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東三河の秦氏 その19 徐福伝承の謎


今回は古座侍郎の上陸地点と定着地を探索しましょう。「牛窪記」から関係しそうな部分のみを抜き出します。

ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者。往昔秦氏 熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ。此国沖六本松ト云濱ニ来ル。長山之神者常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイへリ。

まず定着地ですが、牛久保の庄は、秦氏が熊野権現を常左府長山之郷に勧請したとあります。長山の神が常に天地を長く護られたので、牛久保の庄の名も常左府と言うとあります。そして、牛久保と長山の地名は今でも存在しています。


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牛久保町と下長山町を示すグーグル地図画像。

同じ地名が二つとも現存する以上、定着地はここに間違いなさそうですが、実はそう簡単ではありません。なので、じっくり検討していきます。一方、徐氏古座侍郎は沖の六本松と言う浜に上陸したことになります。ところが、現在そうした地名は見られず特定が困難なので、あれこれ推理を重ねる必要があります。では、上陸地点と定着地点を同時並行的に「牛窪記」や各種地元史料を参照しつつ探っていきましょう。

「牛窪記」には、牛久保の庄と長山の郷が並列的に書かれていますが、かつての地名構成は宝飯郡牛久保村下長山だったことから、長山の郷は牛久保の庄の中に含まれていると考えられます。(注:或いは逆かもしれませんが、長山と牛久保は隣接しており、一体的に見ればよいと思います)

また、ストーリーの流れからすれば、牛久保の庄(牛窪の庄)の以前の名前が常左府であったと理解されます。(注:地名が牛窪となった由来や時期に関する伝承もありますが、長くなるので省きます)

「故ニ庄ノ名モ常左府トイへリ。」の後には、以下の文面が続きます。(注:原文は「その18」の画像を参照)これは常左府(=牛久保)の位置を特定する記述と理解されます。

辰巳(たつみ、南東)豊河星野ヲ堺ヒトシ、戌亥(いぬい、北西)然菅(しかすが、菟上足尼命が上陸した柏木濱の志香須賀)ノ渡ヲ涯ル。丑寅(うしとら、北東)ハ本野原本宮山ヲ望、未申(ひつじさる、南西)ハ六本松ノ浜ナリ。

(牛久保から見て)南東方向が豊川の星野でこれが境となり、北西方向は志香須賀の渡しが果てとなる。北東は本野原、本宮山を望み、南西は六本松の浜とあります。一応四つの方位が示されていますね。

まず事前の推定として、上陸地点候補は二カ所に絞られそうです。一カ所は菟上足尼命が上陸した柏木濱すなわち然菅(志香須賀)の渡し付近。もう一カ所は持統上皇が東三河行幸の際に上陸したとされる安礼の崎(御津町の浜)付近です。四つの方位の中に、志香須賀の渡しがあり、それ以外に六本松の浜が出ていることから、文面を見る限りでは六本松の浜は御津町の浜と想定されます。(注:方位は単に六本松の浜ですが、上陸地は沖の六本松と言う浜とあり、微妙な違いがある点留意ください)

ところが四つの方位のうち、「戌亥(北西)は然菅の渡し」の部分に誤りがあります。牛久保から見て北西が然菅の渡し(=柏木濱)なら、牛久保は海の中。これでは検討が進みません。と言うことで、「牛窪密談記」を参照します。こちらには「戌亥(北西)ハ八幡ノヲヒワケヲ涯(かぎ)ル」と書かれているので、「牛窪記」の誤りは訂正されています。

では、八幡の追分とはどこでしょう?答えを得るには、八幡と追分の両方の地名がある場所を探す必要があります。八幡は豊川市の八幡宮(鎮座地:豊川市八幡町本郷16)が鎮座する辺りと思われます。そして追分とは姫街道と東海道が分岐した御油の追分に比定されると思われます。


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八幡宮周辺を示すグーグル地図画像。

御油の追分は以下の豊川市観光協会ホームページを参照ください。
http://www.toyokawa-map.net/kanko/oiwake.php

八幡の追分はほぼ特定できたので、方位の検討を続けます。「南東の豊川星野を境とし」、の星野は豊橋市下条東町に星野の地名がありました。しかし、この場所は豊川の東になってしまい境とするには矛盾が生じます。あれこれ調べたところ、牛久保町の南東に位置する行明町は星野勘左衛門行明に由来する名前で、行明寺は星野勘左衛門行明が菩提寺として開基したお寺でした。また「三河国宝飯郡誌」には「正岡村(旧行明郷ノ地ニテ星野荘云々)」とあり、現在の正岡町、行明町一帯を星野と特定して問題なさそうです。


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正岡町、行明町一帯を示すグーグル地図画像。

北東の本野原は多分東名の豊川インター付近に当たるでしょう。


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本野原(現在の本野ケ原)の位置を示すグーグル地図画像。

周辺には秦氏を象徴する豊を冠した地名が数多くあります。(注:本野ケ原の西にも穂ノ原、本野原の地名が見られますが、酔石亭主としては現在の本野ケ原を「牛窪記」の本野原に比定します)

そして、御津町の浜が六本松との推定に基づき、「牛窪記」の記述に沿って本野原から南西方向に当たる御津町に線を引けば六本松の浜になるはずです。


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御津町一帯を示す地図画像。

では、上記を地図上に線引きします。

003_convert_20130701083209.jpg
方位線を引いた地図。(注:地図画像に引いた南西ラインの端はもう少し南寄りの引馬野旅館とある辺りにすべきでした)

いかがでしょう?古座侍郎の上陸地点は御津町とわかりますね。御津町には持統上皇が東三河行幸の際、上陸したとされる安礼の崎があります。こことほぼ同じと思われる地点に古座侍郎も上陸したことになります。


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持統上皇上陸地付近一帯を示す地図画像。

御幸浜や引馬の地名などは持統上皇の行幸に関連しています。(注:他にも多くの関連地名あり)安礼の崎の安礼は多分阿礼(あれ)に由来し、神が誕生することを意味しています。つまり、御阿礼神事、御生神事(いずれも、「みあれしんじ」と読みます)に関連する地名となるのです。持統上皇の上陸地点にこうした意味を持つ地名があることは、謎とされる東三河行幸の目的や意味に関係してきますが、その追求は第4部にて検討します。

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引馬神社。

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解説板。

上記に加え大島先生は、「御津町史」の記事「往古当国御馬(古名号引馬里)ノ西ノ方二浜ノ六本松ト云有…以下略」を論文に掲載しています。六本松は引馬神社が鎮座している引馬里の西の方(実際には北西)にあることになります。一方安礼の崎は、音羽川から北西の御津川に至る間に存在していたと推定されます。現在は消滅しましたが、かつては1km程の砂嘴(さし)があってそこが安礼の崎だったのです。(注:「御津町一帯を示す地図画像」で引馬野旅館の先にある埋立地が安礼の崎のイメージにほぼ重なります)

「持統上皇上陸地付近一帯を示す地図画像」では引馬神社が見えています。この画像を北西方向に動かせば御津川が見えてきます。以上から、安礼の崎と六本松はほぼ同じ場所になると推定されるのです。方位から検討しても地元の古い地名から推定しても、古座侍郎の上陸地点は御津町の安礼の崎になると考えて間違いなさそうです。

大島先生の論文を見ると、「牛窪記」の場合上陸地点は沖の六本松(方位は単に六本松)ですが、「牛窪密談記」では御津或いは沖の六本松に変わり、「参河名所図絵」では御津沖の六本松となって、徐々に御津へ変化していく経緯が読み取れます。まるで伝言ゲームみたいですね。(注:御津沖の六本松とあるのは、安礼の崎が海岸線とほぼ平行に伸びる砂嘴だったため御津の海岸から見ると沖になり、そう記載したものと判断されます)

一方、酔石亭主がチェックした「参河寶庫大全」には以下の記述がありました。

002_convert_20130702133309.jpg
「参河寶庫大全」の画像。

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もう一枚。

関係する部分に赤線を引いています。最初の画像では、「三河の宝飯郡海辺御津浜の六本松と称する所に上陸す」との記述があり、御津沖の六本松が御津浜の六本松となって伝言ゲームもほぼ最終段階を迎えます。しかも、上陸したのは徐氏古座侍郎だったはずが徐福に変わってしまいました。正に伝言ゲームそのものと思えます。

「参河寶庫大全」には他にも面白い記述もあるので、現在のテーマから外れますが少し書いてみます。

最初の画像の最終行から次の画像部分は、「随行の童男女が成長して居民となり秦氏と称す。これが東三河に秦氏の多い理由である」と書かれています。徐福の孫である古座侍郎の子孫が秦氏のはずなのに、ここでは随行の童男女が秦氏になってしまいました。さらに続いて、「この民族は長山神社を建て」とあります。長山熊野神社の創建が秦氏によるものと理解される記述です。

また、「随行の童男女は悉く三河に居住せしも、移民を隠さんとして、遂にその家系を失うに至れり」との記述もあります。秦氏が他氏族の中に潜り込み、身を隠したため行方がわからなくなったとも受け取れる内容です。

最後の部分「鵜殿氏その他明らかに知れるは数氏あるのみ」は、やや首をひねりたくなる記述です。この記述通りなら鵜殿氏は秦氏となります。鵜殿氏は鎌倉時代に熊野新宮から海路で現在の蒲郡市に移住して上ノ郷城を築城したとされます。そして、鵜殿長善の子である鵜殿長将が常香の孫で秦氏末裔を称していたようです。鵜殿氏の出自に関しては諸説あり、「熱田神宮の謎を解く」に登場した高倉下命の後裔ともされています。

鵜殿氏が「参河寶庫大全」の記述通り秦氏の末裔だとすると、熊野の徐福伝承を持ち込んだのは彼らかもしれません。ただ、鵜殿氏の流れを見る限りでは、徐福伝承とは全く無関係なように思えます。色々出てくるので本当にややこしいですね。もっとややこしいことに、古座は地名でしたが鵜殿も熊野にある地名で、現在も存在します。


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鵜殿を示すグーグル地図画像。
場所は三重県南牟婁郡紀宝町鵜殿で、徐福の墓や蓬莱山がある新宮市の熊野川を挟んだ対岸になります。鵜殿氏が秦氏の末裔と称したくなる気持ちがわかりそうな場所ですね。

古座侍郎の上陸地点に話を戻します。ここまで検討を積み重ね、御津町には六本松の地名があり、複数の地元史料が御津町の浜或いは沖の六本松を上陸地点にしていると判明しました。これで確定と言いたいところです。

けれども、方位線を引いた地図にはどう考えても矛盾があり、酔石亭主は地元史の記述に大きな疑問を感じます。うまく纏められるか不安もありますが、詳しくは次回にて……。

              東三河の秦氏 その20 徐福伝承の謎に続く
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