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尾張氏の謎を解く その4

尾張氏の謎を解く
12 /01 2014

前回でニギハヤヒと長髄彦の動きを見てきました。随分回り道をしたように思えますが、今回はニギハヤヒが生きた時代の特定に戻ります。ニギハヤヒは物部氏の祖神で、彼らの原郷は遠賀川流域となります。従って、ニギハヤヒは遠賀川河口から船に乗り、瀬戸内海沿いの各地に寄港しながら東進し、河内に上陸して哮の峯に入ったものと思われます。そうした移動がいつ頃行われたのか、古い時代から順に検討してみましょう。

遠賀川の名前からすぐ思い浮かぶものに遠賀川式土器があります。この土器は稲作伝播の指標ともされ、北九州、瀬戸内海に沿った各所、河内から大和そして尾張などで出土しており、尾張が一応の東限ともされています。時代的には紀元前300~200年頃の弥生時代となるでしょう。

となれば、ニギハヤヒはこの頃に北九州を出て大和に入ったのでしょうか?仮にそうだったとして、彼は邪馬台国の時代(卑弥呼の没年が248年頃)の500年も前に大和入りしたことになってしまいます。これはあまりにも早すぎますし、長髄彦に関連する地名がこの当時に成立して今も残っているとは考えられません。また事実関係は別として、ニギハヤヒは神武天皇の時代に登場しているので、実年代では紀元前300~200年よりずっと遅い時代になるはずです。

ニギハヤヒの時代を何とか確定させるため、違う視点から検討します。「先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒは十種神宝を天祖から授かり、これを携えて大和入りしました。それらのお宝の中に、辺津鏡(へつかがみ、前漢鏡)と沖津鏡(おきつかがみ、後漢鏡)があります。天火明命を祀る籠神社によれば、同神社所蔵の辺津鏡は2050年前、沖津鏡は1950年前のものとのことです。この年代は学術鑑定の結果なので、正しいとしておきます。

となると、二つの鏡を携えたニギハヤヒの大和入りはどんなに早くても紀元64年以降となります。これでかなり時代を絞り込めました。(注:これらの鏡に関しては籠神社の以下のホームページを参照ください。なお新しくなったホームページは記載内容が少し異なります)
http://www.motoise.jp/main/houmotu/kagami.html

Wikipediaは以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

籠神社の沖津鏡と辺津鏡は以下のホームページにも詳しいので参照ください。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku324.htm

余談ですが、天火明命は既にご承知のように鏡と関係が深く、ニギハヤヒも二つの鏡を神宝として持ち込んでいることから鏡と関係が深いことになり、この回路からもニギハヤヒ=天火明命説に説得力が出てきそうです。ただ、酔石亭主は別の見方を持っており後の回で別途検討してみます。

それはさて置き、さらに時代を絞り込んでいきます。後漢鏡の製作時期は一定の幅を見る必要があり紀元50年から100年頃と仮定します。この時期に後漢で制作された鏡はいつ日本に伝来したのでしょう?

これは日本の各地方豪族が大和朝廷に臣従した際、朝廷が豪族に下賜した三角縁神獣鏡のケースから類推することができます。大和朝廷を中国の皇帝に置き換えれば、倭国王の中国皇帝への献上品の見返りとして授けられたものと理解されます。そうした記事がないか、中国の史料をチェックしてみましょう。するとありました。

「後漢書」によれば、後漢の永初元年(107年)に倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じているのです。生口とは奴隷のことです。いかがでしょう?時代的にもぴったり整合しますね。倭国王帥升が献上した奴隷の見返りとして、皇帝から前漢鏡と後漢鏡が贈られたと考えてほぼ間違いありません。邪馬台国の女王卑弥呼も、魏への朝貢の見返りとして親魏倭王の金印と銅鏡100枚を授かっています。

以上からニギハヤヒは、107年頃日本に伝来した鏡を携えて大和に降臨したことになります。うまく時代が絞り込めているので、さらに検討を進めます。ニギハヤヒは「先代旧事本紀」によれば大部隊を率いて大和に降臨しました。とても全部は書ききれませんが、例えば防御の人として天下りに随伴した32人の一番手は天香語山命で、尾張連らの祖とあります。他には五部の人や、天物部ら二十五部の人が、兵杖を帯びて同行しています。また、天火明命と関係しそうな鏡作部の遠祖天糠戸命(あめのぬかどのみこと)も随伴している点は注目されます。

なぜニギハヤヒはこれだけの大部隊を率い住み慣れた北九州を離れ大和に向かったのでしょう?そこには必ず何らかの理由や動機があったはず…。当時において大移動が必要な事態とは戦争や飢饉による混乱が考えられます。そうした事態がこの頃の日本になかったか中国の史書から探ってみましょう。するとありました。倭国大乱です。

「後漢書」の卷85、東夷列傳第75によれば、桓帝・霊帝の治世の間(146年~ 189年)、倭国は大いに乱れて何年も主がいなかった。卑弥呼は鬼道を用いてよく衆を妖しく惑わした。そこで卑弥呼を共に王に立てた。とあります。「梁書」にもほぼ同様の記述があり、後漢の霊帝の光和年間(178年~ 184年)倭国は乱れ、何年も攻め合った。とあります。これらから、178年~190年の間に倭国で大きな戦争があったとほぼ確認されました。

ニギハヤヒは多分、倭国の大乱を避けるため、あるいは大乱後の混乱や飢饉から逃れるため、2世紀の終わり頃北九州を出て大和に向かったのです。話は変わりますが、邪馬台国の所在地論争が今も盛んで、最近では纏向遺跡がその建物の規模や年代から卑弥呼の宮殿だとの見方も強くなっています。邪馬台国近畿説の論者が勢力を増している訳ですね。けれどもその場合、大乱の現場は大和となってしまい、ニギハヤヒは大和における大乱を避けるため九州から大和に向かうという矛盾した話になってしまいます。そう考えると、邪馬台国はやはり九州にあったとするしかなさそうです。

話を元に戻します。上記からニギハヤヒの生きた時代は2世紀の終わりから3世紀の初めにかけてと推定することができました。天火明命は、事実関係は別として、ニギハヤヒと同一神とされています。従って、実在の有無は一旦横に置き、天火明命はニギハヤヒと同じ時代の人(神)だったという点は確認されます。

天香山命はどうでしょうか?彼はニギハヤヒの東遷に随伴する32人の一番手であり、天火明命の御子神(と言うことはニギハヤヒの御子神でもある)でもあります。従って、時代的にはニギハヤヒより少し遅れるものの、やはり2世紀の終わりから3世紀の初めにかけての人物と見なすことができそうです。

以上で尾張氏の祖神(とされる)天火明命と天香山命の時代を、2世紀の終わりから3世紀の初めに特定できました。

                     尾張氏の謎を解く その5に続く
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