尾張氏の謎を解く その44


前回まで彦坐王(丹波道主命)の動きを東から西に向かう形で追ってきました。凡海郷、志楽郷、高橋郷に続いて今回検討するのは、高橋郷の西隣に位置する大内郷となります。原文は「その42」の写真二枚目を参照ください、爾保崎の項に彦坐王が登場しており、内容は以下の通りです。

爾保崎
爾保と称する理由は、遠い昔、日子坐王が勅を奉じて土蜘蛛を討伐する折に、持っていた裸剣が湖水により錆びた。そこへ鳥が二羽飛んで来て、剣に貫かれた。これにより、錆が消えて元通りになった。よってその地を爾保と呼ぶ。


爾保崎(にほさき)は現在の京都府舞鶴市下安久にある匂崎辺りを指していると思われます。爾保(にほ)は水銀地名と思われ、他にも大浦半島周辺には大丹生、浦入、女布(にょう)、二尾など水銀系と思われる地名が多く見られます。即断は禁物ですが、陸耳御笠の存在と水銀は関係がありそうな気もしてきました。


匂崎の位置を示すグーグル地図画像。

爾保崎の記述は加佐郡大内郷の中に含まれています。けれども、位置的には加佐郡餘戸になると思われます。爾保崎の項は地名由来譚なので次に進みましょう。大内郷の西は田造郷ですが、この郷には彦坐王は登場していません。田造郷の西に志託郷があり、ここでも彦坐王が登場してきます。と言うことで志託郷の記事を掲載します。

志託
志託と称する理由は、遠い昔、日子坐王が官軍を率いて陸耳御笠を討伐するため、青葉山から追ってこの地に至った。陸耳は稲梁の中に潜み隠れた。王が馬を稲梁の中に乗り入れて陸耳を殺そうとした刹那、陸耳はたちまち雲を起こして空中を南へ飛び去った。日子坐王は稲梁を荒蕪(したき、土地を荒らすことを意味する)した。 それで、その地を荒蕪(したき)と言う。


上記に関する原文は写真画像の三枚目を参照ください。志託(荒蕪)は現在の福知山市志高に当たります。


福知山市志高の位置を示すグーグル地図画像。

志託の項からすると、陸耳御笠は舞鶴市下安久から西に向かい由良川沿いの志高にまで逃げ、雲を起こして孫悟空のように南に飛び去ったことになります。実際には由良川を船で上流へと逃げていったのでしょう。次はやや長い文章となります。

川守郷
川守と称する理由は、遠い昔、日子坐王が土蜘( 陸耳や匹女(ひきめ))を追って、蟻道郷の血原に至り、先に土蜘匹女を殺した。それで、この地を血原と言う。このとき陸耳は降伏しようとしたが、日本得玉命が下流から追って来た。陸耳は急ぎ川を越えて遁走した。官軍は楯を連ねて川を守った。…のように矢を発した。(川を守り敵の死体が)流れ去ったのでその地を川守と言う。また官軍の屯所の名を今も川守楯原と言う。その時、一艘の船が忽然と川を降った。土蜘を追って由良の港に至った。土蜘の所在は知れなかった。日子坐王は陸地で礫を拾って占ったところ、陸耳が与佐の大山(大江山)に登ったことを知った。それで、その地を石占と言う。またその船を楯原に祀って船戸神と称した。


記事の内容や筋立てがどうもよく呑み込めません。彦坐王は由良川を遡り川守で陸耳軍と激戦を繰り返し、由良の港がある河口まで追っていったのに、陸耳は大江山に登っていたのでは、ストーリーに矛盾が生じてしまいます。

影武者の動きに惑わされた彦坐王が河口に移動していた隙に、陸耳は大江山に逃げのびたのでしょうか?だとすれば、彦坐王は知恵者の陸耳御笠にまんまと欺かれたことになりそうです。文章通りに読めば、陸耳御笠の軍勢を構成する土蜘の一部が由良の港に逃れ、一方陸耳御笠は大江山に登ったことになります。

川守郷の記事には地名が多く出ているので、具体的に見ていきましょう。蟻道郷の血原に至り、とありますが、蟻道郷は有道郷に相当し、血原は福知山市大江町千原となります。川守は福知山市大江町河守となり、志高からさらに由良川を遡った場所に位置しています。


福知山市大江町千原の位置を示すグーグル地図画像。


福知山市大江町河守の位置を示すグーグル地図画像。

河守の対岸一帯が千原です。楯原は福知山市大江町蓼原となります。河守に隣接した上流部一帯が蓼原です。由良の港は宮津市由良となります。石占(いしうら、石を用いた古代の占い。神社でよくあるおもかる石も石占の一種と思われます)は由良川河口の石浦に比定されます。

意味不明な部分は残りますが、川守郷の各地で彦坐王と陸耳御笠及び匹女との壮絶な戦いがあり、陸耳御笠は何とか窮地を脱していたと理解されます。(注:「勘注系図」の八世孫日本得魂命の注記によると、余社之大山(よさのおおやま、大江山)で、日本得魂命が陸耳御笠を誅したとあります)

残欠の記述は陸耳御笠が大江山に登った時点で終わっています。御笠がその後彦坐王に殺されたのか、或いはさらに遠くへと逃げて行ったのか、残欠を見ただけでは不明となっているのです。その問題は一旦横に置き、残欠で見てきた彦坐王の移動経路は以下となります。

凡海郷と志楽郷―高橋郷―大内郷と餘戸―志託郷―有道郷―川守郷

「丹後風土記残欠」における彦坐王と陸耳御笠の戦いは以上です。それが尾張氏の謎とどう関係するのかと言われそうですが、関係しそうなのは、多分もっと西の方となるはずです。残欠では陸耳御笠が誅殺されたのかどうか明確ではありません。それを知り彦坐王の動きをさらに追いかけるには、別の史料が必要となりそうです。

ところで、四道将軍として派遣されたはずの丹波道主命は一体どこに行ったのでしょう?丹波国での戦闘を担ったのは彦坐王のみで、丹波道主命は出てこないのです。この問題は既に一定の結論を出していますが、再度考察してみます。

基本的に彦坐王と丹波道主命の両者は同一人物と言うのが酔石亭主の見方です。「日本書紀」によると、丹波道主命は四道将軍の一人として丹波に派遣されています。四道将軍とは、崇神天皇の御代に派遣された四人の将軍で、北陸方面へ大彦命、東海へ武渟川別、西道へ吉備津彦、丹波へは丹波道主命が派遣されました。

ところが「古事記」では、吉備津彦に関して第7代の孝霊天皇の御代に大吉備津日子命と若建吉備津日子命の二柱が吉備国に派遣されたとあり、崇神天皇の御代には日子坐王(彦坐王)を旦波国に遣わしたとあります。(注:大彦命と武渟川別は「日本書紀」とほぼ同じ)

「古事記」では丹波に派遣されたのは彦坐王で、「日本書紀」ではその子となる丹波道主命。「丹後風土記残欠」に丹波道主命は出てこない。この相互に矛盾する3点をどう整理すればいいのでしょう?そう、丹波道主命は彦坐王の役職名・称号だったと考えれば、矛盾は一応解消されるのです。既に書いたように、枡添東京都知事の場合、枡添が彦坐王に相当し、その役職名である都知事が丹波道主命に相当するのです。

そうした例がないかあれこれ調べてみると、兵庫県朝来市に鎮座する粟鹿神社の由緒に「第九代開化天皇の第三皇子日子坐王が、四道将軍の一人として山陰・北陸道の要衝丹波道主に任ぜられ、丹波一円を征定して云々」と言った記事がありました。つまり同社由緒では、彦坐王が四道将軍の一人であり、丹波道の主に任じられたとしているのです。この由緒内容は、丹波道主命を彦坐王の役職名・称号とする酔石亭主見解の根拠になりそうです。(注:粟鹿神社の詳細は別途書く予定です)

以上の検討により、遠征部隊を率いた彦坐王は丹波地方を制圧して、同地域の支配者、すなわち丹波道主命と言う役職・称号を得たと確認できました。

           尾張氏の謎を解く その45に続く
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