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東三河の秦氏 その58 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
11 /19 2013

前回で持統上皇の東三河行幸に隠された意味は元伊勢の旅と書きました。既にご存知のように、これにはもう一つの隠された意味・暗号があります。それは死と再生ですが、この問題は後の回で検討するとして、東三河行幸ルートの検討を続けます。

前回までの流れを再度整理し直します。藤原京を出発した一行は、元伊勢である宇陀や名張を経由して松阪市に入ります。松阪市の円方を出航した持統上皇はまず伊良湖岬付近に上陸、死と再生の儀式における死のパートを執行します。続いて姫島を経由して田原市付近に上陸、元伊勢である渥美宮に入ります。

渥美宮を出て出港した上皇は御津町の安礼の崎に上陸しました。それは行幸に同行した高市連黒人の以下の万葉歌から推定されます。

二年壬寅、太上天皇、参河国に幸しし時の歌 (巻一・58)

いづくにか舟泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚なし小舟
右一首高市連黒人

一体何処に舟泊まりしているのだろう、安礼の崎を漕ぎ廻って行った、あの棚なし小舟は。

「棚なし小舟」とは左右の内側に棚板(舷側板)の付いていない、単に木を刳り抜いただけの刳船つまり丸木船のことです。波に飲み込まれそうな小舟が安礼の崎を漕ぎ廻って視界から消えることで、作者の不安感が高まります。それが、自分自身の旅に対する不安を誘発し、情景と作者の情感がうまく重なり合った歌になっています。

しかしこの歌は、歌の後に「右一首 高市連黒人」とあります。なぜ歌の前に「高市連黒人作歌」と書かれていないのでしょう?理由は多分、視点の中心に持統上皇がいるからです。黒人が上皇の心情を忖度して(或いは上皇に命じられて)作歌したため、歌の前に「高市連黒人作歌」と言った文言が入らない形になったのです。

視点の中心に持統上皇を据えた場合、詠歌の意味はがらりと変わり、粗末な小舟に乗っている民に思いを寄せる上皇の気持ちが前面に出てきます。高市連黒人は上皇の心情を詠む歌の中に自身の心情をも織り込んだのです。彼の極めて高い作歌能力が窺えますね。

安礼の崎の位置関係に関しては「その19」にて書いていますが、グーグル地図画像を再掲します。


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安礼の崎を示すグーグル地図画像。

安礼の崎は当時海岸線と並行する洲崎状態で、現在は存在していません。地図画像にある埋立地で安礼の崎をイメージください。(注:画像では見えていませんが、音羽川河口付近の天狗缶詰とある別の埋め立て地に安礼の崎の地名が付いています。もちろんこれは新しいものです)

高市連黒人の歌は一行が安礼の崎に上陸して洲崎から歩いて陸側の海岸線に至り、そこから安礼の崎を見返して詠んだものと思われます。安礼(あれい)を新居が転じたものとして上陸地点は静岡県浜名郡新居町だとの説もありますが、上皇の痕跡は御津町に集中していることからして、新居説は間違いだと思います。また新居説の場合、高市連黒人の歌に見合うような地形も存在していません。

さて、持統上皇は行幸の真の目的を隠し、幾つもの暗号をちりばめています。東三河における上陸地にも暗号が隠されているとすれば、それはどのようなものでしょう?調べてみると、安礼の崎の前に上皇が上陸した(と推定される)田原市の渥美宮近くには稗田の地名がありました。


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稗田の位置を示すグーグル地図画像。

稗田には渥美半島における最大の横穴式石室を持つ城宝寺古墳があります。城宝寺は空海と関係があり、空海が江ノ島から西国への帰途この古墳窟の中で護摩の修行をして、弁財天を信仰されたのが寺の始まりとのこと。これらからも稗田のただならぬ位置付けを察することができます。古墳の詳細は以下を参照ください。
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/kinenbutu/siseki/kensitei/0913.html

そして田原市の次の上陸地点は安礼の崎。ここに上皇の暗号が組み込まれていると推測されます。そう、稗田に安礼。続ければ稗田阿礼。稗田阿礼は「古事記」を誦習した人物とされています。当然その内容に持統上皇は影響を与えていたはずです。さらに面白いのは、天照大神が天の石屋戸に隠れた時、日本史上最初のストリップショーを演じたのが稗田阿礼の祖とされるアメノウズメであり、彼女も天照大神の死と再生に関与していることです。

さらにさらに面白いのは、阿礼が神の誕生を意味している点です。例えば下鴨神社には有名な御生神事(みあれしんじ、=御阿礼神事)があります。御生とは神の誕生や降臨を意味しているのです。さらに阿礼は巫女を意味しています。 御阿礼神事を行う巫女を阿礼乙女と呼ぶことからも、それは確認されます。巫女アマテラスが天の石屋戸に入り(死に)、出るときは太陽神・天照大神として再生する。その意味までもが上陸地点の地名に隠し込まれているとは思えませんか?

持統上皇は渥美半島で死の儀式を執行し、安礼の崎に上陸してから日色野町の菱形にて再生の儀式を執行したと考えれば、それぞれ地名の意味が一層明確になります。もちろん死と再生の儀式の執行には秦氏の助けがあったものと思われます。全てが密接に絡み合い、とても面白い符合になっていますね。

            東三河の秦氏 その59 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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