尾張氏の謎を解く その42


今回からは「丹後風土記残欠」を中心に彦坐王の動きを追っていきます。原文は以下の近代デジタルライブラリ「丹後史料叢書 第1輯 丹後風土記残欠」を参照ください。コマ番号16からとなります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175321

まずは「丹後風土記残欠」(注:以降は基本的に残欠と表記します)で丹後国の全体像を見ていきましょう。残欠によれば、丹後国には五つの郡があり、伽佐郡(元の字、笠)、与佐郡(元の字、匏)、丹波郡(元の字、田庭)、竹野郡、(以前と同じ)、熊野郡(以前と同じ)となっています。残欠にはこのうち加佐郡(注:原文には伽佐郡と加佐郡の両方の表記があり、本記事では加佐郡に統一します)のみについて記載があります。

加佐郡には郷が九つあって、志楽郷(元の字 領知)、高橋郷(高椅)、三宅郷、大内郷、田造郷、凡海郷、志託郷(荒無)、有道郷(蟻道)、川守郷となり、他に餘戸と神戸があります。餘戸(余戸)とは上代50戸に満たないため里を編成できない残余の戸を意味します。神戸は神社領の民戸を意味します。

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加佐郡各郷の配置図。

上記は近代デジタルライブラリ加佐郡誌(大正14年)のコマ番号58より引用しています。デジタルライブラリの加佐郡誌は以下を参照ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020163

図は古代の郷の配置を示していますが、多分大雑把なものでしょう。時代的には和銅6年(713年)4月3日に丹後国が成立し、5月には諸国に風土記の編纂を命じ、郡・郷名に好字を付けさせていますので、この時期の少し後の配置図と考えられます。なお、「和名抄」によれば、加佐郡の郷は志楽、椋橋(=高橋)、大内、田辺(=田造)、凡海、志託、有道、川守、余戸、神戸の10郷となり、三宅郷がない形となっています。そう言えば、残欠にも三宅郷の記事は出てきません。

残欠は基本的に丹後国の地誌であり、その内容は様々ですが、主要テーマは以下の三つにほぼ大別されます。一つは、丹波国に降臨した天火明命に関するもの。二つ目は、丹波国に天下った豊受大神に関するもの。三つ目が彦坐王と陸耳御笠の戦いです。丹波国は元伊勢第一号の笠縫邑を出た天照大神が次に立ち寄った与佐宮のある場所で、酔石亭主の視点からは重要ですが、加佐郡の記事のみ書かれている残欠に記載はありません。但し、豊受大神の関係で与佐宮の名前は出てきます。

驚かされるのは残欠の最初の記述で、当国(丹後国)は往古天火明神等が降臨した地であると書かれています。酔石亭主の仮説では、彦坐王(丹波道主命)に率いられた伊福部氏を主力とする遠征部隊が鏡(=天火明命)を奉じ丹波国に入ったことに起因して、丹波国は天火明神等が降臨した地になった、と理解することになります。

鏡(=天火明命)を奉じるこの遠征部隊の動きが、残欠における天火明命降臨の記事として書かれたと考えれば、丹後国全体に彦坐王と天火明命の網がかぶせられていると言っても過言ではありません。酔石亭主の思惑通りに話が進んでいるように思えわくわくします。でも、それでは話が荒っぽすぎるので、もっと細かく検討を進めます。

と言うことで、残欠の内容を具体的に見ていきましょう。残欠の記事はほぼ東から西に向かう形で書かれており、志楽郷から始まります。各郷の記事は写真三枚分なので、デジタルライブラリの当該部分を撮影した上で以下にアップします。

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一枚目。三枚とも画像サイズを大きくしています。

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二枚目。

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三枚目。

まず彦坐王の動きから見ていきます。最初に彦坐王が出てくるのは、陸耳御笠(くがみみのみかさ)との戦いに関係する以下の部分です。(注:陸耳御笠の素性に関しては非常にわかりにくいものがあり、残欠の検討が終わった後でじっくり考えてみます)

甲岩(かぶといわ)
甲岩は、古老の言い伝えによると、祟神天皇の御代に、当国の青葉山に陸耳御笠という土蜘蛛がいた。人民に害を与えるので、日子坐王が天皇の勅を奉じて討伐に来た。丹後国(と若狭国の境に)至ったとき、凄まじい鳴動と共に忽然として光輝く巨岩が現れ、金甲に似た姿だった。これにより将軍の甲岩と名付けた。その地を鳴生(なりふ)と号した。


青葉山はその山頂部が若狭国と丹後国の境となります。(注:時代によって変遷があります)陸耳御笠の話は丹後国の話なので、位置的には山の西側部分が志楽郷に含まれると考えられます。一方、鳴生は現在の舞鶴市成生となります。位置的には青葉山の北方となり大浦半島の最北端部の岬となります。


舞鶴市成生の位置を示すグーグル地図画像。こちらは凡海(おおしあま)郷に当たります。

上記の内容からすると彦坐王はまず凡海郷の鳴生に行き、続いて志楽郷にある青葉山に向かったと推定されます。(注:「丹後風土記残欠」では日子坐王ですが、引用以外は彦坐王で統一します)

但し、記事の中で彦坐王が青葉山で陸耳御笠と戦った記述は出てきません。となると、この記事は凡海郷とすべきで志楽郷ではないはずです。どうもこの点はすっきりしませんね。残欠によると凡海郷は大宝元年(701年)三月に地震で海に沈んだとされ、丹後国が設置された和銅6年(713年)の時点では存在していないことになります。ところが加佐郡誌の地図からすると、実際には存在しており、悩んだ残欠の編者が志楽郷の中に含めたとも思われます。ここでは彦坐王が最初に出現したのは、凡海郷と志楽郷であるとしておきます。

             尾張氏の謎を解く その43に続く
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