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阿久比神社

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02 /11 2014

阿久比神社(あぐいじんじゃ)は知多半島の阿久比町に鎮座している神社で、知多郡の式内社三社の一つであり、尾張知多一宮とも称せられています。これは阿久比町が知多半島において古い歴史を有している証拠とも言えそうです。一方阿久比町は東側が半田市、西側が知多市に隣接して、知多半島では唯一海に面していない町となっています。

この町の名前はかなり変わっているため、以前から気になっていました。阿久比の町名にどんな由来があるのでしょう?もしかしたら阿久比神社(鎮座地:知多郡阿久比町阿久比北下川 49)と関係があるのかもしれません。調べたところ、阿久比神社の祭神は開囓(あきくひ、あきぐい)神でした。一般的な神社の祭神としてはまず出てこない名前です。阿久比町の地名は開囓神に由来しているようにも思われますが、確かなことは言えません。答えを求め早速阿久比神社に行ってみましょう。


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鎮座地を示すグーグル地図画像。

鎮座地 は名鉄河和線阿久比駅のすぐ近くです。ところがなぜかグーグル地図に社名の表示がなく摂社と思われる御霊神社の名前のみが出ています。妙ですね。神社周辺には覚堂坊、祭礼坊、仙人坊など巨刹の坊が点在していたような雰囲気を示す地名が見られます。さらに阿久比の古名とおぼしき英比屋敷や東京駅前と同じ八重洲の地名までありました。こちらにもオランダ人のヤン・ヨーステンが来たのでしょうかね?

東京の八重洲はヤン・ヨーステンが訛って耶楊子(やようす)になり、さらに八代洲(やよす)に転じ、最終的に八重洲になったとされます。ヤン・ヨーステンは徳川家康の信任が厚く、八重洲辺りの土地に屋敷を拝領していますが、この阿久比も徳川家康と関係がないとは言えず、ひょっとしたらと思ってしまいました。

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阿久比神社の鳥居と社殿。

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石段と拝殿。

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解説板。非常にわかりやすく書かれています。

阿久比神社は、延長5年(927)「延喜式巻九」神名帳に知多三座の一つとして記され、貞治3年(1364)「尾張国神名帳」には「従二位上英比天神」と記されている。社伝によれば、第23代顕宗天皇2年に、「開囓神」を祭り、創建されたと言われ、大化4年(648)に「猿田彦大神・天津彦命・瓊瓊杵尊」を合祀した。その後、天平神護元年(765)「八幡大神・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命」を合祀した。延喜20年(920)英比丸(麿)が社殿を造営し、60間四方の社地を寄進した。没後、天徳3年(959)「英比丸命」として合祀された。長暦4年(1040)に拝殿が建立された。拝殿は幾度かの改築を繰り返し、平成9年度に現在の拝殿が完成された。阿久比神社は、俗称、尾張知多の「一宮」と呼ばれているが、これは式内社として知多三座のはじめにあげられているからである。明治9年(1876)に「郷社」、明治40年(1907)10月に「神餞幣帛料供進指定神社」となった。

顕宗天皇2年に「開囓神」を祀ったそうですが、この天皇は真清田神社の検討の際に出てきており、一宮市にいたことになっていますから、何らかの関係性があったのかもしれません。尾張一宮と知多一宮の共通性もあります。

「あぐひ」の地名は藤原宮跡から出土した甲午年(西暦694年)9月12日の木簡で、「阿具比里五☐☐部」と記されていたのが初出となります。五☐☐部は五百木部氏(いおきべ)を意味しているようです。その後、平城京の木簡に三例ある「英比」の文字が使用されるようになって、平安時代以降は知多郡英比郷で固定されました。この変化は、和銅6年(713年)に郡郷名を「好字」で「ニ字」にせよと定められたことによるものと思われます。

以上のように「あぐひ」の地名がかなり古いことから、ほぼ同じ音を持つ神として開囓神を神社の祭神に当てたものと推定されます。それはともかく、開囓神に関してもう少し詳しく見ていきましょう。「日本書紀」には、イザナギが命からがら黄泉国から逃げ帰りその褌(はかま)を投げたところ生まれた神が開囓神だと書かれています。岩波文庫の注釈では、褌とは腰と脚とを覆う今の股引(ももひき)のようなもの、とあります。

「古事記」では、黄泉国から逃げ帰った伊耶那岐命が禊をしたとき、投げ棄てた御褌に成れる神の名が道俣神(ちまたのかみ)としています。その次に投げ棄てる御冠に成れる神の名が飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)となります。この神に関して岩波文庫の注釈は名義不詳としています。

開囓神は口を開いて食べると言う意味でしょうが、黄泉国から逃げ帰って禊をしている状況から穢れを食べてなくす意味がありそうです。「古事記」で道俣神とされるのは、股引が二股に分かれていることから、分かれ道に置かれる道祖神的な意味合いを持たせているようです。飽咋之宇斯能神に関しては、あの世とこの世の分かれ道で穢れを飽きるほど食べたので、穢れが祓われたことを象徴させているように推測されます。

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本殿です。

町の中に鎮座する神社ですが、ここはある種のパワースポットなのか清浄な気が満ちているように感じられました。穢れを食べてしまう神様が鎮座しているためでしょうか?また周辺には十カ所ほど弥生時代の住居跡や古墳時代の円墳が確認されているとのことで、知多半島の中心となる要素を備えているように思われました。現在の阿久比町は海に面していないものの、かつては神社の手前辺りが海岸線だったようです。

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本殿隣に鎮座する御霊神社。

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御霊神社を正面から。

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境内末社群。

知多郡に関連する木簡で人名を見ると、既に書いた五百木部(いおきべ)があり、これは本来「いふく」と読んで伊福部氏と同族とされています。「新撰姓氏録」によれば、「左京神別下  伊福部宿祢 尾張連同祖 火明命之後也」などとあり、尾張氏の流れのように見えますが、饒速日命を祖とした物部氏系の一氏族とも見做されており複雑です。伊福部氏の名前は、古代の製鉄において「ふいご」を吹くことに由来し、知多市から見える伊吹山の名前も同様の意味があります。

知多郡や阿久比に関連する木簡で最も多く出る名前が、和尓部(わにべ)です。和尓部は和邇部、和爾部、和珥部、丸部などとも書かれる古代豪族の一つで、孝昭天皇の長男天足彦国押人命(=天押帯日子命)を祖とし、大和国添上郡和邇(天理市和爾町)に本拠を置いていました。

なお知多臣も天押帯日子命の後裔とされており、知多臣=和尓部なのかもしれません。不思議なのは、現在の愛知県における鰐部姓をチェックすると全体で102人中、知多市が50人、東海市が6人と圧倒的に知多市のみに集中していることです。和珥氏に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%8F%A5%E6%B0%8F

Wikiには和珥氏について、太陽信仰を持つ朝鮮系鍛冶集団とする説がある、と書かれ、五百木部も同様に鍛冶集団の流れと考えられます。製鉄原料など知多半島にはないはずなのに、なぜ鍛冶集団が主流を占めたのか不思議に思えてきます。阿久比神社は以上です。
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