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 東三河の秦氏 その66 持統上皇東三河行幸の謎


今回は星野の郷に文武天皇の伝承がないかチェックしてみます。するとゾロゾロ出てきました。

大宝元年(701年)に文武天皇が東国を征伐するため、三河に行幸され、牛車に乗られている途中に川を渡られたそうです。その時に日が暮れかかったので、この地を暮川(くれがわ)と名づけたとか。「鳳来寺聞書」とも部分的に関連しそうな内容ですが、この記述が正しいと仮定すれば、持統上皇が東三河に行幸された際、やはり文武天皇は東三河にいたことになります。


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暮川の位置を示すグーグル画像。

表示はありませんが、円忠寺が暮川の中心となります。確かに川が幾つもありますね。

暮川の近くには下条と言う地名があり由来は次の通りです。暮川を過ぎ、天皇は夜になって星野の行在所(場所は竹之内の中屋敷とされる)に到着。牛車から降りられました。よってこの地は下乗(げじょう)と呼ばれるようになったとか。それがいつしか下条(げじょう)に転じたそうです。

ただ下乗は、伊勢神宮の境内前に下乗と書かれた立て札があるように、車馬の乗り入れを禁ずる意味があります。行在所の宮門前に下乗の立て札があったのを村人が見て、その意味も知らずこの地を下乗と呼んだと考える方が理にかなっているようにも思われます。


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下条を示すグーグル画像。

暮川と下条に関する地名由来は以下を参照しました。
http://www.gejo-e.toyohashi.ed.jp/gejo-e/hurusatomap.html

上記ホームページによれば下条竹内村正楽院(正楽寺、住所:豊橋市下条東町中屋敷13)境内に文武天皇陵があるとのこと。地名も中屋敷ですから、行在所もこの辺りにあったことになります。早速行ってみましょう。


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場所を示すグーグル地図画像。

場所は下条東町信号の角となりますが、左折する道が非常に狭いので信号を越えた次の道(竹之内公会堂と表示ある場所)を左折します。そのまま進み左折すると池尻と書かれた場所に至ります。画像から木が植えられていると判別されますが、ここに妙なものが…。

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杉林に大きな石が置かれています。

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もう一枚。遺跡のようにも見えますが、石は新しいので違うようです。

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さらに一枚。

石の上に小石が置かれています。何か意味があるのでしょうか?他の大きな石の上にも小さな石が置かれていました。実はこんちゃん様のブログによると、この場所が文武天皇の御所跡とされているとのことです。(注:正楽寺の和尚さんのお話によれば、だそうです)何となく雰囲気はあり、利修仙人が豊川を下ればあっという間に到着できる場所ではありますが、とても断定はできません。なお、池尻の辺りは中屋敷ではありません。やはりここは違うのでしょう……。文武天皇の行在所はこの一帯と思われるものの、確証がなく不明としておきます。

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正楽寺の山門。

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本堂。

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お墓。

一番立派なものが文武天皇の墓とのことですが…、豊橋市立青陵中学校ホームページによれば、文武天皇陵とされるお墓は、実際には天皇の子である竹内王子を葬ったもののようです。内容は以下の通り。

大宝2年(702)頃、第42代文武天皇が星野の郷(現、下条)の行在所の仮宮(竹之内町の中屋敷)で3年間住んでいて、その時に王子(皇子)が誕生し竹内王子といった。王子は病気の為若くして崩御された。御付の官女12人は王子の死を悲しみ、御所ケ池に身を投げ若い命を果てた。
大子塚(王子の墓)は藤ケ池の大師にあったが、戦国時代に竹之内村(現、竹之内町)正楽院(寺)に移された。王子のお墓を中心に12人の官女のお墓を里人たちが「御所様」と崇めて悲しく不遇に世を去った若い王子とけなげに散った12人の魂をしのんで、現代まで毎年1月20日に慰霊法要を続けている。竹之内村の(現、竹之内町)の名もこの竹内王子の名からついたと伝えられてきた。


豊橋市立青陵中学校ホームページは以下を参照ください。
http://www.seiryo-j.toyohashi.ed.jp/seiryo-j/kouku1.html

官女が身を投げた御所ケ池は、今は枯れていますが霊江寺の前にあったそうです。

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霊江寺。

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池があったと推測される場所。

霊江寺の向かいには比賣天神社が鎮座しています。この神社は文武天皇の御代(697~707年)に創建されたとのこと。(豊橋市立青陵中学校ホームページ参照)祭神は天鈿女命(アメノウズメ)で、稗田氏の祖神となります。既に書いたように「古事記」を暗唱したのは稗田阿礼です。天照大神が天の石屋戸にお隠れになった際、ストリップをしたのがアメノウズメで、邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して天降りしています。そして文武天皇は後で詳しく検討しますが、邇邇芸命に擬せられます。邇邇芸命(=文武天皇)に随伴したアメノウズメが正楽寺のすぐ近くに祀られているのは必然であったと言えるでしょう。

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比賣天神社。

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雨乞面の解説板。

以上のように星野郷には文武天皇の痕跡が多数ありました。行在所に3年間も住んでいたかどうかは別としても、一時期天皇はこの地にいたのです。そう理解すると、持統上皇の行幸日程の矛盾―「その52」で青字にて書いた「11月24日、至伊賀国。」に続く文武天皇の藤原京還幸記事がない点―も解消されます。

文武天皇は伊賀国に行った後、三河国の行在所に戻り、そこで一定期間を過ごしたから、藤原京に帰る記述が消えていたのです。と言うことで、文武天皇が三河国から尾張国に向かったことを示す痕跡がないか探ってみます。
            
           東三河の秦氏 その67 持統上皇東三河行幸の謎に続く

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