歴史の宝庫 本郷台周辺を巡る


あまり知られてはいないようですが、本郷台周辺は縄文から鎌倉時代までの長い歴史が重層しています。ということで、今回は横浜市栄区に属する本郷台周辺を巡ります。現在の行政区分では横浜ですが、かつては相模国鎌倉郡でしたので、カテゴリーは鎌倉に含めることとします。

この一帯は、古代の遺跡が現在の鎌倉よりもずっと多く存在しています。であるなら、歴史的に鎌倉をしのぐこの地に、なぜ鎌倉幕府が開かれなかったのでしょう?由井や佐助ガ谷の特殊技能集団にこちらを鎌倉とする考えがあったなら、鎌倉幕府は現在の鎌倉に存在せず、本郷台は毎日観光客で賑わう町になっていたはず。

由井や佐助ガ谷からでは本郷台は遠すぎる、ということは言えますが、本郷台には秦氏や鍛冶集団の拠点があったのですから、そちらへ移住すれば問題はないはずですが・・・?

歴史にifはないものの、本郷台に鎌倉幕府があったらと想像してみるのは面白いですね。

さてWikipediaによれば、『栄区地域の歴史は、原始・古代にまでさかのぼることができ、古代、鎌倉郡尺戸郷、荘園時代の山内荘が存在した。横穴墓の分布が特徴的である。相模国鎌倉郡であったため、特に、鎌倉時代には幕府との結び付きが強く、いたち川流域の豊かな田園が食料生産を担い、古代から伝わる製鉄の技術とともに東北地方に対する軍事政策のうえで重要な役割を果たしていたと考えられており、鎌倉道や数多くの史跡が残されている』、とあります。

この地を巡る場合、JR根岸線本郷台駅が起点となるのですが、駅前の書店で「栄区の郷土史」を購入しておくと大変に便利です。

駅から南に下ると、いたち川(旧名は出立川=いでたちがわ)という小河川に出ます。架かっている橋を城山橋と言いますが、この北側の白山という場所に出立川仙福寺というお寺がかつてありました。このお寺を創建したのが、かの秦川勝です。


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本郷台駅を中心としたグーグル地図画像です。

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いたち川です。

よく整備され、散策に適しています。いたち川という名は出立川が転じたものと思われます。

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城山橋です。画像右下の橋が城山橋。城山も同様に白山が転じたものでしょう。

駅の大船方面にはこんもりした丘陵が見られますが、ここにはかつて100基もの横穴墓があったそうで、七石山横穴古墳群と呼ばれています。残念ながら、根岸線の工事等によりその多くは消滅を余儀なくされました。

七石山横穴古墳群に行く場合、まず栄区役所本館4階で鍵を受け取る必要があります。その上で城山橋に戻り、いたち川を遊歩道沿いに下流に向かって歩きます。次の橋で右折し、根岸線のガード下を抜けます。左手には栄水再生センターがあるのですが、そのまま歩くと交差点に栄水再生センター前の表示板がありますので、ここを左折。そこから少し歩いて水再生センターの裏側に回り込むと解説板が見つかります。グーグル画像では、栄第一水再生センターの栄の文字辺りが所在地です。

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解説板です。

解説板の先に鉄柵がありますので、鍵でドアを開けて敷地内に入るのですが、棘の生えた木がドアの前後にあってちょっと大変です。

七石山横穴古墳群について栄区のホームページによれば、以下の通りです。
『昭和42年に発見され、その後発掘調査の結果、七石山(小菅ケ谷2018番地)中腹に100基を超える横穴古墳が確認され、人骨や土器、副葬品も発見されました。6世紀中頃から8世紀初頭にかけての豪族のものと推定され、玄室の奥に副室を持つ珍しい構造をもって「鍛冶ケ谷式」と呼ばれいたち川流域にある横穴古墳に共通の特徴です。根岸線工事とともに数個を残し、地域史跡となっています』

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横穴古墳です。反対側が削り取られたのか穴が抜けています。

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もう一枚。

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さらに一枚。

古墳の次は仙福寺に向かいます。神奈川で秦川勝の名が出てくるのは秦野とここだけなので見逃せませんが、残念なことにお寺は移転され、現在は光明寺となっています。なお住所は、横浜市栄区上郷町1054です。

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光明寺山門。

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光明寺本堂。

小さなお寺です。建立当時の雰囲気を残すものは、当然ですが、何もありません。残念ですね。

栄区のホームページによれば、光明寺の詳細は以下の通りです。
『梅沢山と号し京都西本願寺派の末寺で、本尊阿弥陀如来を安置しています。その昔聖徳太子がちょう愛した泰川勝が、かつては今の城山橋北側にあった「白山」あたりで、梅林中に夜光をみ、これが聖徳太子16歳の像であったため、これを奇として、梅沢山仙福寺(天台宗)と号しました。鎌倉時代にこの地を訪れた親鸞上人の学徳にうたれて浄土真宗に改宗しました。また、執権北条時頼の母、松下禅尼が隠居したとも伝えられ、幕府滅亡の際火災にあって現在の地に移りました。戦国時代にはしばしば小田原北条氏の弾圧を受けました』

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解説石板の一部です。

縦長の石板で、しかも木が邪魔してうまく写真が撮れません。石板には、光明寺は昔秦河勝が建立し聖徳太子像を安置した出立川仙福寺にはじまる、云々。との文が刻まれています。

仙福寺が創建された時点では、横穴古墳群のある七石山山麓の小菅ヶ谷から鍛冶ヶ谷辺りにお寺があったことになります。聖徳太子のブレーンとして多忙な川勝自身がこんな場所まで進出していたとは思えないのですが、少なくとも彼を奉じる秦氏の一団がこの地に居住していたのは間違いないでしょう。秦氏は芸能の神でもあるので、歌舞伎のように何代目秦川勝を称する人物がいたのかもしれません。

お寺の所在地から逆に考えると、七石山横穴古墳群は秦氏系の墓だった可能性が強そうです。今となってはもう遅いのですが、100基もの横穴墓を破壊せず線路を通す方策はなかったのでしょうか?

秦氏がこの地にいたとすれば、例によって彼らが好んで付ける地名が必ずあるはず。地図で調べてみると、ありました。まず小菅ヶ谷ですが、小菅という地名は秦氏の居住区があった大月の葛野川をさかのぼり、山を越えた場所にもあります。

また飯山には小菅神社という神社があるのですが、ここは修験道の役小角が創建し、小菅権現すなわ摩多羅神を祀っています。秦氏の神社である大酒神社の奇祭『牛祭り』には、この摩多羅神が主役として登場しています。大酒神社はかつて、秦川勝が創建した広隆寺桂宮院の鎮守でした。

ところで、大月の秦氏に関連する名前で桂川があったのはご存知ですね。広隆寺の桂宮院にも桂の文字が入っています。そこで、いたち川の南にある町名を調べてみると・・・、何と桂町がありました。仙福寺の伝承とその建立地付近に秦氏関連の地名が見られる以上、彼らの一族がここに来ていたのは間違いなさそうです。

栄区のホームページによると、桂町にも遺跡がありました。
『桂台からは縄文時代晩期、紀元前300年頃の遺跡が発掘されており、一時、桂台式土器と名付けられ話題となりましたが、現在は規準土器からははずされています。中期の公田町遺跡から「人面把手(じんめんとって)」(神奈川県立歴史博物館蔵)といわれている土器が見つかっています。蛇をかたどったもので、縄文人の信仰との深い関係があるとのことです』

なお仙福寺建立時の場所は白山ですが、この地名は寺のすぐ近くにあった白山神社に由来していると思われます。白山神社は鎌倉の鬼門を護る鍛冶職人系の神社で、由井の里の白山神社から見て北東の鬼門ラインに当たります。(鎌倉の地名由来を考える、にて考察済み)

仙福寺と白山神社の位置関係から、秦氏は鍛冶集団ではないものの、鍛冶系の特殊技能集団と一定の関係があったと推定できます。白山神社の詳細は栄区のホームページによると以下の通りです。

『旧上野村の村社。かつての本郷の総鎮守。創建は不明だが、舒明天皇のころ(629~641年)の逸話も伝承されており、当初は上野と中野と鍛冶ケ谷口の入会の六反町(現・本郷バス停付近)にあったと考えられています。源頼朝が鎌倉幕府の鬼門にあたる北東を守る神としたと伝えられ、嘉禄年間(1225~1226年)北条泰時が神領を寄進しています。一説では奥州から移住した鍛冶がまつったともいわれている古社ですが、たびたびその位置を変えています。その後、正中元年(1324年)または至徳元年(1384年)に八軒八戸の奥で字を神戸という光明ケ谷にされ、昭和51年に現在の東上郷町に移されました。当初の鍛冶ケ谷口跡には、現実の討幕軍に対する勝利の祈願のためか「ぢんがん堂」(陳願か鎮願か)を建てたといわれ、20年ほど前まで「ぢんがんぼっか(ぢんがんやぶ)」と呼ばれていました』


次にタタラ製鉄遺跡を見ていきます。光明寺前の道(23号線)を本郷台方面へと北上し、神奈中車庫前で右折します。登り坂を走ると、右手に本郷高校が見えてきます。その左側辺りに上郷深田製鉄遺跡が、高校の敷地には上郷猿田遺跡があります。こんな場所に奈良から平安時代にかけての大規模な製鉄遺跡があるとは驚きです。

ただ、鍛冶集団の祀る白山神社が舒明天皇のころに既にあったことからして、深田遺跡は少なくとも飛鳥時代にまでさかのぼるはずです。この点の解明をぜひして欲しいものです。

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上郷深田製鉄遺跡の現場。遺跡の主要部分は道路の下になっています。

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高校の脇(谷に下った脇です)にある遺跡の解説板。

タタラ製鉄とは、粘土で作った箱型の火処(ほど=炉)に砂鉄と木炭を入れ、空気を鞴(ふいご)と言う送風装置で送り、鉄を作る古代の製鉄技法です。タタラと称する所以は、鞴に付属する送風用の足踏み板が踏鞴(たたら)と呼ばれていたことに由来しています。

(鎌倉の谷戸を巡る その18で、タタラ製鉄においては火男(ひょっとこ)が火吹き竹を吹くという趣旨の内容を書いていましたが、タタラ製鉄の場合踏鞴を足で踏む訳ですから、火吹きの道具は使用しないはずです。それ以前の原始的な製鉄においては、火吹き筒が使用されていたので、ひょっとこの口をすぼめた面はより古い製鉄の様子が投影されたものと解釈されます。ここに原文も含め訂正しておきます)

踏鞴の足踏み作業は非常に過酷だったため、足を痛めることが多く、これが一本足の妖怪の起源になりました。ダイダラボッチは一つ目で一本足ですが、火処を見ることで目を痛め、鞴を踏むことで足を痛めた哀しい神の姿だったのです。

なお、桂町、公田町には大雪の日という行事があるそうです。12月7、8日頃、一つ目小僧がやってきて家に上がり込むのを防ぐため、ふるいをつるしておき、ふるいを見た一つ目小僧はふるいを沢山の目だと勘違いして逃げていくのですが、その晩は家族で手打ちそばを食べたとのことです。

この行事は何と1940年代まで続いていたとのこと。タタラ製鉄の記憶が、製鉄所に近い桂町などに、一つ目小僧の形で残っていたとは驚きですね。
      (一つ目小僧に関しては、栄区郷土史44ページを参考にしました)

ところで、足踏みの作業者は番子と呼ばれ、一定時間がくると交代していたようです。そこから「かわりばんこ」(作業を順に交代する)という言葉が生まれました。

ちなみに、女性の局部をホトと呼ぶことがありますが、それは火処に由来しています。多分、炉の穴から見る炉内の様子が局部を連想させたのでしょう。横須賀線に乗ると女性の声で、次は保土ヶ谷とアナウンスされますが、意味を知っていたらちょっと恥ずかしいですね。

一方男性の場合、局部をマラと呼びますが、これは物部系の鍛冶神である天津麻羅(あまつまら)に由来しています。しかし、なぜ男女とも金属系に由来しているのでしょうね?

本郷台に戻り栄図書館の脇を公田町方面に南下します。狭い道ですがしばらく走りますと、左手に火の見櫓が見えてきます。この火の見櫓の脇から入り裏山の階段を上ります。すると、小さな祠が・・・。

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祠です。

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火の見櫓です。

お供えされているところを見ると、今でも近隣の人々から信仰されているようですが、この石の祠は東北から蝦夷地の神アラハバキを祀ったものでした。神奈川にはアラハバキ神はほとんど見当たりません。なぜこんな場所にアラハバキがいるでしょう?

公田町のアラハバキは荒伯耆と書くそうです。伯耆とは伯耆大山で有名なように、出雲の文化圏に入ります。ここには産鉄族がいましたね。

だとすれば、公田町のアラハバキは出雲から渡来した民ということになります。アラハバキを祀る神社は東北に集中していますが、出雲にもかなりの数のアラハバキ系神社があります。ただ、Wikipediaにあるように、栄区地域が「東北地方に対する軍事政策のうえで重要な役割を果たしていた」のだとすれば、このアラハバキは東北由来のものとなります。

栄区は以下のように見ています。
『東北地方の津軽や出羽などで見られる民俗神ですが、なぜ本郷に存在するのか諸説あります。平安期、山内荘本郷と呼ばれた頃、東北から移住した鍛冶集団の神、あるいは鎌倉下の道を通して伝わった旅や足腰の神などが考えられています』

桂台から出土した土器は青森県の亀ヶ岡式土器と区別が難しいほど東北文化の影響を受けているそうですから、やはり公田町のアラハバキは東北からこの地にまでやって来たのでしょう。いずれにせよ、古代の本郷台一帯が東西文化の一大交流拠点であったことは間違いありません。

この地域には、縄文時代から鎌倉時代に至るおびただしい数の古墳、やぐらのみならず、秦氏に関連しそうな小菅ヶ谷、桂町、鍛冶に関連する鍛冶ヶ谷、天平時代以降律令制のもとで国が所有している田畑を意味する公田(くでん)など、古代から中世を連想させる地名まで残っています。残存する遺跡は、是非長く保存していただきたいものです。

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アラハバキ神

2017年シネマ歌舞伎で「阿弖流為」を見てきました。
3時間モノで大作な上にとても面白い話と歌舞伎の伝統を受け継ぎ、さらに現代映画の上を行く造りでした。
坂の上タムラ麻呂、アラハバキ神、阿弖流為の話です。
そんな事でネットを「アラハバキ神」でけんさくしたら、此処へ辿り着きました。
「鎌倉街道を探そう!」のボスケです。

Re: アラハバキ神

ぼ輔さん

こんばんは。大変ご無沙汰しております。
アラハバキから私のブログに辿り着いたとは、びっくりです。

現在愛知にいるので、地元的テーマとして尾張氏や伊福部氏、熱田神宮の謎などを探索しました。
ちょっと大和方面に足を延ばして大和王権と邪馬台国の謎を解き、近いうちに尾張と遠賀川流域の共通性の謎に挑戦します。
愛知は様々な謎解きをするための、地の利に恵まれていると言ってよさそうです。
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