若狭探訪 その4


前回までの検討で、若狭大神は秦氏系と海人系が融合した神格を持つ神であるとしました。一方、若狭大神は若狭神宮寺の神号掛軸では和加佐大神と表記されています。二つの異なる神号表記の背後に何かが隠されているとすれば、若狭大神を秦氏系と海人系が融合した神とする見方に影響を及ぼすことになるかもしれません。若狭の神様は奥が深いとも言えそうですが、早速この問題を探ってみましょう。

和加佐大神の表記は若狭神宮寺の神号掛軸に見られる以上、ヒントは神宮寺の由来をチェックすることで得られるはずです。と言うことで、由来の内容を、目を皿のようにして見直してみます。ポイントは前回で書いた若狭の場合は(わか・さ)と和加佐(わ・かさ)の違いの部分です。

ほとんど見落としてしまいそうですが、由来には「遠敷明神の直孫和朝臣赤麿公」、「神願寺の開山赤麿(和氏)公」と言った文言が見られました。和朝臣や和氏とは氏族の名前のはずです。秦氏系であるはずの遠敷明神の直孫が和氏では筋が通らなくなります。でも、取っ掛かりはここしかなさそうなので、検討を進めます。まず和氏(やまとうじ)に関して以下Wikipediaより引用します。

百済の第25代王・武寧王を祖と称した、百済系渡来氏族。和(やまと)の名称は、大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市佐保庄町大和一帯)に由来する。
もともと和史姓を名乗っていたが、和乙継の娘・新笠が結婚していた白壁王が即位(光仁天皇)したため、宝亀年間(770年代)に乙継・新笠親子は高野朝臣姓を賜与された。また、国守らその他の一族も延暦2年(783年)に史姓から朝臣姓に改姓している。
氏人には、乙継・新笠親子のほか、桓武朝で天皇の外戚として中納言にまで昇進し、渡来系氏族として初めて公卿となった和家麻呂(乙継の孫)がいる。

上記の高野新笠(たかののにいがさ)は武寧王の10世孫とされ、桓武天皇の生母となります。そう言えば、鵜之瀬の南の下根来には高野の地名もありました。和氏との関係で高野の地名が成立したのかもしれません。和氏の系図を探したところ、以下のホームページがありました。

http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-k-fuyo-kudara.html

赤麿に続いて男人──池足──宅継となり、宅継が若狭彦神社の神主になっています。宅継の時点で若狭神宮寺に祀られていた若狭彦大神が外に出て若狭彦神社が成立したのかどうかは不明です。けれども、若狭国一宮である若狭彦神社にとって和氏は非常に重要な氏族であることは間違いなさそうです。

お水取りの始まりは天平勝宝4年(752年)です。一方上記系図には、和史池足に関して727年からと記載あり、次の宅継が759年からとなっていました。この年代が正しいかどうか判断できませんが、正しいと仮定すれば池足が遠敷明神となるのはほぼ間違いなさそうです。

遠敷明神は秦氏系、海人系が融合しただけでなく、百済からの渡来氏族・和氏も加わった神様になりそうです。和加佐(わ・かさ)の和の部分は一応解明されたことにして、次に加佐の検討に入ります。和が氏族の名前なら加佐も同様に氏族の名前かも知れません。

加佐に関しては若狭神宮寺の由来を見てもヒントになるものはなさそうです。他の史料はどうでしょうか?「若狭国鎮守一二ノ宮縁起」には以下の文面がありました。

一宮(号上宮)元正天皇御宇霊亀元年(乙卯)九月十日、当国遠敷郡西郷内霊河之白石之上始テ垂跡坐。其形俗躰而如唐人、乗白馬居白雲。今若狭彦大明神是也。眷属八人之内、有持御剣童子一人、謂節文。

霊亀元年(715年)に唐人のような姿で白馬に跨り、遠敷川の白石に垂迹したのが若狭彦大明神で、眷属八人の内、剣を持つ童子が節文である。と書かれています。この節文とは誰でしょう?若狭彦大神の眷属と言うからにはかなり重要人物と思えますが…。例えばこの人物が加佐氏(笠氏)であれば、地名の和加佐(若狭)とは二つの氏族名を繋げたものとなります。そこで調べたところ、笠(りゅう)氏で以下の系図がありました。

http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-kasa-wakasa01.html

http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-kasa-wakasa02.html

大変な労作と思えるこの系図によれば、孝安天皇の皇子大吉備諸道命の後裔に鴨別命がいて、その子小篠が若狭笠氏の始祖となり、陰陽博士・笠朝臣名高(871年没)の二男(の子孫?)節文(916年~)が715年の若狭彦、若狭姫両大明神垂迹の時に禰宜となり、以後代々社務職を相続していることになります。系図上の節文の年代と「若狭国鎮守一二ノ宮縁起」の節文の年代に200年もの差があってはいかんともしがたいものがあります。けれども、笠氏が若狭彦神社において重要な役割を担っていたことは確かと思えます。

以上から若狭(和加佐)の地名は若狭国一宮の若狭彦神社で重要な役割を担っていた二氏(和氏と笠氏)の名前に由来することになります。となると、若狭彦大神は秦氏系、海人系、和氏、笠氏(読み方は「りゅう」と言う問題はある)の四氏が融合した神様となり、実にややこしい話になってしまいます。

また、若狭神宮寺の由来には「若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名」とありましたが、それは間違いだったことになりそうです。若狭の国名は若狭彦大神の眷属で笠氏である節文の時代(715年前後)に和加佐で確定したことになるはずですが、それで正しいのか別の史料に当たる必要があります。Wikipediaでチェックすると若狭国に関して以下の記載がありました。

設置当初の7世紀後半には、若侠国と若佐国の2通りの表記があったことが、藤原宮跡から出土した複数の木簡からわかっている。若狭国と書かれるようになったのは、8世紀に入ってからで、おそらく国印が鋳造された大宝4年からであろう。

600年代の後半に若佐国の表記もあったとなると、和加佐→若佐→若狭と推移した可能性があり、木簡以前の段階に和加佐国の表記があったのではないかと思えてきます。ただ、それを証明する資料の類はなさそうですし、節文の時代は700年以降となってしまいます。

笠氏が若狭彦神社に影響力を持ったのは700年代以降で、若狭国と若佐国の国名が600年代後半に存在していたとすれば、笠氏の名前から和加佐の国名になることはありません。ただ、伝説的ではありますが、小篠が若狭笠氏の始祖であるとすれば、笠氏が和加佐の地名の加佐の部分を担っている可能性は残ります。

どこか他にもヒントがないでしょうか?そう言えば、「その2」において青海神社の由緒を取り上げ、「古代の青郷は現在の地域よりもはるかに広く、現在の青郷は元より高浜町の内浦地区、京都舞鶴市の大浦地区をも含み」の部分を書いています。京都舞鶴市の大浦地区は後代の丹後国加佐郡に含まれていますが、古代の青郷すなわち若狭の領域が加佐郡にまで広がっていたことになります。

「丹後風土記残欠」によれば、加佐郡の本字は笠で、崇神天皇の御代に彦坐王が青葉山にいた玖賀耳之御笠を討伐するため赴いた場所となります。つまり、加佐の元となる笠は崇神天皇の時代に存在していたことになります。詳細は「尾張氏の謎を解く その40」を参照ください。

以上から、和加佐(若狭)の加佐は後代の丹後国加佐郡の地名に由来していた可能性が浮上してきました。でも、なぜ若狭からかなり離れた場所の加佐郡なのでしょう?大浦半島には既に書いたように大丹生の地名があります。遠敷郡はかつての小丹生郡でした。小浜市太良庄字丹生森には丹生神社が鎮座し、太良庄はかつての丹生郷(若狭国遠敷郡丹生郷)とされています。

大丹生→丹生→小丹生と繋げて考えると、本来水銀の原料となる辰砂を産出したのは、後代の加佐郡内でありそれを奈良に運ぶ経由地・集荷地として若狭小浜が存在し、結果的に丹生地名の成立に繋がったとも考えられます。以前に「日本に秘められた謎を解く その1」で以下のように書きました。

お水送りとお水取りの行事全体の裏には、水銀が隠し込まれていたのです。お水送りの神事で使われる供物は、(赤土)饅頭です。達陀の行は(赤)装束の僧が行います。神宮寺を建立したのは、(赤)麿とされています。水銀を示す(あか)がさり気なく、行事に組み込まれていると気付かされますね。

上記の行事内容からしても、若狭小浜は水銀を産出するのではなく、送り出す地であったと理解されるのではないでしょうか?水銀は死と再生を象徴する金属で秦氏の関与がある点は以前から何度も書いています。

秦氏は新羅からの(新羅を経由して渡来した)渡来氏族であることから、遠敷明神を神仏両道で祀っていた若狭神宮寺本堂真正面の山は志羅山(新羅山)でした。同様に加佐郡内にある志楽郷も新羅と考えられます。一般的に新羅は志楽、志楽木、志羅木、志木などとも表記されています。

さらに若狭富士とも称される青葉山の麓の青郷には秦氏の存在が見られます。面白いのは青郷の東にある若狭和田の地名で、和田の地名が秦氏と関係する点は今までに何度となく書いています。

若狭和田もこれに当て嵌まるのではと思い調べたところ、聖徳太子が秦河勝を従えて、甲斐の黒駒にまたがり、和田浜で休まれていると黒駒の姿が見えなくなり、山の上の方で馬のいななきが聞こえた。聖徳太子はここが観音様の霊地であると言って、寺を建てるようお命じになったのが、本光山馬居寺(ほんこうざんまごじ)である。との伝説が存在していました。ここは福井県最古の寺として知られているそうです。上記の伝説は多分、青郷の秦氏が広めたのではないかと思われ、青郷に隣接する志楽の地名も秦氏の影響がありそうです。


青郷、若狭和田一帯を示すグーグル地図画像。

152_convert_20150403104605.jpg
和田浜から見た青葉山。実に秀麗な山容です。

あれこれ書きましたが、若狭は御贄を朝廷に献上するだけでなく、水銀の集荷・輸送地であったことになり、その意味で後代の丹後国加佐郡は極めて重要であったと考えられます。よって若狭の地名は、若狭彦大神(和加佐比古大神=遠敷明神)を祀る遠敷明神の直孫・和氏と、笠氏或いは水銀の産地である加佐郡の地名を併せた和加佐に由来することになります。

以上を纏めると、遠敷明神の神格は、秦氏系、海人系、和氏、笠氏の要素が融合したものとなり、地名の和加佐には加佐郡の要素も含まれることになりそうです。遠敷明神における秦氏と和氏の関係には相互矛盾する部分がありうまく整理できていませんが、様々な要素が積み重なった結果発生したものとしておきます。また笠氏の音は(りゅう)であるものが、勝手に(かさ)と読み替えた上で加佐の表記としていいのかと言う問題も残っています。

いずれにしても、上記は頭の体操的に考えたものなので、正しいかどうかは何とも言えません。一つの見方としていただければいいでしょう。こうした複雑な経緯を経て、752年より若狭から東大寺二月堂にお香水が送られるようになったのです。と言うことで、お水送りの地である鵜之瀬に行ってみます。

100_convert_20150403104707.jpg
鵜之瀬前の鳥居。

101_convert_20150403104743.jpg
解説板。画像サイズを大きくしています。

094_convert_20150403104911.jpg
鵜之瀬あたりの遠敷川の流れ。

103_convert_20150403105020.jpg
大岩に注連縄が張られていました。

096_convert_20150403105118.jpg
お水送りの場面。鵜の瀬公園資料館にて撮影。

098_convert_20150403105158.jpg
もう一枚。

写真ですが、実に神秘的で印象深いものがあり、実際の神事を見てみたいものです。詳しくは以下の森の水PR館ホームページを参照ください。

http://mori-pr.com/index04.html

複雑な若狭のありようを時系列的に見てきました。時間的な制約もありましたが、行き漏らした場所は多々あり、事前の調査不足も大きく、内容面での不十分さは否めません。いずれにしても、一回の訪問で全部書き込むのは所詮無理があるので、機会があればまた訪問してみたいと思います。

さて、若狭神宮寺の略歴には、宝治2年(1248年)当寺が若狭彦神社を造営し別当寺となり神宮寺に改称し、とあります。この時点が若狭彦神社の実質的な創建かどうか何とも言えませんが、次回は若狭彦神社を見ていきます。

                    若狭探訪 その5に続く
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる