FC2ブログ

東三河の秦氏 その8


前回で書いた天照皇大神宮に関しては、ずっと後の第3部にて検討する予定です。ただ、天照皇大神宮には石や石祠の前に置かれた二本の木との関連が窺われます。二本の木が太陽の死と再生を意味しているとして、巫女アマテラスが死んで岩屋戸に入り、太陽神天照大神として復活・誕生した日本神話の内容に天照皇大神宮の存在がぴったり合致するように思えるからです。もちろんこれは酔石亭主のストーリーラインに沿った解釈であり、正しいと主張するものではありません。出だしから様々な要素が混入した信仰形態や遺跡を目の当たりにして、頭が混乱しそうになりました。

041_convert_20130612090727.jpg
日色野町の案内板です。

菱形の地名があります。地名が示すように、集落自体がほぼ菱形のように思えてなりません。菱形には何か特別な意味がありそうですが、この点も後でじっくり検討します。案内板にある神泉寺の前には数多くの石造仏が並んでいました。

042_convert_20130612090802.jpg
石造仏。何となく怪しい雰囲気が漂っています。

続いて菱木野天神社に向かいます。

037_convert_20130612090827.jpg
鳥居と社殿。

038_convert_20130612090853.jpg
社名を彫った石柱。

039_convert_20130612090919.jpg
社殿です。

不親切と言うか何かを隠したいのか、熊野大神社同様菱木野天神社に解説板はありません。そこで「小坂井町誌」を読んでみたところ、菟足神社の祭礼である「風祭り」において、雀射初神事が菱木野天神社で行われるとのことでした。

008_convert_20130612090957.jpg
雀射神事に関する記事。関連部分に赤線を引きました。

記事に書かれているように菟足神社においては、雀を獲って神前に供える生贄の儀式が行われていたのです。なお、雀を神前に奉献するのは4月11日ですが、これは菟足神社本縁(元禄7年)によると、秦石勝が菟足神社を現在地に鎮座させた日(白鳳15年4月11日)に当たります。いかに生贄神事が重要であるか、良く理解されますね。

007_convert_20130612130113.jpg
菟足神社本縁の記事。

菟足神社における生贄神事は古くからあり、平安時代中期に三河国司であった大江定基が風祭りの生贄として猪を生きたまま殺すのを見て、早くこの国から出ようと考えたとの話が「宇治拾遺集」や「今昔物語」に書かれています。いつから変わったのかは不明ですが、「小坂井町誌」によれば現在は雀12羽になり、旧閏年は13羽とのことです。

おや、ちょっと待ってください。「その7」で、菱木野町のあちこちに置かれた二本の木は、12本の黒い横線があることから暦かもしれないと書きました。しかしそれは、暦だけでなく、やはり別の意味が付与されているようです。

そう、二本の木は日本においては極めて珍しく、イスラエルなどではよく見られる生贄の儀式とも関連付けられていたのです。

通常の年(1年=12カ月)は生贄の雀12羽で、黒い横線は12本となります。それが、旧閏年(1年=13カ月)になると生贄の雀は13羽。だとすれば、旧閏年における二本の木に引かれた黒い横線は、多分いや間違いなく13本になるはずです。石や石祠に供えられた二本の木。それは暦だけでなく、石や石祠に供えられる生贄をも象徴していたのです。大きな謎が一つ解けました。でも、一体どんな神様に対して供えられているのかは依然として不明です。答えはきっと日色野町の中にあるはずですが……。

生贄に関して、かつては若い女性を人身御供にすることもあったようです。小坂井町には「子だが橋」の碑があり、解説板もあります。内容は以下の通りです。

およそ一千年前、菟足神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生け贄にする慣習があったと伝えられている。ある年のこと、贄狩りに奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。それからこの橋を、子だが橋と呼ぶようになったということである。現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。

内容を確認するため、子だが橋のいわれに関する「小坂井町誌」の記事をチェックしました。

017_convert_20130612091018.jpg
子だが橋のいわれに関する「小坂井町誌」記事。

写真が不鮮明で申し訳ありません。ポイントは3行目から4行目で、「何時の頃よりか、此の地の大神の神意により、人身御供を奉ることとなった。春の大祭には、其の日最初に通る年若い娘を捕へて犠牲とする習であった」の部分です。

上の赤字部分で生贄に関し、「一体どんな神様に対して供えられているのかは依然として不明です」と書きました。ここにその答えが出ています。解説板には菟足神社に人身御供があると書かれ、子だが橋のいわれでは、此の地の大神となっています。よって生贄を供える対象は、菟足神社の祭神すなわち菟上足尼命となるはずですが……。

でも、ちょっと待ってください。これは変ですね。菟上足尼命に生贄を求める要素は皆無であり、全く意味が通じません。きっと背後に、何か隠された事情があるはずです。

現時点では何が隠されているのか不明なので、この部分の検討は一旦横に置きます。次に春の大祭とは「風祭り」を意味していると考えられます。「風祭り」に関しては以下の豊川市ホームページを参照ください。
http://www.city.toyokawa.lg.jp/saijibunka/matsurikanko/omatsuri/haru/kaze.html

ただし、ホームページでは各神事のスケジュール以外に見るべきものはなさそうです。「小坂井町誌」には詳しく出ていますが、祭礼次第が事細かに書かれているだけなので省きます。

さて、三河国司・大江定基は生贄神事で猪を殺すのを見て恐ろしくなり、この国を去りました。日本にはない風習を目の当たりにしたのですから当然でしょうね。そして出家したのは永延2年(988年)とされています。千年前には、生贄は人から猪へと変わっていたのです。よって、「およそ一千年前、菟足神社には、人身御供があり云々」と書かれた解説板の内容は正しいとは言えません。人身御供は少なくとも、千数百年前に遡る話となるはずです。いずれにしても、菟足神社の生贄神事は人間→猪→雀、と変遷してきたことになります。

「旧約聖書」には、アブラハムが神から自分の一人息子のイサクを生贄の捧げものとして出すように命じられるという話があります。古代イスラエル人は羊や牛などの家畜や人間を、神の怒りを鎮めるために、また神の祝福を得るために生贄として捧げていたのです。それと同様の神事が菟足神社でかつて執行されていました。これはややトンデモ説に近くなりますが、イスラエルからの渡来民とされる秦氏と結び付けて考えるべきなのでしょうか?

それはさて置き、今回で、日色野町にある石や石祠に供えられた二本の木の謎は解けたと言えるでしょう。しかし、なぜ菟足神社の祭神・菟上足尼命が生贄を求めるのかと言う謎が新たに出てきました。この神にそうした要素は見当たりません。菟上足尼命が生贄を求めるなら、日色野町の石や石祠は全て菟上足尼命となってしまいます。全く筋が通らないし、解せませんね。答えを求めて集落内をさらに歩いていると、この謎に関連して実に衝撃的なものを発見しました。詳しくは次回にて……。

                東三河の秦氏 その9に続く

スポンサーサイト



コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
12 | 2020/01 | 02
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる