に入って後も社殿は田島家の邸内に残され、維新の後に田島家邸内から当所に遷したとされます。

宮簀媛命の在世の例にならっての意味が不明です。日本武尊の死後、媛は神剣を熱田の地に奉安する前に、しばし自分の手元においていたので、それにならったと言うことでしょうか?あるいは南楠社の御休憩場所にしばし滞在したことを意味しているのかもしれません。

熱田神宮は創建以来尾張氏が大宮司職を務めてきましたが、平安時代の中期になって藤原家に大宮司職が変わります。熱田神宮と尾張氏にとってはとんでもない事態ですが、平安時代に入ってから、尾張氏の力は徐々に衰えて来たのでしょう。なお、平成16年になって影向間社は境外社から境内社に変わります。鎮座場所はすぐ近くで、西門前の歩道を北に歩き車のお祓い入口のすぐ脇となります。

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熱田神宮境内の影向間社。

影向間社は神剣の返還に関係する重要な神社ですから、もっと立派な社にすべきではとも思います。

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近くにあった信長塀。

信長は桶狭間の戦いの前に熱田神宮で戦勝を祈願しました。その祈願が通じたのか、今川義元に首尾よく勝ったので、御礼として奉納したのがこの築地塀です。

時代はさらに下ります。源平合戦のクライマックス、壇ノ浦の戦いにおいて、安徳天皇は入水するのですが、神剣は二位ノ尼が腰に差したまま海に飛び込んだとされます。でも、熱田神宮にあるはずの神剣がどうしていつの間に天皇の元に戻ったのでしょう?これは多分神剣の形代(コピー)のはずです。

神剣とは関係ありませんが、源頼朝は熱田神宮と縁が深く、神宮の大宮司である藤原季範の娘の子でした。頼朝は秦氏との関係で何度か取り上げています。

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誓願寺。頼朝生誕の地とされ、神宮の西、国道19号線の向う側にある寺です。ほとんど門だけですが…。

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解説板。

草薙神剣を納めたのは土用殿で、かつては旧本殿の東に鎮座していました。永正14年(1517年)将軍足利義稙(よしたね)の造営とされています。

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現在の土用殿。

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解説板。

熱田神宮社殿は尾張造りの形式だったのですが、明治26年(1893年)に伊勢神宮と同じ神明造りの形式に改められ、土用殿も廃されて神剣は正殿に収められました。その後1932年に大規模な改修工事があったものの、1945年の空襲で社殿の多くが焼失。戦時中、神剣は本殿裏の地下壕で保管されました。終戦の直前には米軍に奪われないよう、一時的に飛騨一宮水無神社に遷座したそうです。

熱田神宮の社殿は昭和30年(1955年)に再建され、神剣は正殿に安置されています。と思われますが…、現在神剣がどうなっているのかは問うべき性質のものではありません。

以上駆け足で草薙神剣が現在に至るまでの経緯を見てきました。鎌倉時代以降はともかく、神代から古代までの話は伝説や改変が多く実状はほとんどわかりません。熱田神宮のありようを知るには、もっと詳しく調べていく必要があるのです。

              熱田神宮の謎を解く その4に続く
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草薙神社

静岡に草薙神社があります 草薙という地名もあります たいした意味はないのでしょうか?

Re: 草薙神社

気になる様

コメント有難うございました。

静岡に草薙の地名と草薙神社の由緒がある以上、何らかの意味はあると思います。
ただ、それを調べるには周辺の伝承も含めて検証する必要があるので、この場でお答えはできません。

なお、「古事記」では剣で草を薙いで危機を脱出した場所を相模国としています。
私はその場所を富士吉田市に特定しています。(当時はこの辺りも相模国の領域内)
詳しくは「富士山麓の秦氏 その11」を参照ください。
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