東三河の秦氏 その9


集落のほぼ中心部辺りでしょうか、火の見櫓の先に常夜灯や小さなお堂がありました。

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火の見やぐらと常夜灯の先にあるお堂。内部は二つに分かれているようです。

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片方の内部。

一般的な石造りの仏様です。でも、もう一方の内部を見たとき衝撃が走りました。

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もう一方の内部。

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もう一枚。

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さらに一枚。

この座像を見て何を連想されますか?そう、どう考えても日本人ではありません。垂れ下った衣に頭の被り物、手には巻物でも持っているようです。これは明らかに中国風の石像です。そして、顔がほとんど判別できない程長年の風雨によって摩耗しています。石の材質にもよりますが、数百年ではとてもここまで摩耗しないと思われます。では、この古い座像は誰でしょう?

日色野町にある石像はひょっとしたら、日本最古の徐福像ではないでしょうか?以前「富士山麓の秦氏」で徐福の像を撮影しています。もちろんこの像は新しく造られたものです。でも、新旧二つの像を比較すると、イメージ的にはほぼ同じと思えます。記事の徐福像は小さいの、画像検索で徐福像と入力ください。そうすれば多くの徐福像が出てきますので、比較検討が可能です。

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石像を見やすくするため色調を変えてみました。

これが徐福像であれば、豊橋市日色野町にある、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えとも完全に合致しますが、実はそう簡単ではありません。東三河にはなぜか役行者の像が多くあり、こちらの方が日色野町の石像に酷似しています。東三河の役行者像に関しては以下のブログを参照ください。
http://blogs.yahoo.co.jp/morinokobito2/folder/1512803.html

もう一つ。これは力作です。
http://aichialps.web.fc2.com/ozunu/local/toyohashi/index2.html

東三河の三神山は本宮山、石巻山、鳳来寺山と考えられますが、本宮山や石巻山に役行者像があり、鳳来寺山の利修上人像も役行者とそっくりです。(利修上人は役行者の兄弟との説もあり)こうなると、日色野町の石像も役行者とならざるを得なくなります。困りましたねぇ。

ただ、日色野町の石像が役行者であるとした場合、生贄を象徴する二本の木が供えられている点の説明が付きません。また豊橋の役行者像のほとんどが新しく、古くてもせいぜい1800年代と思われ、日色野町の石像よりずっと新しい点はどう考えればいいのでしょう?これらの矛盾を解消させる視点を検討する必要がありそうです。

既に知られているように、役行者の修験道は道教がベースとなっています。そして、徐福は道教の方士でした。つまり、日色野町の石像は役行者に仮託された徐福像であると考えられるのです。そう考えれば、生贄と暦を象徴する二本の木が石像に供えられていることの説明は付きます。

また日色野町の石像が古い理由は、近世の修験者や御嶽信仰の行者が建立したものではないから、とも言えそうです。或いは、既にあった古い役行者の石像を日色野町の秦氏は徐福として祀ったと考えてもいいでしょう。

後代の秦氏としては、自分たちが徐福子孫であること(そう自称すること)を表沙汰にしたくなかったのです。ちょうど隠れキリシタンが慈母観音像をマリア像に見立てて信仰の対象としていたように……。豊橋市と豊川市においては、秦姓よりも秦姓を改姓した羽田姓や羽田野姓がずっと多い事実も、そうした事情を物語っているように思えます。さらに言えば、地元の方が二本の木を供える理由を知らないのも、後代の秦氏の意思により忘れ去られた結果であると考えられます。

長崎県松浦市の不老山には徐福と役行者の関係を示す以下の解説板があります。

紀元前3世紀中国の秦の始皇帝の命を受け、徐福が不老不死の薬を求めて、この山に登ったという伝説があります。しばらくここにとどまり不老不死の薬を探したことから、この山を不老山と言うようになりました。日本ではただ1カ所 佐世保相浦白玉山で産出した自然水銀をもとに、この地で仙丹(不老不死の薬)を作ることに成功したので、それを中国に送り王侯・貴族の人々に珍重されたと言うことです。はじめ、欽明天皇24年(563) 山頂に不老権現を祀りその後、大宝2年(702) 徐福の教えを修得した「役小角」(えんのおつぬ)が徐福をあとを慕って不老山に来ました。山頂でシメを張り紫燈護摩の法を修し、熊野権現を祀りました。その時の座前石( 1 m )と思われる石が伝わっています。現在、里免にある寿昌寺は、はじめここに創建されたようです。
松浦市・松浦市教育委員会・松浦市観光協会


上記の文面に熊野権現とある点は注目されます。日色野町にある、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えと整合しているからです。そして、熊野権現は徐福を意味する場合があり、役行者は熊野権現と深い関係があります。一例として以下の和歌山県神社庁ホームページを参照ください。
http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=3014

熊野縁起では中国・天台山から飛来した熊野権現が最初に降臨したのが九州の英彦山(ひこやま)だとされています。徐福と天台山の関係は不老不死の薬とされる「天台烏薬」に象徴され、天台山はまた道教発祥の聖地でもあります。天台烏薬はクスノキ科の常緑低木で中国・天台山で産するものが最も良質とされます。

中国に不老不死薬があるなら何も日本に来る必要はなかったと思われますが、この辺は深く追求しません。なお徐福は、熊野速玉神社の境外摂社である阿須賀神社背後の蓬莱山で、不老長寿薬である「天台烏薬」を採取したとされています。徐福伝承と熊野がほぼ一体化していると理解されますね。そして東三河には熊野信仰が流入しているのです。


大きな地図で見る
阿須賀神社の位置を示すグーグル地図画像。徐福や蓬莱の地名もあります。

「その5」において、「東三河の秦氏を検討する上で難しい問題の一つがここにあります。秦氏の東三河への入植と、熊野信仰の伝播が混じり合ってしまい、切り分けられていないのです」と書きました。「その9」に至って、もう好例の一つが出現したようです。

謎の石像に関してあれこれ検討を重ねてきましたが、そもそも山岳修験の行者である役行者像が、山中を駆け巡る修行者の姿ではなく中国風の座像であるのは、徐福の存在が影響を与えているとしか考えられません。

以上の複雑で錯綜した関係性から、徐福→熊野権現→役行者と言う回路が形成されたと考えられます。よって石像が役行者像だったとしても、日色野町の秦氏にとっては徐福になるのです。(注:熊野と徐福の関係は、東三河における徐福伝承を包括的に検討する第4部で詳しく書く予定です)

ここまでの検討から一応矛盾は解消したので、石像の考察を続けます。写真でご理解いただけるように、石像の足元には例の二本の木も供えられており、一段と立派なものに見えます。集落内の各所で石や祠に供えられている二本の木の大元は、ここにあると考えられます。二本の木は既に考察してきたように、暦を意味し生贄を象徴するものでした。

だとすれば、生贄は日色野町において、秦氏の先祖(とされる)徐福に対して秦氏の手で供えられていると言うことになります。前回で菟上足尼命には生贄を求める要素が皆無と書きました。そう、生贄を求めた大神とは菟上足尼命ではなく、徐福であったのです。

でも、生贄はなぜ徐福に対して供えられるのでしょう?正平23年(1368年)に僧である絶海が明の太祖高皇帝に謁見し徐福について下問され、詩を詠じます。それを受けて太祖もまた和して、「熊野峰高血食祠」云々と詩で答えています。そして、血食祠とは生贄の動物を供えて祖先の霊を祀ることを意味していました。

生贄の象徴である二本の木が徐福石像に供えられているとすれば、徐福に関連する太祖の詩「熊野峰高血食祠」とも完全に合致していると理解されます。(注:太祖高皇帝の上記の詩に関しては、第4部で詳しく検討する予定です。いつ頃書けるのかまだ不明ですが…)

集落内各所にある二本の木が供えられた石や石祠は、徐福の分身(徐福の霊を勧請したもの)との理解も成り立ちそうです。また、12本の黒い横線は、生贄を1年12カ月の間、通して徐福にお供えすることを意味しているのでしょう。

記に加えて雀射初神事が菱木野天神社で行われていること。日色野町に秦氏の先祖(徐福)は中国から来たとの言い伝えがあること。さらに、菟足神社に伝わる生贄神事に関して、神社の解説板には「昔から中国的な生贄神事が行われている」と記載があること。などから、菟足神社における生贄神事の大元は、どの側面から見てもここ日色野町にあり、秦氏と徐福に関連して発祥したと考えられます。

次に、人物像の背後の石板を見てください。何か文字が刻まれています。どのような内容か知りたいのですが、残念ながらどうしても読み取れません。誰か地元の研究者の方が拓本でも取り解読いただければ有難いと思います。

役行者の姿をした石像の実体が徐福であるとしても、日色野町に秦氏の存在がなければ片手落ちです。秦さんを探してさらに集落内を歩きます。すると…、ありました。秦の表札です。

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表札。

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別の大きなお屋敷。

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表札。

こちらも秦さんでした。久我山同様、秦さんのお屋敷は地域内で一番大きいようです。日色野町に秦姓の方が居られるのは想定内のことでしたが、実際に目にすることができたのは幸いでした。これで徐福(と推定される)石像に、生贄と暦を象徴する二本の木を供えるのは秦氏だと言って間違いなさそうです。

                東三河の秦氏 その10に続く
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福江 徐福

徐福祠、徐福相 は「長門の西」 にあるという。

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