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東三河の秦氏 その24 徐福伝承の謎

東三河の秦氏
07 /08 2013

現地訪問で収穫がなかったため、今回は主に史料から長山熊野神社について検討します。では、以下の「牛窪記」記載内容を参照ください。

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「牛窪記」の画像。

熊野権現神領宝物云々の項の最終行に、「此社司ハ任前例秦ノ子孫守之」とあります。長山熊野神社の宮司は代々秦氏が務めていたと判断される記述です。秦氏が熊野権現(徐福の霊)を長山の郷に勧請したのですから、宮司は秦氏が務めていたと考えて特に問題はありません。問題は、この秦氏が当初からの秦氏すなわち徐福系秦氏かどうかです。

大島先生が書かれた論文資料からの孫引きになりますが、「牛久保・長山郷土史史料写真集」第二集によれば、長山熊野神社は「神主秦氏後に穂積氏から鈴木と改め、後世神保と改めたとある。」とのことです。また、「神主の姓は古代の氏にして、家紋と社紋が同じであるのを恐れて、家紋を変えたとある。右のことからして熊野系としては、宝飯郡東部最古の神社と言う。」とあります。(注:神主の姓とは秦姓を意味すると考えられます)

この記述から、長山熊野神社神主は徐福系秦氏の後に、熊野発祥の物部氏系穂積氏流鈴木氏、秦氏を自称する神保氏に変遷していると理解され、酔石亭主が想定していた徐福伝承の三層構造が明確となります。

「その22」で少し触れたように、徐福系秦氏の時代にはもちろん独立した神社など存在せず、屋敷内に氏神として祀られ、決まった時期に秦氏系村民がひっそり祭祀を執行していたのでしょう。この期間は秦氏による私的信仰の時代と言えそうです。

長山熊野神社が熊野系として宝飯郡最古の神社とすれば、熊野信仰の最初の伝播に伴い徐福伝承が長山の郷に流入したことになります。時代的には1190年以前かもしれませんね。その時点で長山熊野神社社殿が造営されたのでしょうか?多分違うと思います。熊野神社本宮から派遣された穂積氏あるいは穂積流鈴木氏は、布教目的でこの地に入ったことから、自宅の一部を集会所のような形にして人を集めていたと推定されます。

徐福子孫を自称する秦氏の地に熊野系が選択的に入って来た結果、この時点で徐福系秦氏は姿を消し、徐福伝承も熊野系のものに入れ替わってしまいました。(注:秦氏の地である日色野町にも熊野大神社が鎮座していおり、同様の事態になっていると理解されます。なお、随分以前に書きましたが、秦氏は平安京遷都後に歴史の表舞台から姿を隠しているので、東三河の徐福系秦氏も平安初期に姿を消した可能性があります)

さらに、秦氏が自分たちの存在を隠そうとした点も「牛久保・長山郷土史史料写真集」の記述「家紋と社紋が同じであるのを恐れて、家紋を変えたとある。」の中で明らかになります。秦氏は自らのアイデンティティーを消し去り、他氏族の中に潜り込んで姿を隠したのです。東三河においても秦氏関連の資料が極めて少ないのは、こうした事情によるのでしょう。

穂積氏流鈴木氏は熊野本宮の出身で、熊野詣でに訪れる信者を世話する熊野御師として、代々神官を務めました。鈴木氏は熊野神社の勧進を進め伊勢湾を越えて東三河に入り、東日本を中心とした日本全国へ広まっていったのです。現代における鈴木姓で有名なのが、野球のイチロー選手です。もっとも彼の出身は愛知県の西春日井郡ですが…。

さて、ここまで長山熊野神社の推定来歴を見てきました。熊野の徐福伝承が長山の郷に流入した後移住してきたのが神主神保氏です。と言うことで、次に神保氏に関して調べてみます。

古書街で有名な神田神保町の地名由来となった神保氏は、上野国多胡郡辛科郷神保邑から出た大族でした。彼らが畠山氏に仕えたのは1300年代後半となります。となると、彼らは多分1300年代初め頃鎌倉に進出したのでしょう。同じ時期に、一部のメンバーが東三河に移住し、長山熊野神社神主となったものと推定されます。

「熊野神社御造営書留帳」には「文保2年(1318年)に本社氏子建立、神主秦氏神保平太郎重綱」との記述があります。注目すべき内容は「神主秦氏神保平太郎重綱」で、これを見る限りでは神保氏は秦氏となりますが、一般的には秦氏の流れをくむ惟宗氏の後裔とされています。

しかし、神保氏が秦氏としても傍流の傍流になる訳です。彼らは平氏、橘氏の流れとする説もあり、多胡郡の出とすれば毛野氏かもしれず、はっきりしない部分も多々あります。神保氏は別として、奈良の正倉院収蔵の掛布屏風袋銘文に、「上野国多胡郡(こうずけのくにたこぐん)山部郷戸主秦人」とあり、多胡郡にも秦氏の存在は認められます。

神保氏が一応秦氏であるとすれば、長山の郷に伝わった徐福伝承に代々の神保氏が一部加筆の上整理・保存し、最終的に「牛窪記」記載の徐福伝承に繋がったと言う経路もほぼ明確になってきます。長山熊野神社の社殿造営は、多分神保氏の時代になってからのことでしょう。(もちろん熊野系の時代に造営された可能性もありますが…)

長山熊野神社縁起書には、欽明天皇の丙寅年(545年)熊野神を勧請創祀するという。白鳳元年(672年)9月、造営若一王子を祭る。大宝3年(703年)圭田を奉る。寛和元年(985年)熊野本宮を併せ祀り三社大権現、能野本宮と称した。とあるようです。(注:原文は未確認です)672年9月、造営若一王子を祭るなど時代的に見てあり得ません。一般的に由緒や縁起書は箔付けのため時代をできる限り遡らせるので、そう書かれているだけとしておきます。

若一王子は熊野那智大社第五殿に祀られる神で、天照大神のこととされています。王子が女神とはややおかしいような気もしますが…。熊野信仰が広がる際、若一王子のみを勧請する場合も多かったようです。長山熊野神社に関して「牛久保・長山郷土史史料写真集」は、旧称熊野大権現又は若一王子権現としています。

以上を纏めると、
1. いつの頃か不明だが、この地に徐福子孫を自称する徐福系秦氏が移住し、彼らにより持ち込まれた徐福伝承が存在していた。
2. 1190年代頃東三河に入った熊野系は、それを自分たちが持ち込んだ徐福伝承に入れ替えた。
3. その後、惟宗流秦氏である(と思われる)神保氏が1300年代初頭に長山熊野神社の神主になった。
4. 熊野系の影響を受けた徐福伝承が神保氏の手で加筆・整理・保存されて江戸時代まで伝えられ、「牛窪記」に掲載された。
と整理されます。あれこれ探索・検討した結果、当初の推定とほぼ同じになったようです。

熊野系が秦氏末裔ともされる鵜殿氏であれば、上記の流れが全て秦氏関連になるのですが、入植地は三河蒲郡であること、武家として勢力を伸ばしていったことなどから、東三河の徐福伝承とは関係ないと言えます。

             東三河の秦氏 その25 徐福伝承の謎に続く
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