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名鉄島氏永(しまうじなが)駅周辺を巡る


真清田神社と大神神社を見終わり、名鉄一宮駅で名古屋方面に向かう列車に乗ると、一駅目が妙興寺になります。予定通り妙興寺で下車しようと思ったのですが、真清田神社には相当奥深い謎があったこと、二駅目の島氏永駅のすぐ近くには尾張国名神大社八座の一つ大神社(おおじんじゃ、おおのじんじゃ)が鎮座し、真清田神社との関係もありそうなことから、妙興寺駅をすっ飛ばし島氏永駅に向かうことにしました。妙興寺は昨年も訪問していますので後回しとします。

いつものことですが、まずは妙興寺から島氏永にかけての地名を拾っていきます。地図を見ると一帯には実に興味深い地名が数多くありました。妙興寺の所在地は一宮市大和町妙興寺2438で臨済宗妙心寺派のとても大きなお寺です。新陰流開祖の上泉信綱がここで修行して無刀取りを会得したとされます。この大和町は、大和から三輪氏が移住したことに由来するのでしょうか?

大神神社(おおみわじんじゃ)のすぐ近くには旧鎮座地である古宮の地名がありました。実は、古宮の地名がもう二つあります。一つは一宮市大和町馬引古宮で、もう一つは大神神社の西、一宮西インターの近くにあり、住所は一宮市刈安賀古宮です。二つの古宮は一体どの神社の旧鎮座地だったのでしょうね?


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大和町馬引古宮を示すグーグル地図画像。

妙興寺周辺には西浦、東浦、北浦、山王浦、薬師浦など海に関係する地名が集中しています。さらに、島氏永駅周辺には島子安賀町、島小原町など頭に島の付いた地名が数多くありました。やはり一宮市一帯は、尾張古図の時代、海に取り巻かれた島状態だったようです。

古宮の地名がある大和町馬引には、なぜか郷戌亥(いぬい)、郷辰巳(たつみ、南東)、郷丑寅(うしとら、北東)、郷未申(ひつじさる、南西)などの方位地名が存在し、一帯の地名と古代史が思わぬ結びつきを示していそうに思えます。


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大和町馬引の方位地名を示すグーグル地図画像。

画像からおわかりのように、四つの地名が各方位に従って存在しています。実に珍しいし、他にも辰巳河原、大和町乾出や東西南北のそれぞれが付いた地名もあります。詳しくは地図を拡大して参照ください。これらの地名は美和郷の中に含まれるので、三輪氏との関係が想定されるのですがいかがなものでしょう?

愛知県海部郡(現・あま市)美和町篠田には戌亥出の地名、美和町木田には戌亥(いぬい)の地名があります。海部郡美和町の例からも、方位地名は三輪氏との関連が想定されます。こうした方位地名で、例えば戌亥の場合は、愛知県一宮市と隣接する稲沢市に集中しています。言い換えれば、ほぼ美和郷内に方位地名が集中しているのです。三輪氏と方位。きっと意味があると思いますが、どう解釈していいのか現状ではわかりません。他の県では、福島県に方位地名が幾つかあります。

一宮駅のほぼ東に柚木颪(ゆぎおろし)と言う変わった地名があります。この地名は柚木郷と颪郷が一緒になったもので柚木は柚(ゆず)の巨木にちなみ、颪はこの地に神をおろし、神明社(鎮座地:一宮市柚木颪神明204)を創建したことにちなんでいるようです。

妙興寺の南には於保(おほ)と言った地名も見られます。於保は明らかに古代史族の多氏にちなむ名前です。と言うことは、大神社(おおじんじゃ、おおのじんじゃ)に関係する地名となります。面白い地名を拾っていたら、ようやく大神社に行き着きました。大神社鎮座地は一宮市大和町於保郷中2311で、多氏などの祖神である八井耳命が主祭神となっています。


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大神社鎮座地を示すグーグル画像。

大神社のすぐ南には二之宮、さらに南には二ノ宮と言った地名が見られます。この地名にも何か意味がありそうです。ひょっとしたら、真の尾張国二宮は大神社であったのかもしれません……。

既に書いたように、大神社は尾張国の名神大社(みょうじんたいしゃ)八座の一つとなっています。名神大社とは式内社の中でも特に格の高い神社を意味し、国家的な問題が起きた際などに臨時に奉幣・祈願を行う 「名神祭」が執行される神社です。いかに大神社が重要視されていたか理解されます。と言うことで、早速大神社に行ってみましょう。鎮座地は島氏永駅のすぐ近くです。参道が南北に長いことから、かつては参道に見合うだけの広大な敷地を有していたと推測されます。

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鳥居と大神社と刻まれた石柱。

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吹き抜けの拝殿。

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祭文殿でしょうか?

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拝殿を通して見る本殿。

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本殿。尾張の神社はその形式から撮影に難儀します。

さて、大神社鎮座地はかつての美和郷すなわち大和から移住した三輪氏の領域に含まれると考えられます。鎮座地が大和町於保であることは、その傍証になりそうです。でも、なぜここに多氏系の大神社があるのでしょう?その意味を探りたいと思います。

うんと単純に考えれば、大和国十市郡飫富郷にいた多氏が三輪氏と共に尾張に移住したため、大神社が創建され於保の地名が成立した、となります。つまり、一宮市一帯は大和勢力が大挙して移住した土地だったのです。やはり一宮市大和町の大和は大和勢力の移住に由来する地名と考えて良さそうです。けれども、古代の大和には数多くの豪族が存在していました。三輪氏と共に移住したのが、他の豪族ではなく多氏であったのはどうしてでしょう?

この疑問を解く鍵は三輪山の太陽信仰にあると思われます。古代には三輪山頂上に日向神社(現・高宮神社)が鎮座しており、社名からも太陽祭祀に関係があるとされています。そして、多氏が祀る多神社は奈良県磯城郡田原本町に鎮座し、その鎮座位置が三輪山山頂の真西となり、三輪山の春分、秋分の日の出を拝することができます。三輪山を祭祀する一族三輪氏と多氏は、太陽信仰を通じて密接な関係があったのです。

酔石亭主がしばしば引用する大和岩雄氏は「日本古代試論」(大和書房)において、多神社の鎮座位置が三輪山の春分、秋分の日の出を拝する位置で、多神社を基点に南北に線を引き、三輪山の冬至、夏至の日の出を拝する位置が、神武天皇と神八井耳命陵のある畝傍山の北と、石見の鏡作神社になる。としています。太陽信仰をベースにした多神社と三輪山との関係がここからも読み取れます。

三輪山を祭祀する三輪氏と多氏は三輪山の太陽信仰で深く結び付いていました。となると、一宮市における大神神社と大神社の間にも似たような太陽信仰がありそうに思えてきます。ところが、神社の近くで三輪山に相当する日の出を拝するような山はありません。この問題をどう考えればいいのか、酔石亭主の能力では答えが出ないようです。どなたか研究いただければと思います。

さて本記事の中で、大神社のすぐ南には二之宮、さらに南には二ノ宮と言った地名が見られると書いています。この問題を検討するため、尾張国一宮から三宮までを全く別の筋から考えてみます。尾張国一宮の真清田神社は本殿真裏の現・三明神社鎮座地が三輪山の大神神社と同じ大物主神(或いは大国主命)を祀っており、その場所が原初の真清田神社でした。ここが尾張国一宮で、尾張国二宮は既に推測したように名神大社八座の一つである大神社を当てます。そして尾張国三宮は熱田神宮に擬せられていた一宮市の大神神社が該当するとすれば、尾張国の上位三神社は三輪氏と多氏が祀る大和系勢力の社で、全て一宮市に鎮座することになってしまいます。

(注:島氏永駅の南東に亀京寺があり、そのすぐ北に熊野神社などが合祀された神社があります。この鳥居脇の石柱には二之宮大明神と刻まれていました。しかし、こちらの神社は無格社であるため二之宮とするのは無理があります。また二之宮、二ノ宮の地名が大神社のすぐ南にあり、一帯の住所が一宮市大和町於保二之宮であることからしても、大神社を尾張二宮と考えたいところです。なお、二之宮大明神の写真等は後の回でアップします)

尾張国の上位三神社は三輪氏と多氏が祀る大和系勢力の社とするのは、トンデモ説に近いのですが、後代の三輪氏と多氏がそう自称していたとも考えられます。また驚くべきことに大神社の北、妙興寺駅と島氏永駅のほぼ中間には四之宮と言う地名までありました。一帯の住所は一宮市大和町於保四之宮。とても不思議だとは思えませんか?

ひょっとしたら多氏が祀る尾張国四宮がここにあったとか…?となると、三輪氏の手で祀られるのが真清田神社(一宮)と大神神社(三宮)で、多氏は大神社(二宮)と不明の神社(四宮)を祀っていたのかもしれません。三輪氏の方が上位氏族なので一宮を取り、二宮を多氏とたすき掛けみたいにしたのでしょう。


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四之宮の位置を示すグーグル地図画像。

他に面白そうな地名では毛受(めんじょ、大和町毛受)、油田(あぶらでん)などがあります。毛受(めんじゅ)氏は、群書類従本「尾張諸家譜」に収録された毛受氏系図によれば、清和源氏頼光流とのことで、毛受の地名に由来しています。仁徳・履中・反正天皇の陵墓は「古事記」によれば、それぞれ毛受の耳原(もずのみみはら、大阪府堺市)、毛受、毛受野にあるとされています。毛受の地名には他にも面白い話がありました。

「真清探桃集」にそっくりな名前の「真清探當證」によれば、履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子が殺害されてから、その子の億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)は、丹波を経由して真清田神社に到着し、二人の皇子の護衛は、毛受や馬引、守基などに陣取ったそうです。

そう言えば、妙興寺の南で、名神高速のすぐ近くに丹波の地名(一宮市大和町妙興寺丹波)も存在します。億計王と弘計王が丹波経由で真清田神社に来たことに関係するのでしょうか?この問題はもう少し後で検討します。

油田(あぶらでん)と言う地名は様々な謎に満ちています。「真清探當證」によれば、仁賢天皇が崩御した後、天皇の遺言により大和町妙興寺字油田に埋葬したとされ、青桃丘松降御陵墓の名称が今なお残っているとのこと。そしてこの陵に皇后の春日媛が献灯したため、油田の地名が成立したとされます。持統上皇が東三河行幸の際、上皇に油を献上したので御油の地名が残ったのと似ていますね。と言うことで、早速油田に行ってみましょう。


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油田の位置を示すグーグル画像。

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油田公園。

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怪しい方にズームします。

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真清田大神降臨伝承地と刻まれた石柱。盛り土が小さな古墳のように見えます。

「真清探當證」の記述とこの石柱の記載内容からすると、仁賢天皇の陵墓が真清田大神降臨の地となってしまいます。何か関連でもあるのでしょうか?手前に解説石板があるのでチェックしてみましょう。

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解説石板。読みにくいので内容を以下記載します。

油田の由来
口碑によればこの地にむかし真清田大神が降臨し、後年現在の地に遷座したと言う。
当地の所在は、町名町界の変更がなされるまでは、大和町妙興寺字油田十三番地として親しまれた。
真清田神社の桃花祭に、妙興寺より一馬を引く由縁がそこにあると伝えられる。
油田の地名の起りは明らかでないが、その土地を燈明料所として真清田神社に寄進し、年貢の一部が納入されたことに由来するものと思われる。
しかし、町名町界の変更によりこの地も平成十五年五月からは、多加木ニ丁目十七番九に改められた。


解説石板によれば、昔、大和町妙興寺字油田に真清田大神が降臨し、後年現在の真清田神社社地に遷座したため、真清田神社の桃花祭に妙興寺より一馬を引くこととなったようです。となると、一宮市大和町馬引の馬引は真清田大神の遷座に由来するものと考えられます。

一宮市大和町馬引に方位地名が多く、加えて古宮の地名があるのは、真清田大神が一旦この地に留まり仮宮でも建て、あれこれ方位を考えた上で現在の真清田神社社地に遷座したと考えれば全部辻褄が合いそうに思えます。さらに油田は大和町に含まれることから、降臨した真清田大神とは、やはり大和から移住した三輪氏が奉斎する大物主神となり、天明火命ではなさそうです。

一方、油田の地名由来は解説石板と「真清探當證」の記述で全く異なっています。この問題を少し考えてみましょう。「真清探當證」には、履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子が殺害されてから、その子の億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)は、丹波を経由して真清田神社に到着したとあります。億計王が真清田神社に来たとすれば、油田からはそれほど遠くありません。億計王が油田に至った可能性も否定できず、仁賢天皇が崩御した後、天皇の遺言により油田に埋葬された話と、当然ながらうまく繋がってきます。

この問題は史書にどう書かれているのでしょう?まず陵墓ですが、仁賢天皇陵は大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されています。億計王に関してWikiは「安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。」と書いています。「古事記」には播磨国に入り身を隠し、馬飼、牛飼として使役されたとあります。

記紀の記述と「真清探當證」は全く整合していないと理解されます。やはり、億計王と弘計王は尾張に来なかったのでしょうか?しかしです。「日本書紀」によれば、市辺押磐皇子の同母弟である御馬皇子(みまのみこ)が身の危険を察知して、親交のある三輪君身狭(みわのきみむさ)のところに逃げようとしたところ、三輪の磐井で待ち伏せしていた雄略天皇の軍に捕らえられ処刑されています。だとすれば、億計王と弘計王も三輪氏を頼って逃げた可能性があり、三輪氏の拠点である尾張国の美和郷に逃げ込んでもおかしくはありません。

真清田神社の境内社・八龍神社に関して、「真清探桃集」には、祭神が鎮座する際、八頭八龍の大龍が下ったと記されています。ちょっと怪しい場所の一宮市泉2丁目に鎮座する花岡神社は、大正9年10月広畑町の八ツ白社・八ツ白龍神(現・泉3丁目12番13号)を勧請したのが始まりとされ、御祭神は白龍 ・黒龍の二神で、億計王と弘計王が卯つ木塚(同じ泉3丁目12番13号)に身を隠したことに由来するとのことです。

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真清田神社の境内社・八龍神社。


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花岡神社の位置を示すグーグル画像。

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卯つ木塚と八ツ白社。グーグルのストリートビューより。

真清田大神が鎮座する際大龍が下った話と、真清田大神が油田に降臨し、その同じ場所に仁賢天皇(=逃げ下ってきた億計王=白龍)の陵があるとの伝承は、上記の話とうまく繋がっているように思えます。二人が逃げた丹波が一宮市大和町妙興寺丹波であれば、油田のすぐ近くとなり、真清田神社へもそう遠くはありません。これらを総合すれば、荒唐無稽とされそうな一宮市の伝説にささやかな根拠が出そうになります。油田に仁賢天皇の陵墓があるとの説は無理にしても、例えば天皇の遺物を縁のある油田に埋め、それが天皇の埋葬話に転化した可能性はゼロではないと考えられます。

以上、島氏永周辺には驚くほど数多くの歴史が詰まっていました。島氏永駅から油田までの経路にも幾つか面白いものがあったので、次回以降書いていきます。

本記事も謎解き関連なので、カテゴリ「熱田神宮の謎を解く」に加えました。
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