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東三河の秦氏 その10

東三河の秦氏
06 /15 2013

前回では日色野町の謎に挑戦しました。今回も別の謎に挑戦します。それは日色野町の名前に関連しています。日色野町に関して、当初「ひいろの」と読んでいましたが、実際の読みは「ひしきの」でした。かなり無理がある読みなので、多分本来の表記は別にあると思ったのですが、この地名は明らかに菱木野天神社が元になっています。

日色野の本来の地名は菱木野だったのです。それにしても、菱を「ひ」と「し」に分け、「ひ」を「日」に変え、「し」と木「き」をくっつけて「色」にするなんて、随分無理な地名の改変を行ったものですね。重箱読みならぬ、箱重箱読みでしょうか?或いは「菱」と言う名前を何らかの理由で隠したかった…?だとすれば、菱は東三河の謎と関係しているのかもしれません。

地図を見ると、もうご存知のように菱形と言う変わった地名もあります。


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菱形の地名を示すグーグル地図画像。

菱と秦氏は関連しているのでしょうか?既に書いたように、日色野は菱形の結界のように構成された集落となっており、秦姓の方が存在しているのです。実は以前にも書いていますが、秦園芸と言うお店もあり、秦さんが経営されています。ホームページは以下となります。
http://www.hataengei.com/

結界をなす菱形の集落の内部に秦姓の方が存在する。これには何か意味がありそうな気もします。菱形で思い起こされるのが宇佐神宮の由緒で、内容は以下の通りです。

全国四万余社の八幡宮の総本宮。宇佐に初めて八幡神が顕れたのは欽明天皇の御代で、御許山(おおもとさん)に鎮座。同天皇三十二年(571)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕れ、「我は誉田天皇広幡八幡麻呂(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり」と告げたので、この地に祀られた。これが宇佐神宮の始まりという。

八幡神は菱形の池から顕現(生誕)したと書かれています。随分奇妙な伝承と思われるでしょうが、菱形には秦氏や死と再生に関連する重要な意味があります。ここで、「風土記」(平凡社)を開きます。「風土記逸文 豊前国」には「広幡の八幡の大神 ある書にいう、豊前の国宇佐の郡。菱形山。広幡の八幡の大神。郡役所の東の馬城の峰の頂きに坐す」とありました。

宇佐神宮の社域は馬城峰の麓の菱形山(小倉山とも亀山とも言います)になるのです。秦王国である豊前国の八幡神にとって、菱形は極めて重要なものだと理解されますね。

秦王国である豊前国宇佐神宮の菱形。秦姓の方が存在する日色野町の菱形。両者の相似性を考慮すれば、菱木、菱形は秦氏と関係があります。では、菱形の意味を探ってみましょう。大和岩雄氏の「天照大神と前方後円墳の謎」(六興出版)には以下のように書かれています。

菱形というのは、洞穴の中にある小さな菱形池から、八幡大明神が生まれたという伝承による。ところが、菱形は女陰のことである。その考証は、吉野裕子の「菱形考」にくわしいが、犬山市宮山の大県神社の女陰石は菱形である。

豊橋市の岩屋には岩屋観音堂があり洞窟があります。秦氏にとっての神体山である本宮山の岩戸神社にも、女陰を表す岩の割れ目の中に祠があります。(注:本宮山に関しては別途書く予定です)

これらの洞窟(墓)に入り出ることは、死と再生を意味し、女陰を象徴する菱形も同様です。朝鮮の墓は女陰形のものがありました。当時は、この中に入り(死に)出ることで再生するという観念があったのです。天照大神が入って(死んで)、出てきた(再生した)天岩屋戸と全く同じです。詳しくは上述の大和岩雄氏の本を参照ください。

菱に関連するので菱餅について以下Wikipedia より引用します。

宮中で正月に食べられる菱葩餅が起源である説や、元は三角形であったが菱の繁殖力の高さから子孫繁栄と菱の実を食べて千年長生きをした仙人にちなんで長寿の願いを込め菱形にした説がある。菱形は女性の性器の形を模していると言われる。

菱は長寿や死と再生、女陰と関係すると理解されますね。しかも菱形は宇佐神宮(秦王国の豊前国)にあり、八幡神の誕生と関連している(つまり秦氏と関連している)のです。

日色野町の探索もほぼ終わりました。その結果を以下のように纏めることができます。

日色野町には、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えが存在しています。それは日色野町に秦姓の方が現在も居住していること、集落内に徐福の姿をした(と推定される)極めて古い石像が存在していることからして、事実を反映したものであろうと思われます。

秦氏は死と再生を司る一族であると、今までに何度となく論証を繰り返しています。一方日色野町には、徐福石像や石祠に12本の黒い横線を引いた2本の木が供えられています。これは正月に供えられ、暦としての役割を持つことから、太陽の死と再生を意味していると推定されます。熊野大神社前にある天照皇大神宮の石柱も天照大神の死と再生に関連しています。

不老不死薬を探し求め日本に渡来した徐福も、死と再生に関連していると言っていいでしょう。そして徐福石像には生贄を意味する二本の木が供えられ、これが元になって菟足神社の生贄神事が執行されていました。さらに日色野町の傍らを豊川が流れており、日色野町は正しく中央構造線に沿った場所に位置しています。

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豊川沿いの中央構造線露頭。鳳来寺山へ行った帰りに立ち寄ったものです。

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解説板。


大きな地図で見る
位置を示すグーグル地図画像。グランメゾン21の先の断崖あたりです。

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全く関係ありませんが、すぐ近くに馬場信房の墓がありました。

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解説板。

「人類進化の謎を解く」で人類はなぜ大地溝帯に発祥したのかを論じ、それも死と再生に関係する点を詳述しています。(注:詳しい内容は記事カテゴリ「人類進化の謎を解く」を参照ください)よって中央構造線も大地溝帯とほぼ同様の機能を持っている、すなわち死と再生に関連していると考えられます。

以上から、日色野町には死と再生を暗示させる数多くのものが揃っていると理解されます。この地には秦氏が存在しているのですから、酔石亭主にとってそれは全く当然のことと思われました。日色野町に死と再生を暗示させる暗号が揃っていることは、本論考の中で検討する別の謎とも深くかかわっていそうです。まだ先の回となりそうですが、このことはご記憶に留めておいてください。

                 東三河の秦氏 その11に続く
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酔石亭主

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