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東三河の秦氏 その75 持統上皇東三河行幸の謎

東三河の秦氏
12 /09 2013

宮路山にある草壁皇子を祀る神社とお墓。持統上皇が短期の滞在中にそれら全ての手配ができたとは思えません。誰か手を貸したのではないかとも思えてきます。例えば、文武天皇の病を癒すため勅使となった草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう、くさかどきみのぶきょう)です。

草鹿砥氏は日下部(くさかべ)氏の後裔とされます。日下部氏はどのように姓を草鹿砥氏へと変えたのでしょう?日下部=日下戸で、草鹿砥姓は日下部の日を草に置き換え砥鹿神社の砥鹿を逆にして草の後に続け草鹿砥にしたようです。なお「東三河の秦氏 その2」において以下のように書いています。

また「古事記」の第9代開化天皇の条には「次に朝廷別王。四柱 この朝廷別王は、三川の穂別の祖」と記載あります。朝廷別王は第9代開化天皇のひ孫に当たることからも、東三河が持つ歴史の古さが窺われます。(注:朝廷別王は丹波道主王の子となります)

そして草鹿砥氏は穂別命の後裔氏族ともされているのです。だとすれば、穂別命=日下部氏となり、随分複雑で頭が混乱しそうになってしまいます。また記紀によれば日下部連の祖は狭穂彦王で丹波道主王と狭穂彦王は兄弟となっています。説明書きはややこしいので、系図的に書いてみます。

開化天皇―彦坐王―丹波道主王―朝廷別王(三河の穂別の祖)
            ―狭穂彦王(日下部連、甲斐国造の祖)

三川穂別の祖である朝廷別王は彦坐王の孫で、日下部連の祖である狭穂彦王は彦坐王の子となり、いずれも彦坐王の流れである関係から、草鹿砥氏は日下部氏の後裔であり、朝廷別王に連なる穂別命の後裔とされたのでしょう。この辺りは別途考えてみたいとも思っています。

草鹿砥姓を検索すると愛知県で1人しかおらず、豊川市となっています。砥鹿神社社家の草鹿砥氏がその1人に当たるのですが、この名前には深い意味がありそうです。そう、日下部氏(くさかべし)は草壁(くさかべ)皇子に通じている名前なのです。もしかしたら、日下部氏は天忍穂耳命に擬せられる草壁皇子の養育氏族だったのではないでしょうか?

実に面白いことに、本宮山山頂に鎮座する砥鹿神社奥宮の末社にも、宮路山南麓東側に鎮座する八柱神社と同じ八柱神社があり祭神も同じです。

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本宮山の八柱神社。背後は磐座となっています。

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解説板。天忍穂耳命も祀られています。

宮路山と本宮山のいずれにおいても天忍穂耳命が祀られていることが確認されました。草壁皇子の墓は宮路山の白山神社にありますが、本宮山の東側尾根は白山と称されています。これらの相似を考慮すると、宮路山における草壁皇子の存在は日下部氏(草鹿砥氏)の手配による可能性が高まり、両者の深い関係が想定されます。と同時に、本家高天ヶ原が本宮山であったこともより明確になります。

鳳来寺山に鳳来寺を創建した利修仙人は主に文武天皇と関係し、持統上皇とも接点があります。文武天皇と利修仙人の縁を取持つのが、本宮山の砥鹿神社宮司となる草鹿砥氏の草鹿砥公宣卿でした。

鳳来寺山、本宮山、宮路山(新宮山も含む)。この三つの山は、古代史における複雑な人間関係の中で密接に繋がっていたのです。それを証明する別のものがあります。これらの山に線を引くと、実に不思議ですが北東の鬼門ラインで一直線に繋がります。

しかも、本宮山は鳳来寺山から見て冬至の日の入りライン上にあり、同様に宮路山は本宮山から見て冬至の日の入りライン上にあるのです。既に秦氏関係で何度か書いているのでご存知の方も多いと思いますが、冬至には太陽の死と再生の意味があり、本宮山の山頂には何と岩戸神社まで鎮座しています。宮路山は高天ヶ原で、その本来の高天ヶ原は本宮山となり、両者の間には死と再生のラインが引かれていたのです。

このラインは逆に宮路山から本宮山を、本宮山から鳳来寺山を見ると、夏至の日の出遙拝ラインとなります。

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東三河の鬼門ラインを示すグーグル地図画像。

宮路山は地図上に記載ありません。ラインの止まったところが宮路山になり、3つの山が実にピッタリ鬼門ラインで繋がります。

平安京の鬼門ラインは、松尾山(松尾大社)、木島坐天照御魂神社(通称蚕ノ社、元糺の森)下鴨神社(糺の森)、赤山禅院(泰山府君を祀り、京都御所から見て表鬼門に当たるため、方除けの神として信仰を集めている)、比叡山の四明岳へと続くラインです。このラインは大和岩雄氏の「秦氏の研究」(大和書房)によると、冬至日の入遙拝線であり、夏至日の出遙拝線でもあります。

平安京の鬼門ラインは秦氏が設置したものです。だとすれば、東三河の鬼門ラインも秦氏の手によるものかもしれません。あらゆる事柄が網の目のように張り巡らされているみたいで、驚かされますね。

次に草鹿砥氏の名前の元となった砥鹿神社の砥鹿の由来を考えてみます。「その71」で大己貴命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。と書いています。

この由緒から砥鹿は止所(とが)に由来していることになります。さらに「その71」では、本宮山が「止所(とが)の地」とされているのは、大己貴命が朝廷に逆らって封じ込められた咎(とが)の地であるから、と書きました。

上記は、砥鹿神社の祭神である大己貴命に関連付けているのですが、この問題を全く別の視点となる秦氏関連で考えてみます。

大阪市北区には兎我野町(とがのちょう)と言う地名があります。「大阪渡来地名マップ」のホームページには兎我野町に関して次の記載があります。

曽根崎東側に位置。古代朝鮮の都祈野(ときの)と関連付ける説あり。都祈は都下(つげ)とも書かれ、都下と菟餓(とが)は同意で、古代新羅語で「日の出」を意味する。ツゲは呉音、トガは漢音である。そこで都祈野とは「日の出を祭る神廟の地」をあらわした。難波(浪速=なにわ)も日の出に関係するといわれている。

ホームページは下記を参照。
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=69teeZM4ZzwJ&p=%E9%BB%84%E6%A5%8A+%E7%A7%A6%E6%B0%8F&u=www.geocities.jp%2Fku_da_ra%2FETC%2Fosaka-timei.htm

酔石亭主がしばしば参照する大和岩雄氏の「古事記と天武天皇の謎」(六興出版)には以下の記述があります。

「トキ」は、新羅の迎日の意味の、「都祈野」の「トキ」である。「トキ」は「都祁」と書かれることから「ツゲ」とも読まれる。大和の都祁国、摂津の菟餓(都下)は、いずれも迎日の「トキ」、「トカ」、「ツゲ」であり、新羅系氏族の多いことについては、…中略…に書いた。

以上を纏めると、砥鹿(とが)は菟餓(とが)であり、日の出を意味し、宮路山から見た本宮山のラインは夏至の日の出遙拝ラインとなります。遠く離れた場所にある砥鹿と菟餓が、音のみならずその名前の意味において完全に一致しました。

しかも、宮路山、本宮山、鳳来寺山を繋ぐラインは秦氏が設置した平安京と同一構造の鬼門ラインです。だとすれば、実体が不明であった砥鹿神社の由緒に登場する砥鹿大明神とは、秦氏の長老を意味することにならないでしょうか?「牛窪記」に本宮山下には秦氏が多いと記載あることも、その傍証となるはずです。

大和岩雄氏は大和の都祁国に新羅系氏族が多いと書いていますが、ここで言う新羅系氏族は秦氏を意味しており、都祁に多氏や秦氏が多いことは「記紀・風土記の秦氏 その5」にて書いています。


本宮山の東の新城市には唐土神社、小畑や大幡など秦氏系の地名が存在します。


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唐土神社、小畑の位置を示すグーグル地図画像。大幡は小畑の南東にあります。

小畑のさらに東には新城市黄柳野(つげの)の地名までありました。


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黄柳野の位置を示すグーグル地図画像。

以上、本宮山と秦氏の関連を想定させる様々な状況証拠が出てきました。さらに、「豊前国風土記」には新羅の国の神が来たこと、香春の郷の北の峰に黄楊[つげ]の樹生いたり、とあります。豊前国は秦王国と称されています。また都祁国は「闘鶏国」(つげくに)とも表記しますが、「記紀・風土記の秦氏 その5」に以下の内容を書いています。

雄略天皇12年条冬10月
木工闘鶏御田(つけのみた)が伊勢采女を犯そうとしたと疑い、殺そうと思って物部に引き渡された。その時伺候していた秦酒公が、御田にそのような意図がないことを天皇に悟らせようとして琴を弾いて歌った。天皇は琴の歌の真意を悟ってその罪を許された、とあります。

闘鶏(つげ)と秦氏の関係がここからも浮き彫りにされてきました。砥鹿は大己貴命のみならず、秦氏とも関連付けられている名前だったのです。いかがでしょう?持統上皇の東三河行幸に秦氏の直接的な姿は見えませんが、宮路山や本宮山のありようを検討する中で、その底流にはやはり秦氏の存在があったと思えてきませんか?

さて、高天ヶ原である宮路山において天孫降臨神話を追体験した持統上皇は、最後の訪問地である浜名神戸へと向かいます。文武天皇とは多分二見道の分岐点(現在の広石)にて別れたのでしょう。文武天皇は海岸沿いに蒲郡方面へと向かい、現在の幡豆町辺りから北上して尾張国に入ります。尾張、美濃、伊勢、伊賀の四国を行幸した天皇は各地で叙位・賜禄を行い、再び東三河に戻ったのです。

持統上皇は往復で一週間程度の浜名宮訪問の旅を終え、行在所に戻り、安礼の崎から船で松阪市に向かいます。ここからは往路と同じルートを辿り藤原京に還幸します。もしかしたら、伊賀辺りで再び文武天皇と出会ったかもしれません。

行幸で全精力を使い果たした上皇は、還幸後すぐ死の床について、間もなく崩御されました。以上が文武天皇も含めた持統上皇東三河行幸の全体の流れとなります。ここで、天照大神の岩戸隠れから天孫降臨に至るストーリーが、どんな形で記紀神話に組み入れられたのかを見ていきましょう。

天照大神の岩戸隠れすなわち死と再生は「旧辞」などに原型があって、持統上皇はそれを東三河で心的に追体験し、現実世界において具現化したと思われます。出雲神話のパートは、出雲族が天孫系によって追いやられていくプロセスを東三河で心的に再現し、記紀の中に神話として定着させたものでしょう。天孫降臨神話の部分は、上皇自身が直面した現実を心的に再現した上で記紀神話の中に組み入れたものとなります。

時代も背景も異なる各パートを一連の神話として固定化させる構想力には舌を巻きますが、持統上皇の東三河行幸の謎に迫る中で、古代の人々の壮大な世界観を垣間見ることができたようです。本論考は、持統上皇の心的世界をあれこれ想像も交えながらこの場に再現する試みでした。その意味では、新たな神話の創作と言っていいかもしれません。よって、書かれた内容が事実或いは史実であると主張するものではない点、お含み置きください。

持統上皇東三河行幸の謎解きはこれで一応終了です。一応と書いたのは、砥鹿神社やその他の気になる神社をまだ詳しくご紹介していないためです。さらに、神話側である岩戸隠れや天孫降臨神話と現実側である持統上皇や文武天皇の間には、時代的な(実際には心的な)距離感が大きいように思えます。この間を埋める中継ぎ側が存在するのではないか、そんな気がしてなりません。この問題も、持統上皇東三河行幸の謎解きからは少し距離を置いてダラダラ書いてみたいと思っています。(注:一定の関連性はあるので記事タイトルは同じとします)

と言うことで、次回は本宮山方面に向かい、砥鹿神社やその他の気になる神社について見ていきましょう。

            東三河の秦氏 その76 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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