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東三河の秦氏 その85 持統上皇東三河行幸の謎


「その84」を書いてから時間が経過してしまいましたが、前回で以下のように書いています。

邪馬台国の卑弥呼が巫女アマテラスとすれば、彼女の一族が秦氏の支配地域である豊前国に降臨したことが第一次天孫降臨になります。持統上皇が自らを天照大神に擬しているとすれば、また大和の藤原京を第二次高天ヶ原とすれば、彼女と文武天皇が秦氏の存在する東三河に行幸したことは、正しく第二次天孫降臨そのものであったと理解されます。

この二つの天孫降臨の間に極めて重要な天孫降臨が挟まっています。それは神武天皇東征(東遷)に代表される九州勢力の大和への移動です。神武天皇は天孫降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)の孫に当たり、天孫と呼ぶにふさわしい人物です。そのような人物の東征は神話ではなく現実としての天孫降臨と呼べるでしょう。(注:実際に神武天皇が存在したかどうかはまた別の話です)では、彼が来る前の大和の情勢はどのようなものだったのでしょう?(注:便宜的に大和の名称を使用しています)

大和は当初大国主命に代表される出雲族の影響下にありました。研究者によっては出雲族の本貫地は大和で、出雲は彼らが追われた地との見解さえ見られます。しかし、様々な出土物や伝承に鑑みると、やはり出雲族の本貫地は出雲であり、彼らの影響力が大和にまで及んでいたと理解すべきです。

一方で、大和において出雲族がどの程度の政治的、軍事的な力を有していたのかは、判断に苦しむ問題です。出雲から遠く離れた大和において、彼らが政治的、軍事的な力を有していたとは考えにくいからです。出雲族は三輪山一帯の祭祀を担っており、大和を自分たちの信仰圏内にしていたと言うのが合理的な解釈ではないでしょうか?もちろん、ある程度の政治力、軍事力は持っていたのでしょう。

当時奈良盆地の西側は湖や湿地帯となっていたようで、三輪山の麓に拠点を置いた出雲族は地元民を助け農地の開拓を実施し、彼らの間に出雲の信仰を広めていたのではと推測します。記紀には出雲の大国主命(大己貴命)が三諸山(三輪山)に住みたい(鎮まりたい)と言って鎮座し、これが三輪神社(大神神社)の神で大国主命の幸魂・奇魂であるとされています。そして大国主命の幸魂は大物主神(倭大物主櫛甕玉命)となります。詳しくは以下の大神神社(おおみわじんじゃ)ホームページを参照ください。
http://www.oomiwa.or.jp/frame/f02.html


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三輪山の位置を示すグーグル画像。

では、出雲族の地である大和に神武天皇が乗りこんで大和朝廷を立ち上げたのでしょうか?実はそれ以前に大和の地に降臨した人物がいます。そう、饒速日命(ニギハヤヒノミコト、以下ニギハヤヒと表記します)です。「先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒは神武東征に先立ち天磐船に乗って河内国の河上の哮峰(いかるがのみね、大阪府交野市私市の磐船神社)に天降り、その後大和国の鳥見の白庭山に移ったとされます。ニギハヤヒに伴って大和に天下りしたのは、遠賀川流域の鞍手郡における物部氏が多く、ニギハヤヒが物部氏の祖であること、降臨の出発点が北九州であることが確認されます。

磐船神社の由緒は以下の同社ホームページ参照。
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/yuisyo.html


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白庭山の位置を示すグーグル画像。今は新興の住宅地みたいになっています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で「先代旧事本紀」には、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)と記載されます。天照國照彦は天と国を照らす男で太陽神を意味し、男神アマテラスの神格を表現していると言えるでしょう。天火明は尾張氏の祖神である天火明命となります。櫛玉は櫛甕玉で大物主神となります。饒速日尊はもちろん物部氏の祖神です。

物部氏は歴史的に見ても軍事力を持った集団となりますので、ニギハヤヒが大和に入った段階で出雲族は政治的、軍事的には物部氏に従属する立場となります。一方、三輪山の祭祀権は依然として出雲族が保持していたものと思われます。以上から、神武東征の前段階で出雲族や物部氏が大和の地に根を張っていたことになります。

そうした情勢の中、大和に神武天皇が乗り込みます。「日本書紀」には磐余彦(神武天皇)が塩土老翁から、東に青い山に囲まれた美しい国があり、その中に天磐船に乗って飛び下る者がある、と聞かされ、飛び下った者はニギハヤヒと言うか、そこに行って都を造ろうと決意し、東征の旅に出立します。この記述からも、神武東征以前にニギハヤヒ(物部氏)の大和降臨があったと確認されます。

さて、磐余彦は浪速国の白肩津に至りますが、彼の前に長髄彦(ながすねひこ)が立ち塞がりました。このため東征軍は熊野から大和を目指します。そこでも敵が待ち受け、東征軍は危機に陥ります。危機を脱出できたのは、高倉下(たかくらじ)が武甕雷神から授かり磐余彦に奉った剣でした。高倉下を祀る神社は鞍手郡に多くあり、尾張氏の天香語山命と同一人物とされますが、ストーリーから判断すれば物部氏系となります。尾張氏の祖・天火明命と物部氏の祖・ニギハヤヒが同一人物とされるのと同じですね。

群がる敵を倒し、最後に難敵・長髄彦との決戦となります。東征軍が戦に勝てない中、金色の鵄(とび)が飛来し、その輝きに長髄彦の軍は惑います。長髄彦は磐余彦に対し、「天神の子が天磐船に乗って天下りした。それがニギハヤヒで自分の妹を嫁がせ、君として仕えている。ニギハヤヒこそが天神の子であるのになぜ人の土地を奪うのか」と問いを発しました。

磐余彦はニギハヤヒが天神の子ならその証拠を見せろと迫り、長髄彦はニギハヤヒの天羽羽矢などを磐余彦に示します。対する磐余彦も天羽羽矢などを示したので、長髄彦は畏れますが敵対する態度は変えません。ニギハヤヒは磐余彦に恭順の意を示し、遂に長髄彦を殺してしまいます。磐余彦は苦労の末に大和に入り初代神武天皇となったのでした。

神武天皇東征部分はうんとはしょって書いていますので、詳しくは「日本書紀」を参照ください。さて、この長髄彦はどのような人物なのでしょう?彼は登美の長髄彦と呼ばれます。登美は蛇を意味し、長髄彦の長はナーガでこれまた蛇を意味するとの説もあることから、蛇神である大物主神と同じ出雲系と考えられます。(注:「日本書紀」には、鵄の瑞兆により鵄邑(とびのむら)と名付け、今は鳥見(とみ、=登美)と言うのは訛ったからとありますが、長髄彦の名前が先行していることから、「日本書紀」の説明は後付けになります)

出雲族が三輪山を祭祀する地に物部氏の祖であるニギハヤヒが入り、出雲族は物部氏に従属したと考えれば、神武東征時点における長髄彦とニギハヤヒの関係は正しく出雲族と物部氏の関係となります。そこに天孫系の磐余彦が乗り込み、様々な軋轢があったものの、最終的に天孫系が大和の支配権を得ることとなったのです。

もちろん「日本書紀」は天皇家にとって都合のよい書き方になっています。では、初期段階における出雲族、物部氏、天皇家の関係はどのようなものだったのでしょう?参考になるのは第一代から第九代までの天皇の皇妃で、これを記紀などでチェックしてみます。神武天皇の場合、皇妃は大物主神の女、事代主神の女で明らかに出雲系です。その後は師木(しき、磯城)の県主(あがたぬし)、尾張連、穂積臣などの系統から出ています。これらはニギハヤヒの系統となります。

以上、第九代天皇までの各皇妃は出雲系と物部系から出ていることになり、物部系が圧倒的に多くなっています。尾張連に関しても、例えば尾張氏の祖・天火明命とニギハヤヒが同一人物であり、天火明命の子である天香語山命と高倉下も同一人物となっており、物部系と尾張系が未分化の状態です。

これらから、大和に天孫系が降臨した初期段階では、天孫系が出雲族や物部氏に入り婿している形であったと理解されます。その後、天孫系が力を増して出雲族や物部氏の上に立つようになります。けれども、記紀編纂時点においてなお、かつて天孫系は出雲族や物部氏の下の地位にあった事実を拭い去ることができず、記紀の記述の各所にその痕跡が出ざるを得なくなっているのです。

系図においても同様で、天照大神の子である天忍穂耳命と高天ヶ原の指令神・高木の神の娘である萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)の子が天孫降臨の邇邇芸命であり、その兄が天火明命で「先代旧事本紀」によれば天火明命とニギハヤヒは同一人物となっています。邇邇芸命より天火明命とニギハヤヒが兄として上に置かれていることからも、物部氏や尾張氏の天孫系に対する高い位置付けが見えてきます。

長々と書いてきましたが、要は出雲族と物部氏の地である大和に天孫系が乗り込んだのが神武東征(=天孫降臨)となります。では東三河の場合はどうでしょう?東三河には大国主命や大己貴命を祀る、御津神社、砥鹿神社、石巻神社などが鎮座し、出雲族が津守氏の手配で東三河に上陸した経緯も既に書いています。

物部氏もまた東三河に色濃く存在しています。第6代考安天皇の御代、三河の国造になったのが大木食命で、彼はニギハヤヒの4世孫となります。砥鹿神社の祭神には大木食命も入っており、同神社が鎮座する一宮地区の大木村の地名は大木食命に由来しています。石巻神社の創建は不詳ですが、孝安天皇の御代に大木食命が大和の大神神社から分霊を勧請したとされています。そして大木食命の子孫である大木氏が代々石巻神社の神官を務めています。

第13代成務天皇の御代、出雲色大臣命(いずものしこおおみのみこと、出雲醜大臣命)の5世孫・知波夜命(ちはやのみこと)が三河国造に任ぜられています。出雲色大臣命はニギハヤヒの3世孫に当たり、豊川市の出雲神社(鎮座地:豊川市柑子町五反田)に祭られています。由緒は以下の通り。

「三河国内神名帳」に従五位上出雲天神とあり、三河国造の太祖を祀る社である。延宝9年(1681)2月9日、棟札に奉造立とあるのは、水害により社殿流出再建のもとで、出雲大天女を配祀したことを記す。明治12年出雲神社に改め村社に列し、大正9年4月2日、指定社となる。

神社の由緒が物部系と出雲系の密着度を良く示していますね。さらに、砥鹿神社の祭神大木食命は出雲色大臣命の子供となります。

ニギハヤヒの後裔・物部胆喰宿禰は成務天皇の大臣で、三川穂国造である美己止直(みことのあたい)の妹伊佐姫を娶っています。安本美典氏は「奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる」(批評社)において、「先代旧事本紀析疑」(原著者:御巫清直)の現代語訳を掲載しています。その中で原著者は、偽書ともされる物部系史書「先代旧事本紀」の編纂者を、三河国造の家柄で、平安時代前期の官吏であった興原敏久(物部中原宿彌)ではないかとしています。

西三河になりますが、真福寺(所在地:岡崎市真福寺町薬師山6)は推古天皇2年(594年)、物部守屋の子の物部真福(まさち)が願主となって建立したとされます。かつて隣には物部神社が鎮座していたそうです。

西三河最古の寺院であった北野廃寺(所在地:岡崎市北野町)も物部氏の関与があったとされます。この寺院は四天王寺式伽藍配置を持っていますので、聖徳太子や秦氏の関与もありそうに思えます。(注:大阪の四天王寺においては物部守屋も祀られている)

また村積山に鎮座する村積神社(岡崎市奥山田町字山田46)は推古天皇の時代、聖徳太子や蘇我馬子と争って敗れた物部守屋の次男・物部真福(三河の仁木郷に居住)が祀った神社とされ、持統上皇は三河行幸の折、山に登り桜をご覧になって「花園山」と命名されたとのことです。(注:三河の仁木郷は現在の岡崎市仁木町周辺)

持統上皇と文武天皇の行幸は、岩戸隠れから天孫降臨に至る日本神話を東三河と言う現実の舞台装置において具現化することを目的としていました。東三河において出雲族や物部氏の存在があり、そこに持統上皇(=天照大神)、文武天皇(=天孫降臨した邇邇芸命)が行幸したのは、神武天皇に率いられた九州勢力が出雲族と物部氏の地である大和に降臨したのと相似しており、同じ構造となっています。出雲族と物部氏が色濃く存在する東三河は、この意味においても現実の舞台装置として最適であったと言えるでしょう。

              東三河の秦氏 その86 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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