尾張氏の謎を解く その41


尾張氏の謎解きが一旦途切れてから相当な時間が経過してしまいました。主たる理由は方向性の変更によるものです。前回まであれこれ検討した結果、彦坐王(ひこいますのおう、ひこいますのみこ)に率いられた伊福部氏を主力とする遠征部隊は、大和から美濃・尾張に向かうのではなく、丹波国に向かったと判明しました。このため、丹波方面を先に見ておかないと、美濃・尾張の検討に入れないことになったのです。

遠征部隊はまず丹波国(後に分割され丹後国、但馬国、丹波国となる)に向かい、多分一旦大和に戻り、次に美濃・尾張に入ったのでしょう。その傍証になるかは不明ですが、不思議なことに丹後弁と尾張弁には共通するものが多く、既に専門的な調査もされています。具体的には以下のPDFファイルをネットで入力し検索してください。
www.city.kyotango.kyoto.jp/shisei/.../20140804_n114.pdf

従って、今後しばらくは丹波国を中心に探っていくことになります。尾張氏の謎解きストーリーも大和編から丹波編へと移る訳です。丹波編において特に重要なのは彦坐王の動きで、彼が美濃・尾張の前に丹波国に向かったとすれば、そこには必ず美濃・尾張に繋がっていく何らかの必然性があったと推定されます。現時点ではそれがどのようなものなのか不明ですが、この点には留意しつつ検討を進めたいと思います。

丹波編においては、もう一つ重要な点があります。彦坐王の遠征部隊は鏡(=天火明命)を奉じながら進軍したことから、彦坐王の動きと重なるように天火明命が登場してくるはず、と言う点です。従って、丹波編の前半は彦坐王と天火明命を中心に据えて彼らの動きを探っていくことになりそうです。

問題は丹波国に、遠征部隊のリーダーと推定される彦坐王や四道将軍の一人である丹波道主命、伊福部氏などの痕跡が残るだけでなく、豊受大神の降臨伝説や天照大神の元伊勢与佐宮、天火明命の子の天香山命、孫の天村雲命の伝説など数多くの検討対象が存在することです。さらに丹波国は尾張氏の同族とされる海部氏の本拠地でもあります。

これらは彦坐王と天火明命の動きを丹波国で追い、その動きが美濃・尾張に繋がっていくかどうかを検証した後で書き始めることになりそうです。どんな手順で取り組むにせよ、様々な要素が複雑に絡み合っていそうで、一筋縄ではいきません。三筋、四筋の流れをほぼ同時的に検討するのは、実に厄介な作業になりそうです。

なお論証は別途行う予定ですが、彦坐王と丹波道主命は同一人物であるとの前提に立ち、主体は彦坐王として検討を進めます。同一人物と言うよりは、丹波道主命は丹波道(丹波道の道は北海道の道と同様地域を示す)の首長を意味し、彦坐王の役職名と考えるべきでしょう。舛添東京都知事を例に取ると、彼の名前の舛添が彦坐王に相当し、東京都知事と呼ぶ役職部分が丹波道主命に相当すると考えれば理解しやすいと思います。

まあ、彦坐王の名前自体も男である王となり、具体性はほとんどありませんが…。いずれにしても、史料面で丹波道主命と記載ある場合はそう書いたり、丹波道主命(彦坐王)や彦坐王(丹波道主命)にしたりと、表記はまちまちになりそうなので、予めご了承ください。

本シリーズで扱うのは主として崇神天皇の時代の丹波国です。けれども和銅6年(713年)には、丹波国のうち加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡が分割され、新たに丹後国となりました。但馬国は明確ではありませんが、7世紀頃に丹波国から8郡が分割されて成立したようです。

従って今後の記事は、その内容により丹波国と書いたり丹後国と書いたりで一定しない点お含み下さい。ただ、参考史料として「丹後風土記残欠」を使うこと、主な検討地域が丹後国になることから、丹後国の表記が多くなると思われます。

前回で書いたように、「古事記」には彦坐王が崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治のために丹波に派遣されたとあります。従って、遠征部隊はどのようなルートで丹波に入ったのかを、彦坐王の動きから見ていきましょう。(注:「丹後風土記残欠」では玖賀耳之御笠が陸耳御笠と書かれており、こちらの方が書きやすいため、以降は陸耳御笠と表記します)

彦坐王に率いられた東方遠征部隊(実質的には丹波遠征部隊)は、前回の検討からすると、陸耳御笠を討つため大和を進発し、山城国における桂川と鴨川合流点の西側一帯と想定される久我に入りました。久我を冠する地名はこの周辺に幾つもありますし、山城国乙訓郡(現在の長岡京市と向日市の全域、京都市西京区および南区、伏見区の一部)の久我郷だけでなく、鴨川上流部から葛野郡も久我国とされ、かなり広い範囲に及んでいます。久我(陸)に関しては「秦さんはどこにいる? その23」「秦さんはどこにいる? その24」で比較的詳しく書いていますので参照ください。

さて遠征部隊は久我から現在の西京区に入り、山城国と丹波国の境となる老坂峠(老の坂峠)を越えて亀岡市に入ります。かつての亀岡市は、前回で書いたように玖賀姫の出身地・丹波国桑田郡でした。ここには当然彦坐王の痕跡があるはずで、調べたところ亀岡市曽我部町穴太宮垣内1に鎮座する小幡神社が該当しそうです。


小幡神社の位置を示すグーグル地図画像

小幡神社の詳細は、いつも参照させて頂いている玄松子さんの以下のホームページをご覧ください。
http://www.genbu.net/data/tanba/obata_title.htm

四道将軍丹波道主命が崇神天皇の父・開化天皇を祀ったのが当社の起源で、開化天皇の第三皇子・彦坐王と彦坐王の御子・小俣王を配祀した古社とのことです。非常に長い参拝者用の由緒書によれば、「丹波の曽我部町穴太の里に、開化天皇・彦坐王・小俣王を奉斎する小幡神社が創祀されたいわれは、丹波が開化天皇・彦坐王・丹波道主命と密接なつながりを保有していたことに由来する。」とのことで、ストーリーはうまく繋がっていきそうです。

ただ、陸耳御笠は当初山城国にいて、彦坐王の進軍に伴い丹波国桑田郡に後退し、さらに丹波の日本海岸側まで後退していったのかどうかは資料もないので何とも言えません。彦坐王による陸耳御笠の討伐は、山城国とそれに接する丹波国南部の話との説まであります。詳細は近代デジタルライブラリ―で閲覧可能な太田亮氏の著作「丹波・丹後」を参照ください。コマ番号は33、34となります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982140

上記コマ番号からその後の番号には、丹波道主命や彦坐王、海部氏などに関しても詳しく書かれています。豊富な知識を駆使しての王道を行くがごとき記述には圧倒されそうですが、ニッチ志向の酔石亭主は別の視点から書くしかありません。と言うか、太田亮氏の見解を引き写すだけなら何の意味もないことになってしまいます。

それはさて置き、遠征部隊は丹波国に入りさらに北上して日本海の沿岸部にまで至ったと推定されます。ここまでは「古事記」の記事をベースに進めてきましたが、それ以上の情報は記紀にはありません。従って別の史料を参照する必要があります。それが「丹後風土記残欠」です。

「丹後風土記残欠」は、「丹後風土記」の一部が京都北白川家に伝わり、15世紀に僧智海が 筆写したもので信憑性が低いとされています。けれども、内容をチェックしたところ十分に使える史料だと判明しました。

よって、ここから先は「丹後風土記残欠」の記述に沿って見ていきます。記事には虫食いによる欠字や、意味が理解できない個所などもあったので、適宜端折ったり意訳したりしています。酔石亭主の能力不足もありますが、この点はお含み置きください。

           尾張氏の謎を解く その42に続く
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