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熱田神宮の謎を解く その34


前回で鞍手に八剣神社が集中していると判明しました。鞍手は尾張のコピーみたいな感じがしてなりません。しかし鞍手を含む遠賀川流域は物部氏の本貫地。この地にいた高倉下が尾張に移住したと考えれば、鞍手が本家本元であり尾張はコピーであるとも言えそうな気配です。尾張氏関連を調べていくと、いつの間にか物部氏にすり替わってしまう。この何とも厄介な問題をどう考えればいいのでしょう?

今までに何度か書いていますが、熱田台地(名古屋市熱田区旗屋町)にある断夫山古墳(だんぷさん)の被葬者は、一般的に尾張氏である尾張連草香(おわりのむらじくさか)とされています。しかし、酔石亭主はこの古墳の被葬者は物部氏ではないかと疑っています。

理由は、春日井市にある二子山古墳被葬者と断夫山古墳の被葬者は深い関係があったとされ、二子山古墳の被葬者は物部氏の可能性があるからです。詳細は「熱田神宮の謎を解く その17 白山神社」と「熱田神宮の謎を解く その19 高牟神社」を参照ください。

別の視点からも見ていきます。ニギハヤヒ率いる物部氏は九州遠賀川流域から、四国を経由して河内に上陸し、日下(草香、生駒の西)から大和川流域に入ったともされています。日下(草香)の地が物部氏の拠点で、熱田台地に最初に入ったのは物部氏だとしたら、尾張連草香の実体は物部氏であったのかもしれません。ここでも、尾張氏を調べていくと物部氏にすり替わってしまうような気配があります。

とても悩ましいのですが、錯綜した事態を解きほぐすには地名に当たるのが手っ取り早いのは経験的にわかっています。早速鞍手一帯の地図を参照することに…。


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グーグル地図画像です。

まず驚いたのは、鞍手駅の近くに小牧(おまき)の地名があり八剣神社が鎮座していることです。もうご存知のように愛知県小牧市(こまき)の小針は尾張の地名発祥の地ともされ、尾張(おばり)神社が鎮座しています。鎮座地は愛知県小牧市小針2丁目。


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尾張神社の鎮座地を示すグーグル地図画像。

尾張神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

創建は不詳。伝承によればこの地域は、古墳時代に豪族の尾張氏が開拓したと言われている。この辺りの旧地名は「尾張村」であり、それはこの尾張氏に由来すると見られている。またこの「尾張」と言う地名が、愛知県の旧国名である「尾張国」の由来になっていると言う説があり、昭和15年(1940年)には、この地の青年団が「尾張名称発源之地」と掘られた石碑を、鳥居の横に建てている。


尾張国の地名由来の地ともされる愛知県の小牧と同じ地名まで鞍手に存在していました。もちろんそれだけではありません。鞍手町小牧の南西部には剣岳があります。その西麓には何と熱田神社(鎮座地:福岡県鞍手郡鞍手町新北)まで存在しているのです。熱田神社の東にも八剣神社(鎮座地:福岡県鞍手郡鞍手町中山)が鎮座しています。


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剣岳一帯を示すグーグル地図画像。

だとすれば、鞍手の神社構成は尾張の熱田神宮境内に別宮として八剣宮が鎮座しているのとほぼ同じとなります。北九州遠賀川周辺と尾張の神社がかくも相似しているとは実に不思議です。

驚いたことは他にもあります。中山に鎮座する八剣神社祭神は日本武尊、スサノオ命、宮簀媛命でした。これらは全部、尾張における熱田神宮の祭神(相殿神)となっている神です。鞍手においては尾張氏の神が物部系により祀られているのです。

また中山八剣神社には、日本武尊が熊襲征伐の折にこの場所に立ち寄り、里の長である今朝麿が往路、帰路ともに厚くもてなし、今朝麿の子孫である人麿が剣山の上で祀るようになったとの伝説があります。

一体どうなっているの?と言いたくなりますが、日本武尊は複数存在しており、こちらは北九州版日本武尊になります。いや、倭建命とした方がいいかもしれません。当時の日本は九州の倭国と大和の日本国があったようですから…。(注:「旧唐書」倭国・日本国伝には以下の記載があります。「日本国は、倭国の別種なり。…中略…あるいはいう。日本は昔小国であったが、倭国の地を併せたり、と」)

もう一度前回の鞍手町ホームページを参照します。
http://www.town.kurate.lg.jp/kankou/shiseki.html

現在のテーマとは関係ありませんが、六ヶ岳には何と天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)の御陵といわれる可愛の陵があり、宗像(むなかた)の三女神は崎戸山に天降り、その後宗像に移り住まわれたとのこと。日本神話の世界が実際の土地とリンクしているのですから驚きです。

               熱田神宮の謎を解く その35に続く
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No title

酔石亭主さん、ご無沙汰しております、チェリーです。
お元気そうで何よりです!

現在「鞍手」を集中的に調べています。
といっても、相変わらずラインを引くばかりなのですが…

lunaさんという方の「ひもろぎ逍遥 脇巫女 18ヤマトタケルと田部今朝麿」のコメント欄に、この記事を紹介させていただきました。
びっくりするほど内容が似ているんですよ!

お暇な時に覗いてみてください。

それと、「龍神石」のスケッチを発見したのは MURYさんでした。
 

Re: No title

チェリーさん

本当にお久しぶりです。精力的に鞍手方面を探索されているようですね。遠賀川流域は物部氏の拠点ですからぜひ行ってみたいのですが、最低でも一か月は必要で加えて九州は土地鑑もなく遠すぎます。

lunaさんの記事読ませていただきました。現在の考え方は以下の通りです。
物部氏の祖となるニギハヤヒが高倉下と共に遠賀川流域を出て瀬戸内海を渡り大和に入った。但し高倉下は大和に入らず、船で熊野経由伊勢湾を航行し尾張に入った。尾張の中部域を拠点とした高倉下は部分的に尾張氏と融合したため高倉下=天香山命とされた。
尾張氏の情報は天武天皇の時代に鞍手にフィードバックされ、尾張氏に関係するような神社が創建された。
鞍手の古物神社や高倉神社に草薙神剣盗難事件に関係する由緒があるのはその証明となる。
九州における日本武尊の話も多分この時点でのフィードバックが日本書紀に取り入れられた。

上記は私の推測にすぎず、あまりにも不十分なので、可能なら遠賀川流域を回って現場検証を試みたい次第です。でもそうなると、秦氏の関係地や天孫降臨の場所などあっという間に行くべきところが増えてくるので、最低でも一か月の滞在となり、費用面を考えると難しそうです。

今は尾張氏の謎解きを続けています。百回を大幅に超える記事となっていますが、もう少しで終わりそうです。


「龍神石」のスケッチを発見したのは MURYさんでしたか。さすがですね。MURYさんの掲示板もたまに見に行っています。
 

No title

酔石亭主さん、御返事をありがとうございます。

少し私も勉強してから、九州の皆さんにこのことをお伝えしようと思います。
尾張氏の記事を少しづつ読ませていただきます。また、お力をお借りすることになると思いますので、よろしくい願いいたします。

MURYさんの掲示板、私も時々覗いています。また、少しでも参加したいと思ってるんですよ。

Re: No title

チェリーさん こんばんは。

lunaさんは、鞍手物部氏の精鋭部隊がヤマトタケルとミヤズ姫を護衛しながら、尾張に入植したと考えておられるようですが、そうではないと思います。もう少しわかりやすく纏めてみましたので、九州の皆さんにお伝え頂けたら幸いです。

『尾張には紀元前から遠賀川式土器が伝えられており、その流れに乗ってニギハヤヒや高倉下の時代に物部氏が尾張に入ったと思われます。名古屋市の南部では尾張氏が存在感を高め、そのすぐ北側の名古屋市中部から庄内川を越えた一帯が物部氏の領域になります。つまり尾張においては物部氏と尾張氏はお隣同士の関係であり部分的な融合もあったと考えられます。ニギハヤヒ=天火明命、高倉下=天香山命はそうした関係を表現していそうです。

一方、鞍手を含む遠賀川流域において物部氏と尾張氏の直接的な接点はありません。故に、尾張における尾張氏や日本武尊のストーリーが天武天皇の時代頃鞍手に伝えられ、地元におけるストーリーに重ね合わせられ、鞍手一帯において尾張と同じような伝承が成立し神社の創建に繋がったと言うのが大枠ではないかと思われます。天武天皇の時代と考えたのは、鞍手に草薙神剣の盗難事件に関連する話まで存在しているからです。』

上記は極めて大雑把なもので、細かく考えると切りがありませんし、鞍手にも行っていない段階なので、現時点における仮の考え方とご理解ください。私の見方はかなり独断に満ちていますので、ご参考となるか心許ないですが、お聞きしたい点や疑問等がありましたら何なりとご連絡ください。

ありがとうございました

酔石亭主さんへ
まとめてくださって、ありがとうございました。
よかったでしょうか、そのままlunaさんのブログのコメント欄に転載させていただきました。問題があるようでしたら、ご指摘ください。

二つの地域は、遥かな昔から深い交流があったんですねぇ…
本当に不思議です。感慨深いものがありますねぇ…

Re: ありがとうございました

チェリーさん こんばんは。

早速有難うございます。全く問題はありませんよ。ただ、チェリーさんにお手数をおかけするのは心苦しいので、直接lunaさんのブログにコメントしようと思い、文章を書いて送信しようとしたらよく理解できない表示が出てきたので、IT音痴の私としては直接のコメントをあきらめてしまいました。

さてそこで、lunaさんが、「ヤマトタケル伝承は筑紫のみならず、佐賀など濃厚に残っていまして、天武天皇の時代とは全く違うんですよ。当ブログの一部でもご覧になると分かりますが、クマソタケル、武内宿禰、弟彦王などと重なった時代です。」とコメント欄に書かれた部分に誤解が残っているようです。なので、以下にもう少し書いてみます。

「私はヤマトタケル伝承が天武天皇の時代に発生したものだとは書いていません。長くなってしまいますが、まずヤマトタケルは特定の個人を指したものではなく、日本の強い武人を意味しており、景行天皇辺りの時代に九州や尾張にそれぞれ関係する別の武人がいて、九州の場合は熊襲討伐、尾張関連の場合は東国討伐のような動きがあったと思われます。

そして時代が下り記紀編纂が始まった(或いは旧辞・帝紀が作られた)時代に、尾張における武人のストーリーがヤマトタケルの名前において纏められつつあったと考えられます。尾張において尾張氏と物部氏はお隣同士で融合した部分もあったはずで、尾張の物部氏から鞍手の物部氏に尾張ではこんな話になっているよと情報伝達があったのではないでしょうか?

それを聞き及んだ鞍手の物部氏は、尾張におけるストーリーを参考にして地元における武人のストーリーに重ね合わせたヤマトタケル伝承を作り上げ、こちらが先だみたいな形で朝廷に奏上したのではないかと思われます。実際「日本書紀」においては、九州の熊襲討伐のストーリーが東国討伐の先になっています。

以上の経緯から、尾張関連のストーリーが九州に伝えられたのが天武天皇の時代ではないかと推定している訳です。「日本書紀」には熊襲討伐に関連して、弟彦公が尾張・田子稲置を率いてヤマトタケルに従軍したなどと書かれていますが、稲置は天武天皇13年に制定された姓(かばね)ですから、やはり伝わったのは天武天皇の時代なのかなと思ってしまいます。」

まあ、上記は尾張中心の視点ですから、九州中心の視点からは別の光景が広がっているとも思えます。機会があればぜひ鞍手方面に行ってみたいと思います。お手数をおかけして申し訳ありませんが、よろしくlunaさんにお伝えください。


Re:Re: ありがとうございました

酔石亭主さん、ありがとうございました。
lunaさんのブログに転載させていただきました。

出てきた表示は、ひょっとして画像認証ができません、といったものでしょうか?もしもそれでしたら、「違う画像を表示」をクリックして、新たに数字を入力すればよろしいかと存じます。

Re: Re:Re: ありがとうございました


チェリーさん こんばんは。

色々お手数をおかけして申し訳ありません。尾張と鞍手の間で遠い昔交流があったなんて、本当に古代史は面白いですね。

ところで、遠賀川流域と尾張の地名や神社名などの酷似は、遠賀川流域から尾張に持ち込まれた、尾張から遠賀川流域に持ち込まれた、のいずれかしか選択肢はなさそうです。仮に遠賀川流域から尾張に持ち込まれたとする場合、大前提として遠賀川流域に尾張氏の痕跡があるとの確認が必要です。尾張氏に関してもう128回も書き続けていますが、そうした痕跡はなさそうな気配。もしあれば大発見ですが…。

それと、遠賀川流域と尾張の酷似はかなり以前から指摘されており、以下のホームページに詳しく書かれています。内容は実に面白いのでお時間があったら是非ご覧ください。この方は宮簀媛命も鞍手に住んでいたと推定し、鞍手剣山の麓の尾張小牧、新北(熱田)、熱田(愛知田)、瀬戸という地名を含む古代の「尾張」という地域に住んでいたとされています。つまりこの方の見解は、尾張の地名や伝承は遠賀川流域から持ち込まれた説に近いものとなっています。

http://www.geocities.jp/ojyaru_24/takeru1.htm

http://www.geocities.jp/ojyaru_24/takeru3.html

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-23-14yamatotakeru.html

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-23-15yamatotakeruhigasi.html

それから出てきた表示は画像認証の問題ではありません。私の能力では諦めるしかなさそう…。

No title

はじめまして、古月と申します。鞍手で育ち京都に住んでおります。古い記事へのコメントで失礼します。

尾張氏は、はじめ「尾治」と表記したようですが、尾治氏に関係する地名や神社、伝承が、吉備(岡山)や葛野(京都)、乙訓にも残っていて不思議に思っておりました。吉備(岡山)に尾治の地名があるほか、延喜式神名帳に備前国御野郡 「尾治針名真若比咩神社」があり、「みの」郡という地名もひっかかっていました。「尾治」は干拓の意とも岡山の年配の方に教わりました。

先代旧事本紀の天孫本紀によれば、高倉下命の6世に但馬国造、海部直、丹波国造。9世に山代水主雀部連、18世に乙訓与止連、紀伊尾治連がみえます。地名が結構明確で、ざっくり一族としての拠点の移動が反映されていると思いました。すなわち、筑豊→吉備→但馬→丹波→山代→乙訓→紀伊→尾張です。 もちろん海の一族のようですし、当初より広域で活躍していたと思われますが、拠点としては東遷したものと想像してみました。 

なにか傍証はないかなと、ヤマトタケルにゆかりの船津・小津を現在の姓名分布として検索すると、船津が福岡県に集中、尾津が岡山県に集中していることがわかりました。あと、筑豊の宗像周辺に(ヤマトタケルの妃のひとりの)弟橘媛の末裔の伊賀氏が、高倉下ゆかりの高倉神社や八所宮の氏子で現存しています。弟橘媛ご自身は山代の生まれのようです。古代はダイナミックだったのだなぁと感嘆しています。

Re: No title

古月さん

コメントありがとうございます。

そうですか、古月さんは鞍手のご出身ですか。実は昨年遠賀川流域を走り回り、尾張氏と遠賀川流域各地の関係を探索してみました。結果は記事カテゴリ「尾張と遠賀川流域の謎を解く」でアップしております。

ざっくり書くと、文化や情報の流れは遠賀川式土器の弥生時代から高倉下の時代辺りまでは北九州から尾張となりますが、それ以降は逆転し尾張から北九州の流れが主流になっているようで、鞍手などの各神社も含め詳細に検討しました。62回の長い記事となりますし、九州の方から見たら納得し難い部分が多々あろうかと思いますが、是非ご一読いただきご意見を頂ければ幸いです。なお、記事カテゴリ「熱田神宮の謎を解く」は生煮えの部分が多く、あまり参考にならないと思います。

尾張氏の発祥に関しては大和の高尾張邑発祥説があり、これは間違いだと思ったので記事カテゴリ「尾張氏の謎を解く」で詳細に検討しています。こちらの記事はさらに長すぎますので、もしお時間があればご参照ください。

私は、尾張氏に関し(尾張氏に限らずどの氏族でも同じですが)、古代のある集団が自分たちを尾張氏と認識しそう称した時点を尾張氏の発祥と考えています。元々彼らは北九州にいた海賊だったかもしれず、安曇氏の船に便乗して尾張にやってきたのかもしれません。けれども、それを証明するすべはほとんどないしどこまで遡ればいいのか切りがなくなります。従って、尾張氏の発祥地は尾張の年魚市潟周辺一帯で、そこにいた海人系の集団だったととらえるのが適切ではないかと思います。

倭建命を祀る熱田神社が出雲にもあります。場所は島根県浜田市熱田町。これはグーグル地図を見ていて偶然発見したのですが、地名も熱田とはびっくりです。

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