尾張氏の謎を解く その47


前回まで、「丹後風土記残欠」や海部氏の「勘注系図」を参照しながら、彦坐王と天火明命の動きを探ってきました。ここから先の動きは別の史料を参照する必要がありますが、それに移る前に、彦坐王と常に対立していた陸耳御笠(くがみみのみかさ)の素性を探ってみたいと思います。

陸耳御笠に関しては予想をはるかに超える難しさがあり、様々な可能性を提示するのが精一杯となりそうです。それでも、残欠における彦坐王の動きが全て陸耳御笠と関係している以上、検討しないまま放置することはできません。多少でもこの人物の実像に迫れればと思っています。

まず陸耳御笠の名前を検討します。陸(くが、久我)に関しては、一応の検討が終わっており、山城国にかつてあった地名となります。加えて丹波国桑田郡には玖賀媛(くがひめ)と言う名前の女性もいました。よって陸は山城国のみならず丹波国南部にまで広がっていた可能性があり、太田亮氏は陸耳討伐をこの地域の話としています。詳細は「その41」を参照ください。

耳は一般的に海人系の首長などに用いられる名前です。御笠の御に関してはWikipediaを参照しました。内容は以下の通り。

御(お、おん、み、ご)は、日本語の敬語を作る接頭辞である。皇帝に関係する物事に「御」をつけることで敬意を表すようになった。日本ではより一般的な敬語として使われるようになった。

丹波は海人系である海部氏の支配地域であり、御は敬意を表していることから、陸耳御笠は海部氏の首長の一人であるとも思えてきます。そう割り切ってしまえば簡単ですが、御笠の笠に関しては極めて理解に苦しむものがあります。

以前「若狭探訪 その3」で書いたように、若狭神宮寺本堂の神号掛軸には和加佐比古大神とあり、若狭では(わか・さ)ですが、和加佐の場合は(わ・かさ)で笠が含まれることになってしまい、若狭国の名前に笠(加佐)が関係してきます。

つまり若狭国の名前自体に丹後国加佐郡に繋がる要素があるのです。残欠の加佐郡の項には以下の記載がありました。原文は「その42」の一枚目の写真を参照ください。

伽佐郡
伽佐郡は古くは笠郡の字を使っていた。宇気乃己保里(うけのこほり)と訓んだ。宇気と称する理由は、遠い昔、豊宇気大神(とようけのおおかみ)が田造郷笶原(やぶ)山に留まられて、その恩頼を受けたからである。それ故に宇気と言う。笠は伽佐と訓む。世において誤って、伽佐の己保里と言う。


加佐郡は、かつては笠郡で笠を(うけ)と読むのは豊受大神の(うけ)にちなんでいるとあります。続いて志楽郷の青葉山の項を見ていきます。原文は加佐郡の次にあり、内容は以下の通り。

青葉山は、一山で東西に二つの峯がある。名神(みょうしん)があり、共に青葉神と号している。東峯に祀る神は若狭彦の神、若狭姫の神の二座である。西峯に祀る神は笠津彦神、笠津姫神の二座である。これが若狭国と丹後国の境となり、笠津彦神、笠津姫神は丹波国造、海部直たちの祖先になる。二峯は同じように松柏が多く、秋に至っても色が変じることはない。

さて残欠の甲岩の項によれば、陸耳御笠は青葉山の山中にいました。残欠の青葉山の項によれば、この山に祀られる神は若狭側が若狭彦、若狭姫。丹後側が笠津彦神、笠津姫神で、彼らは丹波国造、海部直の祖となります。青葉山は加佐郡(笠郡)にある山です。これら三つに共通するキーワードがありますね。そう、いずれも同じ「笠」なのです。

上記から陸耳御笠=笠津彦命だと仮定すれば、陸耳御笠は海部氏の一族(別グループ)で加佐郡を本拠にしていたとも考えられます。けれども、大和王権が派遣した遠征部隊に逆らった一族が海部直の祖になれるのか疑問も湧いてきます。一言で海部氏と言っても全国に数多くのグループが存在しており、丹波国においては反抗的だった加佐郡の海人系・陸耳御笠は退治され、穏健派の海部氏は大和王権に忠誠を誓ったと考えればいいことになりますが、どうもすっきりしません。この視点では若狭の存在が欠落しているからです。

と言うことで、若狭の視点からも見ていきましょう。「先代旧事本紀」の国造本紀には笠臣国造(かさのおみのくにのみやつこ)が記載あり、応神天皇の御世に始めて鴨別命の八世の孫の笠三枚臣を封じて国造を定めたとあります。鴨別命の子である小篠は若狭彦神社(鎮座地:福井県小浜市龍前28-7)の社務家・笠(りゅう、かさ)氏の祖とされ、笠朝臣名高の子・節文以降、代々若狭彦神社の社務職を奉じています。笠氏系図は以下を参照ください。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-kasa-wakasa01.html

若狭において、地名のみならず若狭彦神社に関係する氏族に笠氏がいました。さてそこで、陸耳御笠の拠点となる青葉山の東峯の祭神は、若狭彦の神、若狭姫の神、の二座でした。西峯の祭神は、笠津彦神、笠津姫神、の二座となります。

145_convert_20150511074347.jpg
若狭側から見た青葉山。秀麗な山容ですが、東峯、西峯があるようには見えません。

270_convert_20150511074436.jpg
丹後側から見た青葉山。東峯、西峯がはっきり見えています。

東峯、西峯の祭神は共に加佐(笠)と関係することから、笠津彦の名前は若狭彦神社の社務職・笠氏の関連とも思えてきました。既に書いたように、若狭神宮寺本堂の神号掛軸には和加佐比古大神とあり、若狭では(わか・さ)ですが、和加佐の場合は(わ・かさ)で笠が含まれることになってしまい、若狭国の名前自体に笠(加佐)が関係してきます。

けれども、笠津彦命(うけつひこのみこと)の父となる笠水彦命(うけみずひこのみこと)は若狭の影響を受けているにせよ、丹後に関係してきます。時代的に見ても、笠朝臣名高は800年代の人物で笠水彦命と笠津彦命よりずっと新しいことから、笠津彦命の時代とは別の話になりそうです。(注:小篠の時代であれば笠津彦命と重なってきそうです)

よって陸耳御笠は若狭とは関係しないように思えますが、彦坐王の時代においては若狭と丹後の間に明確な境界がなかった可能性もあります。それどころか大浦半島全体が若狭の領域だった可能性さえあるのです。「若狭探訪 その2」において、青海神社の解説板内容を以下のように書いています。

古代の青郷は現在の地域よりもはるかに広く、現在の青郷は元より高浜町の内浦地区、京都舞鶴市の大浦地区をも含み、当神社は若狭丹後国にわたるこの地域の総鎮守の宮であります。

また、Wikipediaにも以下の記載がありました。

大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている。

これらからすると、彦坐王時代の大浦半島はほぼ若狭の影響下に置かれていたと言えるでしょう。「若狭探訪 その4」で、「若狭は御贄を朝廷に献上するだけでなく、水銀の集荷・輸送地であったことになり、その意味で後代の丹後国加佐郡は極めて重要であったと考えられます。」と書きました。若狭小浜は丹後国の大浦半島一帯で産出した水銀の集荷・配送地であり、古代の加佐郡域は若狭の影響下にあったのです。水銀との関連に留意しつつ、次回も陸耳御笠の検討を続けましょう。

          尾張氏の謎を解く その48に続く
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる