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尾張氏の謎を解く その9


今回は葛木坐火雷神社解説板の内容を詳しく検討します。果たして何が書かれているのでしょう?

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解説板です。陰になっている部分もあり読みにくいので以下に全文を書き出します。

葛木坐火雷神社御由緒略記
南葛城郡忍海村笛吹字神山鎮座
祭神 火雷神及笛吹連ノ祖天香久山命ノ二座
配祀神 高皇産霊神、大日孁貴尊、瓊々杵尊、伊古比都幣命

當神社ハ元火雷神社ト笛吹神社ノニ社ナリシヲ延喜帝以前ニ合祀セラレタリ上古来朝廷大事ヲト定セラル毎ニ笛吹神社ヨリ波波迦木ヲ進献スルヲ倒トセリ
火雷神ハ火産霊神トモ火之迦具神トモ奉申リ火ヲ主宰シ給フ神ニシテ此大神ハ宮中大膳職及伊勢神宮ノ菓餅所ニテ奉斉セラル御同神ニシテ菓祖ノ大御神ナリ 天香山命ハ石凝姥命トモ奉申リ天照皇大神天岩屋戸ニ籠リ坐セル時天香久山ノ天波波迦木又竹ヲ切リ取リ笛ヲ造リ吹鳴シ亦金ヲ堀リ八咫鏡ヲ鋳造シ皇祖ニ奉リ大御心ヲ慰メ奉リシ神ニ坐シテ音楽及鐵工業ノ祖神ニシテ此ノ御鏡ヲ伊勢神宮ノ御神体ト奉仰ルモノナリ 高皇産霊神 大日孁貴尊 瓊々杵尊ハ皆皇祖ノ大神ニ坐シ伊古比都幣命ハ御食都神ニテ所謂衣食住ノ神ナリ
御鎮座ハ神代ト云ヒ神武天皇ノ御代ト謂ト誰モ詳ナラズ社家持田家ノ家譜ニ崇神天皇ノ御代ノ十年建埴安彦兵ヲ挙ゲテ帝都ヲ襲ハントス仍テ大彦命ハ笛吹連櫂子等ヲ率ヒ奈良山ニ於テ安彦ニ軍ト戦ヒテ和韓川ノ南ニ於テ櫂子ノ射放チタル矢ハ安彦ノ胸ヲ射貫キ之ヲ斃ス故ニ賊軍降テ平定ス依テ櫂子ノ戦功ヲ賞シテ天磐笛及笛吹連姓ヲ給フ其ノ夜天皇ノ御夢ニ此ノ磐笛ヲ以テ瓊々杵尊ノ神霊ヲ祭レバ国家安寧ナランコトニヨリ當社ノ相殿ニ奉祀セラルタルト有レバ崇神天皇御宇以前ノ古社ニシテ地誌其ノ他ノ古書 笛吹神社トアルハ所謂是也
皇室ノ御尊崇最モ厚カリシ官幣大社ニシテ延喜式ニ名神大月次相嘗新嘗ト載セラレ毎年数度ノ案上官幣ニ預リ給ヒシ神社ニテト事ニ用フル波波迦木ヲ奉ル等皇室トノ関係モ亦深カリシ事ヲ拝察シ奉リ得ルナリ

赤字部分が重要と思われます。片仮名交じりの長い由緒なので、要点を簡略に書きます。

この神社は元々火雷神社と笛吹神社の2社だったものが、延喜帝=醍醐天皇(だいごてんのう、885年~930年)以前に合祀された。境内の波波迦木(ははかき)は朝廷が重要事項を占う度に献上された。

主祭神は火雷神と天香山命で、火雷神は火産霊神とも火之迦具神とも言う。天香山命は別名が石凝姥命で、天照大神が天岩屋戸に籠ったとき、天香久山の天波波迦木と竹を切り取り、笛を作って吹鳴した。また天香山命は金(一般的に鉄或いは銅)を掘り、八咫鏡を鋳造して皇祖に奉った音楽と鉄工業の祖神で、この鏡が伊勢神宮の御神体となった。(注:尾張氏の祖神であるはずの天香山命が、上記由緒では尾張氏と無関係な笛吹と鏡作部の祖神・石凝姥命の事績において語られている点が注目されます)

高皇産霊神、大日孁貴尊、瓊々杵尊、伊古比都幣命を配祀する。鎮座は神代とも神武天皇の時代とも言うが定かではない。社家持田家の家譜によれば崇神天皇の御代の十年建埴安彦が兵を挙げた。大彦命は笛吹連櫂子(かじこ、かじし)等を率いて建埴安彦と戦い、櫂子が放った矢は安彦の胸を射抜き賊軍は降伏した。

天皇は櫂子の戦功を賞して天磐笛と笛吹連の姓を与えた。その夜天皇の御夢に、この天盤笛をもって瓊瓊杵命の神霊を祀れば国家安泰ならんとの御告げがあり、命は当社の相殿に奉祀された。崇神天皇時代以前の古社として、地誌などの古書に笛吹神社と記されているのが当社である。
(注:「その1」に掲載した同社のホームページによれば笛吹連櫂子は持田家の先祖となります)

では上記由緒の内容を分析します。驚いたことに、主祭神である天香山命は音楽と鉄工業の祖神として描かれており、尾張氏の祖である点は全く意識されておりません。高尾張邑の中心が忍海一帯と推定され、尾張氏の発祥地ともされている中で、尾張氏との関連が無視されているのは注目に値します。火雷神はもう少し後で検討します。

配祀されている高皇産霊神は葛城族の祖神で、別名は高木神となります。既に書いたように、「古事記」には、飯豊、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき。との記述があり、一帯が葛城族に関係する土地だと理解されます。

由緒に出てくる大彦命は崇神天皇期における四道将軍の一人で、北陸地方に派遣され、途中で武埴安彦命とその妻吾田媛の謀反を知り、和珥臣の祖・彦国葺と共に武埴安彦を討ち取ったとされます。葛木坐火雷神社のホームページは既に掲載していますが、参考までに再度アップします。
http://www.eonet.ne.jp/~fuefukijinja/yuisyo.html

続いて由緒の内容を実年代で推定しましょう。由緒内容をそのまま受け入れると、笛吹連櫂子は崇神天皇の時代(4世紀前半)の人物となります。「先代旧事本紀」天孫本紀には、ニギハヤヒ(またの名を天火明命)の子が天香語山命(天神本紀で尾張連らの祖)で、天降って後の名が手栗彦命または高倉下とあり、6世孫の建多乎利命(たけたおりのみこと、=建多析命)が笛吹連(ふえふきのむらじ)、若犬甘連(わかいぬかいのむらじ)らの祖となる、と記載あります。そして宮司さんにお聞きしたところ、笛吹連櫂子は建多乎利命の子に当たるとのことでした。(注:幾つかの史料は建多乎利命を同社祭神としています)

葛木坐火雷神社境内にある古墳の被葬者は建多乎利命と伝承されており、この点は宮司さんにもお聞きして確認を得ています。一方、崇神天皇の時代は4世紀前半で、「先代旧事本紀」によると建多乎利命はニギハヤヒ(=天火明命)の6世孫となります。ニギハヤヒの没年を200年頃と考えれば、一代14年で建多乎利命の没年は284年頃となり、櫂子の没年が298年で崇神天皇の時代と僅かなずれがあるものの、一定の整合性がありそうです。つまり崇神天皇と櫂子の年代自体は、現実は別として、ほぼ整合性があるのです。

次に由緒のストーリーと現実との整合性をチェックします。そのためには、神社境内にある古墳の築造時期を調べる必要があります。古墳の写真は前回の「その8」記事を参照ください。

古墳の被葬者が本当に建多乎利命なら、築造時期は3世紀の後半頃となるべきで、その確認が得られれば由緒と現実が一致することになります。と言うことで調べてみましょう。まず以下のグーグル画像を参照ください。


グーグル画像。

西から東に向けて2本の丘陵が伸びており、北側の尾根の先端部が葛木坐火雷神社の鎮座地で、そこに笛吹神社古墳があります。この2本の丘陵上には何と80基もの古墳が群集しており、笛吹古墳群と称されています。この古墳群は比較的小規模な円墳を中心とする群集墳で、築造時期は6世紀とのことです。古墳から出土した副葬品の中には大刀、鉄鏃、金銅製紋子や鍛冶に伴う鉄滓などがあり、脇田遺跡の鉄器工房や忍海漢人との関連が想定されます。以上から、笛吹古墳群の被葬者は鉄器生産の特殊技能集団(忍海漢人)の首長やリーダー格の人物であると言えそうです。

葛木坐火雷神社境内にある笛吹神社古墳も他の古墳群と同様に、築造時期は6世紀初頭から前半と想定されています。古墳の直径は約25m、高さ約4mの円墳で、石室内には刳抜式家形石棺が納められているとのこと。かつて金銅装の大刀などの遺物か出土したそうです。

既に書いたように建多乎利命の想定没年は284年頃となります。一方笛吹神社古墳の築造時期は6世紀初頭から前半にかけてですから、両者の間には2百数十年もの時代差が生じることになります。数十年程度の差ならともかく、これだけの時代差はどう考えても埋めきれません。となると、笛吹神社古墳の被葬者は建多乎利命ではなく、渡来系氏族の忍海漢人だった可能性が高くなります。以上から、古墳の現実と神社の社伝との間には大きな時代的ギャップがあると確認されました。

葛木坐火雷神社の東側には脇田遺跡があり、北側には寺ロ忍海古墳群があり、西側には笛吹古墳群がありました。神社を中心としてそれを取り囲むように、葛城襲津彦が連れてきた新羅系渡来氏族・忍海漢人に関係する5世紀終わりから6世紀の鉄器製作工房や古墳がある以上、常識的に見れば、葛木坐火雷神社はこれら渡来系氏族との関連で考えるべきものと思われます。

例えば同社の祭神・火雷神は鍛冶神としての神格も有しており、元の火雷神社部分では鉄器を製造する渡来系氏族・忍海漢人との関連が想定されます。宮司さんは笛吹神社古墳が社殿より高い位置にあることから、神社にとって古墳がいかに重要で神聖なものであるかを語っていました。その前提で考えるとなおさら同社と渡来氏族との関連が想定されてしまいます。

元の笛吹神社部分では、天火明命と天香山命が金属系の神ではあるものの、渡来氏族とは別の要素が考えられます。既に書いたように、「先代旧事本紀」天孫本紀には天火明命6世孫の建多乎利命が笛吹連、若犬甘連らの祖となる、と記載あります。「新撰姓氏録」の河内神別には笛吹連に関して火明命の後なりと書かれていました。「系図纂要」によれば、笛吹連の祖は健多乎利命となります。これらから笛吹連櫂子が建多乎利命の子となり、笛吹神社古墳の被葬者は建多乎利命であると伝えられてきたのでしょう。

系図上で建多乎利命は尾張氏の流れに組み込まれているのは確かですが、一方同社の由緒は祭神の天香山命を音楽(笛吹)と関連付けるだけでなく、鏡作部の祖神・石凝姥命としての事績において記載しており、既に書いたように尾張氏との関連は全く意識されない形となっています。建多乎利命の墓とされる笛吹神社古墳も、忍海漢人のリーダー格が被葬者である可能性を否定できず、系図と古墳の現実は全く整合していません。

笛吹は伊福部氏の職掌とも関連があり、忍海漢人がこの地に入る以前に伊福部氏が存在していた可能性もあります。「三代実録」の貞観4年(862年)に、雅楽寮の合笙生・伊福貞が本姓の五百木部連に復したとある記事が笛吹と伊福部氏を結び付ける根拠となります。

ただ、上記の一例だけでそう言い切れるか悩ましいところです。大和岩雄氏は「神社と古代王権祭祀」(白水社)において、葛木坐火雷神社の祭祀氏族は伊福部氏と断定しておられますが、笛吹連櫂子の子孫となる持田宮司さんにお聞きしてもそのような認識は全くありません。この問題は別途考えることとして、ここでは、伊福部氏の存在が笛吹神社のありように影響を与えた可能性があるとしておきましょう。

吹くことに関連した様々な職掌を持つ伊福部氏ですが、基本的には製鉄・鍛冶の技能民であり、そうした地に先進的な技能を持つ忍海漢人グループが配置されたとしても違和感はありません。伊福部氏は尾張氏と同族だとする考えが一般的なので、伊福部氏がここにいたなら、その本流である尾張氏がいたも同然との見方も出てきます。けれども、酔石亭主は別の考えを持っていますので、後の回で詳しく書いていきたいと思っています。

なお、「続日本紀」の養老6年(722年)三月辛亥条には何人かの忍海漢人系人物が記載されています。彼らの後裔は押部氏で兵庫県に多く見られ、全体で72人中、神戸市西区が31人、姫路市が16人、明石市が10人となっています。

今回の検討により、残念ながら、笛吹神社古墳を含む笛吹古墳群は葛城襲津彦が朝鮮半島から連れてきた鉄器製造工人のリーダーたちの墓とほぼ断定でき、尾張氏とは何の関係もないと判明しました。高尾張邑の中心と推定されるこの地に、系図上の繋がりを除いて初期の尾張氏と関係しそうな痕跡は何一つなかったことになります。

けれども、既に書いたように神武天皇の時代、高尾張邑は葛城邑に名前が変わり、古代の葛城の範囲はかなり広いものとなっています。だとしたら、高尾張邑の比定地は葛木坐火雷神社鎮座地一帯ではなく、別の場所なのかもしれません。例えば同社の宮司さんは、高尾張邑についてもっと南の高鴨神社周辺ではないかとしていました。これが正しいとすれば、高尾張邑の範囲に関して考え違いしていた可能性も浮上してきます。なので、次回は高尾張邑の範囲を再検討してみます。

                    尾張氏の謎を解く その10に続く
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