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東三河の秦氏 その56 持統上皇東三河行幸の謎


前回までを整理すると、藤原京を出発した持統上皇は伊賀国を経由して伊勢国の飯野高丘宮周辺に入り、松阪市の円方(現・東黒部町辺り)から東三河に向け出港したことになります。

「その53」で簡単に触れていますが、この経路はちょっと妙だと思いませんか?「続日本紀」によると、持統上皇(注:ここでは仮に持統上皇としておきます)は復路の11月22日伊勢国に至り、国守佐伯宿祢石湯に封土10戸を賜う。とあります。11月24日は伊賀国に至り、行幸の経路の諸国(尾張・美濃・伊勢・伊賀)の郡司および百姓のそれぞれに叙位・賜禄などを行っています。

往路で伊賀国と伊勢国に行ったなら、その時点で叙位・賜禄をすればいいはずなのに、していません。実に奇妙ですね。この矛盾を整合性のあるものに再構成するには、既に書いたように、諸国の叙位・賜禄は持統上皇ではなく文武天皇によるものであったとするしかないのです。

「その52」で書いた持統上皇東三河行幸の行程に関して、持統上皇の部分は赤字のみで、文武天皇の部分を青字としたのは、この視点からも正しそうに思えます。さらに踏み込むと、上記から往路は持統上皇のみの行幸となり、文武天皇は既に東三河にいて、そこで上皇を出迎えたことになります。

文武天皇の問題は別途詳しく検討するとして、今までの検討から持統上皇東三河行幸の隠れた意味が明らかになります。これは正しく元伊勢の旅であったのです。すなわち倭姫命の元伊勢には、持統上皇の東三河行幸が反映されていたことになります。(注:この点も「その51」で簡単に触れています)

よって、倭姫命の元伊勢ストーリーと持統上皇の出航地がいずれも円方にリンクしてきたのです。持統上皇の行幸=倭姫命の元伊勢の旅とすれば、出航後の上陸地もおのずと決まってきそうに思えます。

では、円方(現在の松阪市)を出港した持統上皇はどこに向かったのでしょう?通説によると伊勢湾から三河湾に入り、御津町の安礼の崎に上陸したとされます。安礼の崎に関しては「東三河の秦氏 その19」で書いていますので参照ください。しかし、酔石亭主はその前に別の場所へ立ち寄ったと考えています。ヒントは伊勢行幸と渥美半島における元伊勢にあります。

「その51」にて持統天皇は伊勢行幸の際、伊良湖岬辺りに上陸したと書きました。伊勢行幸における経験を踏まえると、東三河行幸の渥美半島における最初の上陸地点は伊良湖岬周辺となり、そこから船で元伊勢・渥美宮のある田原市に向かったと考えられるのです。

この視点を補強するような伝承がないか探したところ、渥美半島の伊良湖村に持統天皇陵があるとの説を発見しました。本件もこんちゃん様のブログからの引用になります。内容は以下の通り。

三河の歴史史料として元文5年に佐野知尭(さのともたか)によって記された三州古墳の渥美郡伊良湖村のところに「持統天皇陵奉祭大明神云説」という記述があります。つまり持統天皇のお墓と言われる物が伊良湖にあったという記述です。これはどういうことなのでしょう?実際のところこの持統天皇陵は伊良湖では未だ確認できていません。しかしこれが仮に本当にあったとしたら、持統上皇は三河行幸において、渥美の伊良湖に寄り、自分の墓を作りまさに変成男子となったと考えられませんか?そう、伊勢の的方から船にて伊良湖に渡航し、そこで一度女性の持統天皇は死んだことにした、もしくはそういう儀式を執り行った。

こんちゃん様のブログ詳細は以下のURLを参照ください。
http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11471896106.html

もちろん持統上皇がここで亡くなった訳ではありません。例えば、こんちゃん様の指摘と同様に死の儀式を渥美半島先端部で執行したとは考えられないでしょうか?それが後世に伝えられるうちに、亡くなった→墓がある、と言った話に転化したと思われます。

旧伊良湖村で死の儀式を終えた上皇は再び船に乗り、田原市に向かいました。根拠は「その35 養蚕と機織り」にて書いた以下の内容です。

そこで地元の伝承をチェックしたところ、倭姫命は嵐に遭って田原市北方にある姫島(島名は倭姫命に由来)に漂着し、現在の田原市仁崎に上陸したとされているようです。また仁崎には五十鈴川があって不思議だと思っていたのですが、ちゃんとストーリーがありました。伊勢に入り五十鈴川のほとりに天照大神を鎮座させた倭姫命は、仁崎の村人のもてなしに感謝し、仁崎村に流れる川を五十鈴川と名付けたそうです。

以上、田原市にある姫島と五十鈴川の両方が倭姫命に関係していると判明しました。


大きな地図で見る
姫島を示すグーグル地図画像。


大きな地図で見る
五十鈴川を示すグーグル地図画像。

但し川の名前は出ていません。上流部に地名の五十鈴があります。

この伝説を勘案すれば、倭姫命である持統上皇は伊良湖岬付近を出港し、渥美神戸すなわち元伊勢である渥美宮(現在の田原市)に立ち寄ったことになります。(注:元伊勢第一号の笠縫宮は磯城郡田原本町秦荘の秦楽寺境内にあり、隠市守宮の候補地(伝承地)も三重県名張市東田原であり、渥美宮が田原市であるのは偶然でしょうか?)

さて、倭姫命の元伊勢に持統上皇の東三河行幸が反映されているなら、倭姫命=持統上皇となります。倭姫命は天照大神を奉じて各地を巡行し、持統上皇は自らを天照大神に擬しています。とすれば、一体どうなるのでしょう?正しくビックリ仰天なのですが、天照大神=倭姫命=持統上皇になり、全部が同一人物となってしまうのです。

           東三河の秦氏 その57 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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