若狭探訪 その3


前回までの検討により、遠敷明神(若狭彦大神)は秦氏系と海人系が融合したような神であり、降臨した下根来において白石大明神として、遠い昔から奈良時代に至るまで祀られてきたと判明しました。

「その1」でアップした若狭神宮寺の由来や略歴には、和銅7年(714年)若狭彦神の直孫和朝臣赤麿が金鈴を地主長尾明神と祀り神願寺(神宮寺の前身)を創建する。翌年の715年に若狭彦・姫神を根来白石より迎え、神仏両道の寺となる。…と書かれています。

一方、「類聚国史」によると養老年中(717年~724年)に赤麿が神願寺を建てたとあります。内容は以下の通り。

若狭国比古神。以二私朝臣宅継一為二神主一。宅継辞云。拠二-検古記一。養老年中。疫癘屡発。病死者衆。水旱失レ時。年穀不レ稔。宅継曽祖赤麿。帰二心仏道一。練二身深山一。大神感レ之。化レ人語宣。此地是吾住処。我禀二神身一。苦悩甚深。思下帰二-依仏法一。以免中神道上。無レ果二斯願一致二災害一耳。汝能為レ吾修行者。赤麿即建二道場一造二仏像一。号曰二神願寺一。為二大神一修行。厥後年穀豊登。人無二夭死一云々。

大雑把な内容は前回で書いていますので、参照ください。これに泰澄が養老年間に青葉山を開山したこと、「若州管内社寺由緒記」では泰澄の弟子である滑元が神願寺を建てたことを踏まえると、滑元と共に若狭に向かった泰澄自身が神願時の創建に関与していた可能性も浮上してきます。略歴では創建が714年、若狭彦姫を勧請したのが715年で、「類聚国史」の養老年間とは若干の時代差がありますが、許容範囲内としておきます。

では、意味不明な「遠敷明神の直孫和朝臣赤麿公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表し地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となった。」の部分をもう一度見ていきます。

銅鐸をもった先住のナガ族の王とは誰のことでしょう?出雲では大量の銅鐸が発見されており、ナガ族とは多分竜蛇族のことで、出雲との関係が出てきます。さらに、海人系の豊玉姫(乙姫)は「古事記」には八尋鮫と記載されていますが、民俗学者の吉野裕子氏は竜蛇としています。「古事記」においては八尋鮫が、「匍匐(は)ひ委蛇(もこよ)ひき」(這ってうねりくねりしていた)と記述されています。「古事記」の文面や八尋鮫の姿態を勘案すれば、吉野裕子氏が指摘したように竜蛇とするのが正しいと思えてきます。

多田ヶ岳の麓には多田神社が鎮座しており、祭神は大己貴命ですが、この神は蛇体で顕現する場合が多いようです。以上から長尾明神とは出雲系と海人系が融合した神様と言えそうで、海彦である彦火火出見尊と乙姫である豊玉姫命を充てられそうです。前回で以下のように書きました。

つまり、二つの八百比丘尼は一方が秦氏系の要素を持ち、もう一方が海人系の要素を持っていることになります。同様に、若狭彦神社と若狭姫神社も二つの要素を持っているため、祭神が若狭彦大神(彦火々出見尊)、若狭姫大神(豊玉姫命)と記載されているのではないでしょうか?この視点から赤麿の動きを見ていきましょう。

赤麿は700年代の初めに先住の海人系の神である彦火火出見尊と豊玉姫命を長尾明神として長尾山山頂に祭り上げました。その上で、下根来に鎮座していた秦氏系の白石大明神(=遠敷明神=若狭彦大神と若狭姫大神)を勧請して神願寺に祀っています。こうした操作を経て、若狭彦神社祭神が若狭彦大神(彦火火出見尊=海彦)、若狭姫神社の祭神が若狭姫大神(豊玉姫命=乙姫)になり、多田ヶ岳の東峰・長尾山は神宮寺の神体山となったのです。以上から、若狭彦神社と若狭姫神社が秦氏系、海人系の二つの要素を持っていると確認されます。

なお一帯は世界遺産の候補地となっており、世界遺産暫定一覧表記載資産候補提案書がPDFで作成されています。提案資産名は「若狭の社寺建造物群と文化的景観」で、以下をネット検索で入力してください。わかりやすく書かれています。
www1.city.obama.fukui.jp/file/page/400/doc/4.pdf

様々な歴史を有する若狭が世界遺産に登録されれば、本当に素晴らしいことだと思います。では、若狭神宮寺に行ってみましょう。


神宮寺の位置を示すグーグル地図画像。

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若狭神宮寺の石柱と仁王門。二本の巨木も出迎えています。

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仁王門。鎌倉時代末のもので重文となっています。

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仁王像。鎌倉時代末期のものだそうです。

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もう一体。

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仁王門を参道側から撮影。

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若狭神宮寺本坊。

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本堂。室町時代末のもので重文。逆光のため正面から撮影できません。

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スダジイの巨木。

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根張りが凄い。根と幹が一続きのように感じられます。

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スジダイの脇にある閼伽井屋。

なぜか閼伽井屋の撮影を漏らしており、Wikiより借用しました。お水送りにおいては、ここの井戸で汲んだ水を鵜の瀬から二月堂の若狭井へ送水することになります。

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茅葺の趣ある茶室。

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苔の緑が美しい。

さて、本堂内部には三つの神号掛軸が掛かっており、以下のようになっていました。

白石鵜之瀬明神 
手向山八幡大神


白石鵜之瀬明神は鵜之瀬における送水神事の神と言ったところでしょうか。由来には根来八幡宮で山八神事を行うと書かれており、根来八幡宮の正式名は手向山八幡宮となります。つまり、この二つの神号は下根来に関係しています。

和加佐比古大神
和加佐比女大神

若狭彦大神と若狭姫大神のことですが、表記が異なります。何か深い意味もありそうなので、別途考えてみましょう。

志羅山比女明神
那伽王比古明神


那伽王比古明神は長尾明神のことですが、志羅山比女明神とはどんな神様なのでしょう?
調べたところ、本堂の真正面に聳える神体山・志羅山(しらやま)と判明しました。志羅は言うまでもなく、新羅(しら、しらぎ)を意味しています。秦氏は新羅を経由して渡来した一族であることから、新羅と結び付けられています。

若狭神宮寺は秦氏系の神体山を志羅山に、海人系の神体山を長尾山に配してバランスを取ったように思えます。特に面白いのは、神宮寺本堂正面は志羅山を向き、背後に長尾山が控え、この三者はほぼ直線で結ばれている構成となっている点です。詳細は以下の小浜市が作成した以下のPDFファイル、継続審議案件の検討状況報告書 「若狭の社寺建造物群と文化的景観」をネット入力して参照ください。
www1.city.obama.fukui.jp/file/page/400/doc/3.pdf

「その2」において、白石は新羅と関係がありそうな点を提起しましたが、志羅山の山名からするとほぼ間違いなさそうに思えます。なお、以下のPDFファイルには志羅山の調査結果が書かれていますので、ネットで入力して検索ください。
https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/maibun-c/event/24siryo_d/fil/022.pdf#search='志羅山+pdf+福井'

一般的には、若狭国鎮守一二ノ宮縁起の記述などから、霊亀元年(715年)に若狭彦神社、養老5年(721年)に若狭姫神社が創建されたことになっています。「若狭国鎮守一二ノ宮縁起」の関係する部分は以下。

一宮(号上宮)元正天皇御宇霊亀元年(乙卯)九月十日、当国遠敷郡西郷内霊河之白石之上始テ垂跡坐。其形俗躰而如唐人、乗白馬居白雲。今若狭彦大明神是也。眷属八人之内、有持御剣童子一人、謂節文。…中略…
次二宮、同御宇養老五年(辛酉)二月十日、以前霊石上始坐。其形女躰如唐人、同乗白馬居白雲。今若狭姫大明神是也。眷属八人亦在之。節文同参向。


けれども若狭神宮寺の略歴を見ると、霊亀元年(715年)は神仏両道の神願寺において祀られた年を示しており、宝治2年(1248年)に神宮寺が若狭彦神社を造営し、現在地に神様を遷座させたように受け取られます。この時点で神願寺は別当寺になり、神宮寺と改称したことになります。

若狭神宮寺の由来では、紀元一世紀頃に遠敷明神(若狭彦命)が根来白石に既に祀られており、その後714年に神願寺が創建され、715年に若狭彦姫神を迎え、1248年に若狭彦神社が造営されたことになり、紀元一世紀はともかくとして、ストーリー的には神宮寺の由来が筋道立っているように思えます。

ところで、若狭彦大神に関して神宮寺の神号掛軸には和加佐比古大神との表記で書かれていました。若狭の場合は(わか・さ)ですが、和加佐の場合だと(わ・かさ)とならざるを得ず、かなり違った印象を受けてしまいます。この背後には何か重要な秘密が隠されているように思えますので、次回で検討してみます。

                    若狭探訪 その4に続く
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宮城の白石城の旧支配者。。

白石氏を辿っているうちに、ここの記事に
出くわしました。宮城の白石氏も秦氏との
関係がある、と考えられるでしょうか。そ
れとも単なる偶然の一致でしょうか?

Re: 宮城の白石城の旧支配者。。

はじめまして

白石氏は一般的には藤原姓とされており、秦氏とは関係がなさそうです。
宮城県における秦姓は17人で白石市に3人となっています。
秦姓は同じ場所に固まっていますので、白石市の場合はそうした偏りもなさそうです。
宮城県における白石姓は206人で、登米市が49人と最も多く、白石市はゼロとなっています。
登米市との関係で調べられたら、何か出てくるかもしれません。

さっそくのご返事。。

ありがとうございます。登米市を調べてみ
ます。それにしても酔石亭主さんの古代史
研究はたいへん面白く、これからも愛読さ
せて頂きます。どうぞ、よろしく。
プロフィール

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