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東三河の秦氏 その59 持統上皇東三河行幸の謎


前回で持統上皇の安礼の崎上陸までを見てきました。今回から持統上皇の御津町上陸後の足取りを追ってみたいと思います。

御津町には御幸浜の地名があります。これは音羽川西側の埋め立て地に付けられた新しい地名でしょうが、上皇の行幸(御幸)にちなんでいるものと思われます。また安礼の崎の地名が音羽川河口の埋め立て地に付けられたのは既に書いています。

では、上皇の行幸にちなんでいそうな古い地名を万葉歌から拾っていきます。長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)は持統上皇の東三河行幸に従駕した際、以下の歌を詠んでいます。

二年壬寅、太上天皇、参河国に幸しし時の歌(巻一・57)

引馬野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
右一首 長忌寸奥麻呂

引馬野に美しく色づく(染まる)榛(はん)の木の林の中へ皆で入り乱れ、衣を染めなさい。旅の記念に。

これも歌の後に「右一首 長忌寸奥麻呂」となっており、高市連黒人の「いづくにか舟泊てすらむ」の歌同様、視点の中心には持統上皇がいると思われます。行幸に従駕した官吏にすぎない奥麻呂が、上皇の女官にこうした呼びかけができるとはとても考えられないからです。

では、奥麻呂が歌った引馬野はどこに当たるのでしょう?豊川市御津町には御馬の地名があり、同じ馬繋がりでここが相当しそうに思えますが……。


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御馬の位置を示すグーグル地図画像。

23号線の御馬と音羽川の中間地点に引馬神社(鎮座地:豊川市御津町御馬梅田3番地、画像には出ていない)が鎮座しており、「その19」にて既に紹介しています。その中で、「御津町史」は「往古当国御馬(古名号引馬里)ノ西ノ方二浜ノ六本松ト云有…以下略」と記述している旨を書いています。町史によれば、御津町御馬はかつて引馬里と号していたと言うことです。

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引馬神社。

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解説板。

解説板には、「この辺りに万葉集の引馬野と安礼崎とを求める説があり云々」と書かれています。この説によれば、引馬野と安礼の崎は御津町の海岸沿いにあることになります。さらに撮影はしなかったのですが、境内に万葉歌の石碑と万葉遺跡引馬野の解説板があり、今回と前回の万葉歌2首の地名については、現在御津町所在説が有力であると書かれています。

同じ馬繋がりで、御馬の古名が引馬里であれば「御津町史」の記述が正しそうですが、実際に引馬野の地名があったかどうか確認はできません。このためでしょうか、上陸地安礼の崎を字音が近い浜名郡の新居とし、引馬野を現浜松市中区曳馬町辺りとする説もあります。なので、他説に関しても検討が必要でしょう。曳馬町に関しては以下Wikipediaより引用します。

曳馬町(ひくまちょう)は浜名郡に属する自治体名・浜松市中区の地名。「曳馬」の地名は、かつて遠江地方が引間または引馬、江戸時代には曳馬、と呼ばれていた事にあやかって付けられた。引間は万葉集にも見られる古い地名で、引馬城(浜松城の前身)、引馬宿、引馬野(曳馬野)といった使われ方もある。浜松市中心部や三方原台地上まで含む広いエリアを指しており、島之郷村と直接の関係はない。



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曳馬町を示すグーグル地図画像。

Wikiを見る限りでは曳馬町の方が有力に思えます。史料面ではどうでしょうか?「十六夜日記」には以下の記述がありました。

濱名の橋より見わたせば、かもめといふ鳥、いとおほく飛びちがひて、水のそこへも入る。岩のうへにもゐたり。
「かもめゐる 洲崎の岩も よそならず 浪のかけこす そでにみなれて」。
こよひは、ひくまのしゅくといふ所にとゞまる。こゝのおほかたの名をば、濱松とぞいひし。


地名的には曳馬町説が優位に立っているようです。次に、この地が持統天皇と関係を持っていないか検討してみます。静岡県浜松市中区伊場地区には伊場遺跡があり、ここから木簡が出土しています。その中に天武14年の木簡があり、皇后に貢物を献上する部民(私部)に関して書かれたものがありました。皇后とは鸕野讃良(=持統天皇)のことですから、持統天皇はこの地と関係があります。

さらに以下の木簡があります。
表面 己(持統三年)丑年八月放
裏面 二万千三百廿

これは表面の記載が放生会とされ、裏面の二万千三百廿は放たれた生き物の数とされています。以上から、遠江国の引馬野一帯は持統天皇と関係があったと確認できそうです。

浜松市中区和合町寸田ヶ谷に鎮座する三社神社は郷祖長忌寸奥麻呂が奉斎した神社とされており、引馬野の歌碑もあります。長忌寸奥麻呂は正に引馬野の歌の作者ですから、遠江国の曳馬町説はさらに有力となってきました。三社神社は以下を参照ください。
http://snufken.hamazo.tv/e3194236.html

引馬野の歌碑はここ以外にも浜松に何カ所かあるようです。明確な地名、持統天皇との関係、引馬野の歌を作った長忌寸奥麻呂との関係などを考慮すると御津町以上とも思える痕跡が浜松に存在していました。

他には知立市説もあり、知立市の山町には北引馬野と言った地名が見られます。「引馬野」は馬を引いてとどめる野と言った意味があることから、そうした地名が各地にあっても不思議ではなく、知立市の北引馬野はこれに当てはまるケースだと思われます。

ここまでの検討で知立市は脱落し、御津町と曳馬町の争いになりそうですが、現時点では御津町より曳馬町の方が有力に見えます。酔石亭主としてはもちろん御津町説に立っているので、曳馬町優位をひっくり返す対抗策を考えてみます。

引馬野を御津町とする最大の根拠は「続日本紀」の記述にあります。「続日本紀」では三河国の行幸とあるのに、新居に上陸し曳馬町へ向かったとしたら、三河は何も関係なくなってしまい、「続日本紀」の記述も三河国ではなく遠江国行幸となるはずです。ところが「続日本紀」に遠江国行幸など出てきません。また浜松周辺に持統上皇にちなみそうな地名もなく、引馬野は御津町にせざるを得ないと思われます。(注:御津町には数多くの上皇にちなんだ地名があり、後で別途検討します)

もちろん三河国行幸のついでに遠江国へ足を伸ばす可能性はあります。ついでなので遠江国が「続日本紀」に記載されない可能性もあります。三河国行幸のついでに浜松市の曳馬町に行く場合、持統上皇は三河国から本坂道を通り、本坂峠を越え浜名宮に入り、浜名湖をほぼ半周して引馬野に行くことになります。

そこから海岸に下って新居(安礼の崎)に行き、船で松阪市の円方に戻ることになりますが、こうなると三河国行幸のついでとは言えず、独立的な遠江国行幸になってしまいます。なのに、「続日本紀」に遠江国行幸とは書かれていないのです。

次に新居上陸、曳馬町行幸説が正しいとした場合、浜名湖を間に挟むほど距離の遠い新居になぜ上陸したのか合理的な説明が付かなくなります。

引馬野が浜松市の曳馬町で正しそうな痕跡は数多くあるのに、その場合不合理な部分が数多く出てきます。考えれば考えるほど、引馬野の場所を特定できなくなりました。

さてはて、長忌寸奥麻呂の歌にある引馬野は御津町と曳馬町のどちらなのでしょう?

           東三河の秦氏 その60 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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