尾張氏の謎を解く その40


滋賀県長浜市山階町576には伊吹神社(いぶきじんじゃ)が鎮座しています。祭神は伊吹神とのみ記されており、どのような神か定かではなく、創建年代も不詳です。しかしこの神社も伊福部氏に関係すると想定されます。


伊吹神社の位置を示すグーグル地図画像。

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伊吹神社の鳥居。

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解説石板。 

主祭神は伊吹神。伊吹の霊峰を拝し、壮大な境内地を有する。伊吹の社より湧き出る池あり。農業の守護神として「山田大蛇」を祀り、幾多の社坊あり。…以下略。

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伊吹神社の文化財の解説板。画像サイズを大きくしています。

伊吹神社祭神は八岐大蛇となっています。また山階は猿楽の根拠地とのことです。山階猿楽に関しては、以下のPDFファイルを検索ください。
www.nagahama-hikiyama.or.jp/common/.../tokubetuten_8.pdf

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参道と拝殿。

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拝殿。

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手水舎。

解説石板にある池でしょうか?モーターで汲み上げているような気がしないでもないのですが…。

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社前近くから見た伊吹山。

この場所は伊夫岐神社の西に当たり、既に検討した金糞岳から流れ出る草野川下流部に近く、金糞岳の鉱山や鍛冶屋の管理を行っていたのかもしれません。同神社の概要は滋賀県神社庁のホームページを参照ください。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=224

上記のように、遠征部隊が大和から尾張へと向かう最初の中継国近江には、少なからず伊福部氏の痕跡があったと確認されました。とまで言い切っていいのでしょうか?何か間違っているような気もします…。

そう、ここまでの考察で気になる点が幾つか出てきたのです。まず、大和国に伊福部氏の痕跡が少なすぎる点です。既に調べたように、高尾張邑の葛木坐火雷神社や、高鴨神社に近い御所市五百家の地名は伊福部氏に関係がありそうです。御所市の朝町には銅山があって、その鉱脈は東南の五百家に走っている点からも、奈良盆地における伊福部氏の存在が推定されます。

でもこれらは、伊福部氏の痕跡としては全く物足りません。大和国の宇陀には伊福郷もありますが、奈良盆地からはやや距離感があります。大和における伊福部氏の痕跡が少ないなら当然部民の数も少ないはずで、東方遠征隊の主力として働けるのか疑問が湧いてくるのです。

次に、近江だけ見ても伊福部氏の痕跡は数多くありました。ところが、伊吹神社、伊夫岐神社の鎮座地は不破の地峡帯より北側になります。金糞岳に至ってはそれよりさらに北側となってしまいます。東方遠征隊として検討した集団が北方遠征隊にすり替わってしまったような雰囲気さえあるとは、一体どうしたことでしょう?

四道将軍の一人である丹波道主命は丹波国(後の丹波国、丹後国、但馬国)に派遣されたので、美濃・尾張方面の遠征部隊リーダーを丹波道主命と仮定すれば、部隊がまず向かう先は当然のことながら丹波国となってしまいます。その父となる彦坐王にしても、「古事記」には「又日子坐王をば、旦波国に遣はして、玖賀耳之御笠(陸耳之御笠、くがみみのみかさ)を殺さしめたまひき。」と、丹波国に派遣された記事が見られます。

彦坐王に関しては以下Wikipediaより引用します。

彦坐王(ひこいますのみこ、生没年不詳)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父にあたる。『古事記』によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治のために丹波に派遣されたとある。
稗史によれば、彦坐王は美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられるが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布している。


今まで東方遠征部隊は大和を出て近江を経由し、不破の地峡帯を抜けて美濃・尾張方面に向かったと単純に想定していましたが、よくよく考えれば、そのリーダーを丹波道主命或いは彦坐王と仮定している以上、彼らが丹波国に向かうのは全く当たり前の話です。

と同時に、彦坐王は崇神天皇の異母弟ですから皇族の一人となります。彼は崇神天皇の命を受けて、玖賀耳之御笠退治のために丹波に派遣され、後に美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに美濃の開発に努めています。東方遠征部隊を率いるに最も相応しい人物と思えませんか?では、どう考えればいいのでしょう?

東方遠征部隊のリーダー候補は丹波道主命或いは彦坐王で変えられない。けれども彼らはまず丹波国に向かった。この両方を前提として、大和に伊福部氏の痕跡が少ないのに遠征部隊の主力になれるかと言う疑問も含め、検討の方向性を大転換する必要がありそうです。

ここで気になるのは玖賀耳之御笠の名前です。「日本書紀」の仁徳天皇の段に丹波桑田郡の玖賀媛 (くがひめ)なる女性が登場します。丹波桑田郡は現在の亀岡市に比定されます。玖賀(くが)に関しても、山城国にある久我(陸、こが、くが)の地名を連想させます。

以前にも少し触れていますが、「山城国風土記」の逸文には、賀茂建角身命は葛野川(桂川)と賀茂川とが合流するところにおいでになり、久我の国の北の山の麓に住居を定め、そのときから名を賀茂という、とあります。久我は桂川と鴨川の合流地点西側付近一帯で、現在の伏見区久我本町辺りと思われます。


位置を示すグーグル地図画像。周辺には久我の名前が付いた地名が幾つかあります。

となると、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)の支配領域は丹波国の日本海側から南の山城国に接する領域を越え、山城国内の桂川と鴨川の合流点付近まで広がっていた可能性も出てきます。そこまで広げるとあまりに領域が大きくなりすぎるので、玖賀耳之御笠の一族が山城国まで足跡を残していたとする方が現実的かとは思いますが…。

玖賀耳之御笠の耳(みみ)は一般的に海人系の人物に付けられる名前です。丹波国は海部氏の支配地域なので、玖賀耳之御笠はその一支族とも考えられます。玖賀耳之御笠が彦坐王と戦ったエリアは丹波国の日本海側で海部氏が拠点とする一帯となり、そのことも玖賀耳之御笠が海部氏の一支族であることを示しているように思えてきます。

実は久我と海部氏との関係で面白い符合を思い付きました。「秦さんはどこにいる?その23」において、久我氏は山城国乙訓郡久我郷を拠点とした古代豪族で、山城国造である久我直の祖に「天背男命」がいる、と書いています。天背男命はニギハヤヒが大和に天降りする際随伴した三十二人の一人で、尾張中嶋海部直等の祖とされています。つまり、久我の地名は丹波国の海部氏と尾張国の海部氏の接合点となるような意味を持っているのです。

ちなみに、尾張に鎮座する尾張大国魂神社の神主は、天背男命(あめのせおのみこと)を祖とする中島海部直の後裔・中島連が務めていました。ちょっと見ただけでも、あれこれ妙なところで繋がりが出てきそうです。

天背男命は、天津甕星(あまつみかぼし)の別名です。天津甕星に関してWikiには以下の記載がありました。

『日本書紀』の葦原中国平定にのみ登場する。本文では、経津主神・武甕槌命は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかったので、倭文神(しとりがみ)建葉槌命(たけはづち)を遣わし懐柔したとしている。

玖賀耳之御笠と天背男命。二人のありようは実に似通っていますね。それはさて置き、彦坐王が玖賀耳之御笠を退治するとなると、遠征ルートは近江方面ではなく、大和を出て北に進み現在の京都(伏見区久我本町一帯)から亀岡(丹波国の桑田郡)に入るコースを辿ることになりそうです。よって、近江の伊福部氏系神社は遠征部隊が大和から近江に入ることに起因して鎮座したのではなく、丹波、若狭方面から南下した遠征部隊に関係するとも考えられます。

いずれにしても、美濃・尾張方面に向かうべきはずの伊福部氏を主力とした東方遠征部隊は、その前に、四道将軍の一人である丹波道主命或いは彦坐王に率いられて丹波国に向かった可能性が高くなります。彼らの向かう先には何があるのでしょう?

それを知るには、丹波道主命や彦坐王の動きを追いかける必要があります。また丹波国には天火明命を主祭神とする丹後一宮の籠神社が鎮座し、尾張氏の同族とされる海部氏までいます。(注:丹波国は和銅6年(713年)4月3日の時点で丹波・丹後・但馬の三国となっています。本記事では扱う時代が和銅以前なので基本的に丹波国として書きますが、上記のように籠神社は丹後一宮なので、そのまま丹後で記載している点お含み下さい。今後もこうした例は出てくると思います)

籠神社の祭神は天火明命であり、辺津鏡と沖津鏡が神社の神宝となっています。となると、丹波国方面には天火明命の存在まで想定されてきます。驚いたことに、笠縫邑を出た天照大神の御魂(=鏡=天火明命)が次に祀られたのは丹後国吉佐宮(注:籠神社に比定されるが諸説あり不明)で、ここが元伊勢第二号となりました。鏡を奉じて進軍した遠征部隊と、天照大神の動きは連動しているようにも感じられます。

さらに丹波国には、葛木坐火雷神社の笛吹連と関連しそうな人物の名まで見られます。丹波国における海部氏の本拠地には伊福部氏系の神社があり、尾張国の海部郡にも伊福部氏の神社が鎮座しています。遠征部隊の主力に伊福部氏がいると想定すれば、それも当然かと思われます。

以上、驚いたことに、尾張氏の謎解きで今まで書いてきた重要事項のほとんどが丹波国一国の範囲内に集中していました。丹波国は尾張氏の謎を解く鍵を握っているのかもしれません。これは大変、早く丹波の調査に赴く必要があります。けれども、丹波方面に行ったことはないし、まだ寒い丹波での探索などとてもできそうにありません。それより何より、資料などによる十分な事前調査も不可欠です。

きちんと事前調査を行い、(そこで挫折するリスクもありますが)暖かくなった春以降から現地訪問の上、あれこれ探索したいと思いますので、尾張氏の謎解きシリーズはしばらくお休みとします。再開までは一般的な記事をアップすることでお茶を濁します。

それにしても、もう「その40」まで来てしまいましたが、どこまで回数を重ねれば終わり(尾張)にまで行き着けるのでしょう?ゴール地点ははるか彼方、霧にかすんでいます。

                   尾張氏の謎を解く その41に続く
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No title

いつも楽しく読ませていただいております
といっても、私には知らない事ばかりで、なかなか理解するところまではいたりませんけど・・・汗

意外なほうに話が進みましたね
丹波方面楽しみにしています

古東山道が面白そうなんで、時々、美濃のそれらしきところに出かけてます

土曜日には、昼飯大塚古墳を見てきました
昔の人のことを考えてその同じ場所に行くというのには、わくわくしてロマンを感じます




Re: No title

雑草様

こんばんは。

そうなんです。尾張氏を検討していたら丹波にまで足を延ばさなければならないとは、想定外でした。
でも、それが古代史の醍醐味なのかもしれません。
ちょっと調べただけでも、そうとうややこしそうなので、うまく書けるかどうかわかりませんが…。

古東山道は結構調べている人もいるようですね。
いずれ尾張氏の検討の中で触れることになるとは思います。
是非古東山道の決定版をアップしてください。
参考にさせていただきますので…。

大和の葛城も面白いですよ。
現場に立つと空気感が違います。

酔石亭主様

>大和の葛城も面白いですよ。
現場に立つと空気感が違います。

良いですね~♪  そちらには、まだ行ったことがありません

暇になったら、是非行きたいと思います

歴史がおもしろいなと思ってからまだそれほど年月がたっていないもので・・・

行きたいところ多いです。

Re: 酔石亭主様

雑草様

私も歴史に興味を持ってからそれほど年月は経っていませんよ。
行きたいところはやたら多いし、既に行った場所でも、例えば田原本町など、くまなく歩き回ってみたいと思うほどです。
どこに行くにしても、どれだけ知られていない歴史を掘り起こせるかが醍醐味でしょうね。

神奈川にいた頃は、自転車で5分のところにも面白い歴史がありましたし、鎌倉など何十回通ったかわかりません。
調べるにつれて、観光都市鎌倉とは全く別の姿が浮かび上がってくるのが実に面白かったです。
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酔石亭主

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