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尾張氏の謎を解く その5


ここで真清田神社の由緒を見ていきます。以前一宮市図書館で「真清田神社御由緒復刻版 天火明命の謎にせまる」と言う書を発見し記事にしており、復刻版には「創立の事」という項目が最初に出てきます。内容の概略は以下の通りです。

神社明細帳によれば当社の創建は崇神天皇の御代のこととされるが、当社の社記によれば、神武天皇33年3月3日、天香山命がこれを斎き祀った。天香山命の別名は石凝姥命(いしこりとめのかみ)又は高倉下で、熊野にいて神武天皇東征の折に神剣を献上して大功があったので、天皇の侍臣となり葛城国高尾張邑にいたが、東北の地(当国尾張国)に遷って開拓し建国の基礎を固め、旧村の名により尾張国と称した。父天火明命を尊び、海中島、嶼(こじま)の地を選び斎き祀ったのが今の中島郡である。

「真清深桃集」(亨保18年(1745年)三代目神主の佐分清円著)には尊神鎮座のとき八頭八尾の大龍に乗りたまふ、とありこの場合の尊神は天火明命となります。また神社で頂いた栞には、「御祭神「天火明命」は別名「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)とも申され、皇祖天照皇大御神の御皇孫に当たります。神代、大和国(今の奈良県)葛城山麓「高尾張邑」(たかおわりむら)をご出発され、神武天皇33年3月3日、尾張国の当地にお鎮まりになられました。」と記載ありました。神社側は、天火明命が葛城山麓の高尾張邑を出て尾張に至り、尾張国開拓の祖神になったと明確に記している訳です。

しかし上記「創立の事」の由緒から判断すれば、高尾張邑にいた天香山命が尾張国に移住して父神天火明命を祀ったのが真清田神社の始まりとなります。(注:「その1」において、葛木坐火雷神社の解説板によると天香山命=石凝姥命になるとの趣旨で書いていますが、真清田神社においても同様の記載があること、真清田神社の二つの由緒からすれば天火明命と天香山命はいずれも葛城山麓の高尾張邑にいたとされる点が注目に値します)

神武天皇はニギハヤヒの大和降臨の後に東遷していますので、例えば190年前後に初代天皇として即位したと考えれば、真清田神社創建は神武33年(紀元223年前後)になります。しかし、神武天皇の33年と社記が記すのは、既に書いたように神社側が天香山命=高倉下との前提で考えているからに他なりません。

これが仮に正しいとしても、卑弥呼が存命の時代に尾張で神社が創建されたなどあり得ない話です。一方神社明細帳のように崇神天皇の時代とすると、天香山命の寿命が長くなりすぎて話が矛盾してしまいます。酔石亭主は神社明細帳の崇神天皇の御世に創建されたとする伝承が、あくまで伝承であるとの前提において、正しいと理解しています。

けれどもその場合、2世紀終わりから3世紀初めの人物である天香山命が崇神天皇の時代(4世紀前半と推定)に尾張国に来たとなってしまい時代的にマッチしません。この問題は別途考えることとして、尾張氏にとって極めて重要と思われる第10代・崇神天皇の時代を4世紀前半として正しいのか詳しく検討してみます。これは、一代を何年で計算するかで変わってきます。

百歳以上の天皇がいる初期の時代は省き、現代に繋がるとされる継体天皇から孝明天皇(明治天皇の前の天皇)までを96代、およそ1350年と考えれば、一代当たり約14年となります。安本美典氏は古代の天皇の場合一代当たり10年として、各天皇がいつの時代を生きたのかを推定しています。確かに近世も含めた平均より、衛生や栄養状態の悪い古代は寿命も短くなるはずなので、一代当たり10年は納得できる部分もあります。

問題は、安本美典氏が神武天皇の時代を270年から280年頃に設定していることです。これには疑問を感じざるを得ません。例えば纏向遺跡において、卑弥呼の宮殿などと騒がれている大型建物跡3棟(3紀前半〜中ごろ)の東側にも新たな建物跡が見つかっています。3世紀の初め頃、大きな建物(祭祀用と思われる)を建てられるだけの権力が大和に存在している以上、神武天皇の時代を270年とするのは、(あくまで酔石亭主の視点においてですが)無理があります。この問題をもう少し詳しく見ていきましょう。

「晋書」などには、魏が滅び、晋が興った翌年の泰始2年(266年)倭の女王が朝貢してきたとの記事が出ています。王朝交代の報に接し驚き慌てた邪馬台国(当時は壱与が祭祀権者)は、すぐさま使者を派遣したのでしょう。以降邪馬台国が中国の史書に登場することはなくなります。266年から少し時代が下って邪馬台国が滅び、270年から280年頃に神武天皇が東遷したと考えれば、一見繋がりはよさそうに思えます。

けれども、既に書いたように奈良県桜井市の纒向遺跡には卑弥呼の宮殿との意見もある3世紀前半から中頃の3棟の大型建物跡が存在します。神武天皇が280年頃に大和に入り即位したとすると、この建物との時代差が数十年あることになってしまいます。

以前NHKのTV番組で、卑弥呼に関する最新の研究が取り上げられ、纏向遺跡は福岡県糸島市(伊都国)の平原王墓(ひらばるおうぼ、2世紀で卑弥呼の少し前の時代)と埋葬法など様々な点が似通っているとの解説がありました。これはニギハヤヒに続いて北九州の勢力(邪馬台国とその周辺勢力=神武天皇に象徴される勢力)の東遷が190年頃にあったとする前提で初めて成立する考え方となります。

平原王墓では直径46.5㎝、重量8kgの古代において世界最大級の鏡が発掘されたとのことで、建物群が東西一直線に並んでいることや、埋葬者の位置の関係から太陽信仰に関係するとされています。纏向遺跡の建物も東西の同一直線上に同じ方向を向いて建てられていることから、この点でも類似が見られます。

従って酔石亭主の視点では、邪馬台国の一部勢力が倭国大乱後の混乱を避けて190年頃に北九州から大和へ移動し、それが神武天皇の東遷として記紀には記述された、と理解することになります。移住後10年程度かけて勢力は安定化し、200年代に入って纏向に大型の祭祀用建物が建てられ、邪馬台国と同じような祭祀が行われたのです。

長々と書きましたが、史料がほとんどない弥生時代の年代を特定するのに、どのような物差しを使っても誤差が出るのは避けられません。そうした点も踏まえつつ、ここまでの内容を以下のように纏めてみます。

酔石亭主としては天皇在位を一代14年として、ニギハヤヒの大和降臨を180年に設定し、「日本書紀」では神武天皇がその後に東遷していることから、神武東遷を190年とし、没年を204年に設定します。この場合、崇神天皇即位は204年+8x14=316年となり、没年は330年となります。ようやく崇神天皇の時代特定まで至りました。

ここで逆からの計算を試みます。中国の史書には倭の五王に関する記載があり、研究者の間で確定しているのは「済」が允恭天皇、「興」が安康天皇、「武」が雄略天皇となります。史書によれば第19代の允恭天皇没年は462年になります。

酔石亭主の計算式では、允恭天皇の没年が330年+8x14=442年となるので、誤差は20年となり、それほど大きな差ではないと言えるでしょう。もちろんニギハヤヒの時代の取り方の問題や、天皇によって在位が30年とか2年程度もあり得るので、この計算が正しいとは言えず、単なる目安にすぎませんが…。ここでは、崇神天皇の生きた時代を当初の推定通り4世紀前半としておきます。

念のために、他の視点からも探ってみます。磐船神社のある交野市には「森古墳群」があり、神社のホームページには3世紀末~4世紀の前方後円墳群と書かれています。しかも、森古墳群中最大最古の古墳の被葬者は、ニギハヤヒの六世の孫で崇神朝における重臣であった伊香色雄命(いかがしこおのみこと)とする説が有力とのこと。この記事からも崇神天皇の時代を4世紀前半に置くのはほぼ正しいと理解されます。

一方、真清田神社の創建は神社明細帳をベースにすると崇神天皇の時代ですから、4世紀前半に置くことができます。その時点で、神社の祭神である天火明命や尾張に来て国を開拓した天香山命は存命していないことになります。仮に神社の社記のように神武33年とした場合でも、天火明命が存命している可能性はかなり低くなりそうです。

もちろん天火明命や天香山命を祖神と仰ぐ尾張氏が大和の高尾張邑から来たので、上記のような伝承が成立したとの言い方は可能です。ただその場合、尾張氏が高尾張邑にいたことを証明する4世紀前半かそれ以前の古墳・遺跡などが存在しなければなりません。この問題は別途現地訪問した後に検討することとします。
 
やや先走りしすぎたようなので、時代の針をニギハヤヒの頃に戻します。ニギハヤヒ率いる物部系やその他の部民が大和に入ったのは2世紀の終わりから3世紀の初めとなります。その頃の大和はあくまで推測ですが、既に書いたように出雲族の信仰圏が広がっており、原始的な三輪山の祭祀も行われていたと思われます。(当時鴨族や葛城氏の前身となる集団も葛城山や金剛山麓にいたと想定されますが、ここでは一旦横に置きます)そこにニギハヤヒ率いる集団が入ったことで、出雲族は一定の影響を受けることになります。

出雲族の多くはニギハヤヒ集団と融和的だったと思いますが、一部は大和を離れ北や東に向かった可能性があります。それには三輪山から昇る太陽を祭祀した多氏系一族も同行したのでしょう。東に向かった集団はまず近江を北上し続いて後代の不破関を越え、美濃から尾張へと進み、現在の一宮市周辺地域に定着しました。

彼らの定着地は美和郷となり、真清田神社や大神神社の原型(原始的祭祀の場)が成立し、その南の於保には多氏系が祀る大神社の原型が成立したものと推定されます。多氏の後裔(或いは在地豪族と融合した多氏)は後代の爾波(にわ)縣主、丹羽氏となり尾張北部に勢力を伸張させていきました。(注:大神神社は「新春の真清田神社 その3」、大神社に関しては「名鉄島氏永(しまうじなが)周辺を巡る」を参照ください。

尾張では最も古い部類に属する東之宮古墳は4世紀初め頃の築造とされ、爾波縣主の墓であるとの説が有力ですが、この時代と崇神天皇の時代がほぼ一致するのも注目されます。(注:以前に4世紀後半と書きましたが、訂正します。なお、3世紀後葉との説もあります。犬山市は1500年前としています)築造年代に関しては文化財ナビ愛知を参照ください。
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/kinenbutu/siseki/kunisitei/0875.html

尾張には物部氏の痕跡も色濃く残っており、彼らは尾張の中部地域となる現在の名古屋市千種区から東区、北区南部の味鋺・味美一帯、守山区、春日井市西部一帯を支配していました。物部氏は神武天皇の時代にニギハヤヒの子である宇麻志麻治命に率いられ、尾張に入ったとされています。事実関係はともかくとして、出雲族の拠点近くに物部氏が移動する点は大和の状況にも似通っており、また時期的にもおおよそ筋が通っていそうな雰囲気があります。

以上で、ニギハヤヒの時代、言い換えれば天火明命と天香山命の時代における大和と尾張の情勢を大雑把に概観できたことになります。

                      尾張氏の謎を解く その6に続く
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