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東三河の秦氏 その21 徐福伝承の謎


古座侍郎の上陸地点と定着地点について「牛窪記」で検討が進まないなら、北西方向が正確だった「牛窪密談記」を元に考えるべきですが、その場合、上陸地点が確定できません。上陸地点部分は、「徐氏古座侍郎舟ヲ泛ベ、此国御津或ハ沖ノ六本松ト云所ニ来。」と二カ所を記載しているからです。

加えて、上陸地点を「御津或いは沖の六本松」と記載したため、「牛窪密談記」では南西(未申)の方位が特定できなくなると言う問題が出てきました。(注:「御津」を御津の浜、「沖の六本松」は御津沖の安礼の崎と考えればほぼ同じ場所となり、その場合は南西方位が記載漏れになっただけのことになります)「牛窪密談記」の方位関連部分は以下の通りです。

辰巳ハ豊川ノ波静ニシテ星野ノ流ヲ堺トシ、戌亥ハ八幡ノヲヒワケヲ涯ル。丑寅ハ本宮山ヲ望ム。山下ヲ本宮ノ長山ト号ス。トコサブ下長山二続ク。其間二有ル原ナレバ本宮ノ原ト云ベキヲ、略シテ本野ガ原トヨブ。

南東は豊川の波静かにして星野の流れを境とし、北西は八幡の追分をかぎる。北東は本宮山を望む。山下を本宮の長山と号す。常左府下長山に続く。その間にある原なれば本宮の原と言うべきを、略して本野ガ原と呼ぶ。

上記のように南西の方位は不明ですが、良く読むと重要な内容も含まれています。まず前回の常左府(=常寒)の範囲を推定する地図画像を再度参照ください。

0011_convert_20130704155538.jpg
常左府(=常寒)の範囲を推定する地図画像を再度掲載。

地図画像で赤い線の大囲いの中に「長山」があります。これが本宮の長山(現在の上長山町)に当たります。そして、上長山町と下長山町の間が本野ケ原となるので、東名豊川ICの南西が本野ケ原で間違いなさそうです。(注:上長山、本野ケ原、下長山を紫の楕円で囲みました)よって、古座侍郎の定着地は現在の下長山町から牛久保町一帯と断定せざるを得ません。やはり黒い線の囲み一帯が古座侍郎(実体は秦氏)の定着地となるのです。

でも、牛久保町が常左府であれば、御津町の浜を六本松とした場合、方位が真西となって、「牛窪記」に書かれた「常左府(牛久保)の南西」とはならない矛盾が生じてしまいます。(ややこしくて大変ですがもう少しお付き合いください)

この矛盾を解消するにはどう考えればいいのでしょう?と言うことで、六本松を然菅の渡し(=志香須賀の渡し、柏木濱辺り)に比定して検討を加えます。

まず、「牛窪記」が熊野信仰の影響を強く受けていることを考慮に入れてみましょう。すると、違った風景が見えてきます。平安末期から鎌倉初期にかけて熊野信仰が東三河に流入しました。熊野信仰を担う熊野本宮の神官鈴木氏たちは、持統上皇時代既に整備された御津町の浜(安礼の崎)に上陸していたと思われ、それを古座侍郎の上陸地点としてしまった可能性が浮上します。

古座侍郎(実体は秦氏)が御津町に上陸したなら、現在もそこに秦氏がいると推測されます。でも、御津町に秦姓は存在せず、現在ここに居られるのは傍流の羽田野姓となります。(注:御津町に多い波多野姓は相模国から移住した藤原秀郷流波多野氏の流れになるので別物です)一方柏木濱に近い日色野町には秦姓が存在し、「秦氏の先祖は、中国から熊野に渡来し、熊野からこの地方に来た」という言い伝えが残っています。

しかも、雄略天皇の時代に秦氏との関係も考えられる菟上足尼命が柏木濱に上陸しているのです。また常左府(牛久保)に行くためには、御津町に上陸するより、柏木濱に上陸して引き続きほぼ内浦状態だった豊川を遡るのが遥かに合理的と思われます。状況証拠を見る限り柏木濱が六本松と特定できそうな気配です。さて、常左府の位置に関する「牛窪記」の記述は以下でした。

辰巳(たつみ、南東)豊河星野ヲ堺ヒトシ、戌亥(いぬい、北西)然菅(しかすが、菟上足尼命が上陸した柏木濱の志香須賀)ノ渡ヲ涯ル。丑寅(うしとら、北東)ハ本野原本宮山ヲ望、未申(ひつじさる、南西)ハ六本松ノ浜ナリ。

上記の中で誤りは「戌亥(いぬい、北西)然菅ノ渡ヲ涯ル。」です。これは「牛窪密談記」により、八幡の追分に訂正されています。すると、「未申(ひつじさる、南西)ハ六本松ノ浜ナリ。」の記述がそのまま牛久保の南西に当たります。本野ケ原から牛久保経由南西に線を引くと柏木濱に至りました。徐氏古座侍郎が上陸した六本松は、菟上尼足命が上陸した柏木濱と同じ場所になるのです。以上をベースとして、方位線を引いてみます。

004_convert_20130704155507.jpg
方位線を引いた地図。

いかがでしょう?方位線のほぼ中心に常左府(牛久保)が位置し、南西、南東、北東、北西の方位も「牛窪記」、「牛窪密談記」の記述と完全に一致しました。もちろん「南西は六本松の浜なり」が誤りで、「西は六本松の浜」の可能性も多少はあります。しかし、方位に東西南北はなく、唐突に西のみが出てくる可能性は極めて低いと言えるでしょう。

これで、古座侍郎の上陸地点は柏木濱と特定されることになります。複数の地元史が特定する御津町の浜は間違いだったのです。「牛窪記」は上陸地点に関して御津町を示唆する「沖の六本松」と記載する一方、方位は「未申(南西)の六本松」としたことから、以降の地元史は御津町へと傾斜していきました。

「牛窪記」に見られる上陸地点と方位の微妙な違いが誤認を招く元となったのです。上陸地点を方位同様、単に六本松の浜とすれば、こうした混乱は起きなかったものと思われます。

酔石亭主は、秦氏である古座侍郎の上陸地点は秦氏エリアの柏木濱以外にない、と最初から決めてかかっていました。今回はその考えに沿って検討を重ねてきた訳です。徐福の孫・古座侍郎とは熊野系の手で衣替えさせられた秦氏であり、その前提で考えれば、上陸地点も秦氏エリア内の柏木濱にならざるを得ないのです。以上で上陸地点と定着地の検討を終わります。

なお、常寒の地名が牛窪に改められたのは、「牛窪密談記」によれば明応2年(1493年)となります。 一つ問題点を挙げると、長山熊野神社は元文元年(1736年)に現在地に遷座しています。それ以前は現在地の辰巳(南東)方向に鎮座していたようです。どの程度離れた位置から遷座したのか不明ですが、南東方向は短い距離で境の星野荘になることから、かつての鎮座地は現在地に近いと想定され、問題にはならないと思われます。

             東三河の秦氏 その22 徐福伝承の謎に続く

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