近江探訪 その2


前回村山たか女について書きましたが、養女先である現在の精肉店の解説に父親は尊勝院の尊賀上人とあったので、尊勝院をチェックしました。その結果、尊勝院は京都の青蓮院ゆかりのお寺で多賀大社と深い関係を持っていたと判明。こんなところに京都のお寺が出て来るとは、全く驚かされますね。多賀大社との関係部分は尊勝院ホームページより引用します。

尊勝寺の歴代住職は日野家の子息が出家して受け継いできました。そのご縁から、日野家氏寺の法界寺(京都市伏見区日野)の別当職を務めてまいりました。ことに多賀大社との関わりは深く、江戸幕府が開かれて間もない慶長12年(1607)には、時の住職・慈性大僧正が徳川家康公の台命(大命?)を受けて多賀大社の別当職となり、別当寺不動院も兼務し、徳川幕府の外護のもとに多賀大社の復興造営を実施しました。

尊勝院のホームページは以下を参照ください。
http://www.kyoto-info.com/sonshouin/yuisho/yuisho.html

上記を見る限りでは、尊賀上人は多賀大社の別当(神社の管理者)であり、かなりの大物です。神仏に仕えるべき重要人物が花柳界に出入りした挙句、子供ができたので養女に出したなんてあり得ない話です。権力を笠に着ての悪行三昧に、神社の氏子などからクレームが出なかったのでしょうか?

それはさて置き、多賀大社の門前通り(絵馬通り)を歩いていると、ベンガラ塗のように思えるお店が見えて来ました。後ろ側は三階建てとなっています。

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かぎ楼です。江戸期創業の木造三階建て料理旅館です。

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もう一枚。

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通りに面した側。

なぜか通りに面した側は入り口になっていません。ベンガラ塗の壁と言いかぎ楼と言う名前と言い、かつては遊郭ではなかったかと想像してしまう佇まいです。たか女の時代には既に存在しているので、ひょっとしたら尊賀上人はここの一室で花柳界ゆかりの藤山くにと密会したのかもしれません。

かぎ楼は多賀大社御用達の料理旅館だったから、入口は多賀大社の末社である日向神社の参道に面しているようにも思えてきます。などと言う、下衆の勘繰りはほどほどにして、結構奥が深そうな日向神社をちょっと覗いてみましょう。


日向神社の位置を示すグーグル地図画像。

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日向神社。鎮座地は滋賀県犬上郡多賀町多賀604

祭神は天津日高日子火之瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)。式内社・日向(ひむかい)神社に比定され由緒ありそうな神社です。かつては多賀大社の摂社だったのに、現在は末社となっており創建時期などの詳細は不明です。これだけの神社がなぜ詳細は不明なのでしょう?何となく気になるので、調べてみることにします。

まずは、いつも参考にさせていただいている玄松子さんの記事をチェックしました。重要なのは祭神ですが、神名帳考證によれば天日方奇日方命(あめひがたくしひがたのみこと)とのこと。この神は別名が櫛御方命(くしみなかたのみこと)で、子孫の大田田根子は崇神天皇の御代に三輪山・大物主神を祀る祭主となっています。なるほど、日向神社は三輪山が関係しているかもしれず、調査の方向性が見えてきそうです。

三輪山とくれば大神神社で、同社の境外摂社に式内社・神坐日向神社があり、祭神は櫛御方命、飯肩巣見命、武甕槌命となります。簡単なチェックだけで神坐日向神社の社名・祭神が多賀大社末社である日向神社と一致しました。調査の方向性は間違っていないと推定される結果です。

神坐日向神社は奈良県桜井市大字三輪字御子宮に鎮座していますが、本来は三輪山山頂に鎮座する高宮社が神坐日向神社とされ、現在の神坐日向神社が高宮社だとされています。つまり、三輪山山頂の神坐日向神社が奥宮であり、高宮社が里宮のような関係になると思われるのです。

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大神神社。

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三輪駅と三輪山。

以上から、三輪山に鎮座する神坐日向神社が何らかの事情で近江に勧請され日向神社になったと考えられますが、その経緯は不明です。では、どんな事情や経緯が考えられるのか?次はこの問題に焦点を当ててみます。

と言うことで、近江において三輪山と関係のある神社をチェックしてみましょう。例えば多賀大社は近江国三宮とされ、二宮に当たるのが日吉大社です。神社に興味のある方なら誰もが知る日吉大社の西本宮祭神は大己貴神です。西本宮の創建には天智天皇が関係しています。天皇は様々な理由から大和を離れ大津京への遷都を決断。その遷都に当たって大和の三輪山より大己貴神を近江に勧請しました。(注:日吉大社に関しては後の回で書くこととします)

続いて大己貴神が近江に遷座した経緯を見ていきます。日吉大社の摂社に唐崎神社があり、滋賀県大津市唐崎1-7-1に鎮座しています。同社の由緒には以下の記載がありました。

天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神を大津にご勧請された際に、琵琶湖を渡り、この唐崎の地に降り立ったとされており、日吉大社西本宮のご鎮座に大変縁のある場所です。…中略…平安時代にはこの唐崎が「七瀬之祓(しちせのはらい)」の一所として、朝廷で行事を行う際に必ずお祓いを行う場所となり、多くの姫君たちがお祓いをされたことに始まり、古くより女別当社として、特に女性の多くの方々にお参り頂きました。

唐崎神社ホームページは以下を参照ください。
http://hiyoshitaisha.jp/karasaki/


唐崎神社の位置を示すグーグル地図画像。琵琶湖の西側に当たります。

上記から三輪山の大己貴神は船で琵琶湖を渡り唐崎の地に降り立ったこと、唐崎がお祓いの場所でもあることが確認されます。仮に神坐日向神社の祭神・櫛御方命も別の船で同時に琵琶湖を渡ったとすれば、同じ唐崎の地名やお祓いに関連する場所が、琵琶湖の東側で多賀大社から遠くない場所に存在するかもしれません。その筋道を三輪山の大己貴神同様にきちんと描ければ、多賀神社末社の日向神社創建に至る経緯が見えてくるはずです。

そんな視点からあれこれ調べたところ、滋賀県彦根市日夏町4778に唐崎神社が鎮座していました。社名は大津市の唐崎神社と同じですから、この神社が日向神社の元になったのかもしれません。でも、唐崎と日向では社名が違いすぎます。この差異をどうクリアしたものかと思いましたが、驚いたことに同社の由緒によれば本殿は犬上郡の日向神社だとのこと。関係する部分を以下に引用します。

本殿は淡海国四ケ所祓所の一所なり、近江の国犬上郡の日向神社の所在するところなりと伝う。聖武天皇の御宇、天平十三年三月二十日、僧行基、日向山領所在の荒神山に奥山寺を創立するに當り、社殿を唐崎の地に遷し奉りしを初とす。

やや文面の意味が読み取りにくいのですが、唐崎神社は淡海国四ケ所祓所の一所であり、元々は荒神山の山頂に日向神社が鎮座していた。天平13年(741年)行基が奥山寺を創建するに当たり日向神社を山麓の唐崎に遷座させたことから、社名が唐崎神社になった。と言うのが経緯のようです。

唐崎社由緒詳細は以下のホームページにある解説板を参照ください。
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/siga/hikonesi/karasaki/karasaki2/karasaki2.html


唐崎神社と荒神山の位置を示すグーグル地図画像。

また彦根市のホームページにも唐崎神社に関する記載がありました。

行基が奥山寺を創建するにあたり、日向神社をこの地に移したものだといわれています。祭神 天日方寿古神

天日方寿古神とは聞いたことのない神様ですが、多分天日方奇日方命のことでしょう。彦根市ホームページは以下を参照ください。
http://www.city.hikone.shiga.jp/0000002002.html

でも、荒神山山頂に鎮座していた日向神社が山麓の唐崎に遷座して唐崎神社が創建されたなら、多賀神社末社の日向神社は関係なくなってしまいそうです。この問題は難しそうなので、一旦横に置いて先に進みましょう。

ストーリーの流れとしては、667年に天智天皇が大津京へ遷都したのとほぼ同時に、三輪山の大己貴神が大津市唐崎に上陸し、現在の日吉大社がある坂本に鎮座します。一方三輪山山頂に鎮座する神坐日向神社祭神・櫛御方命も、同時期に彦根市日夏町の唐崎に上陸して荒神山に鎮座しました。つまりこの場所こそが日向神社の近江における最初の鎮座地だったのです。

荒神山には荒神山神社が鎮座しており、調べたところ芋づる式に関連情報が出てきました。同社由緒には以下のように書かれています。

天智天皇の時代近江国(現滋賀県)に四ヶ所の祓殿(はらえどの)が設けられました。その四ヶ所の祓殿とは、南三郡(現大津市など)は唐崎、西二郡(現高島市など)は白髭前、北三郡(現長浜市など)は木之本、中四郡(現彦根市の一部・犬上郡・愛知郡・東近江市・蒲生郡)が荒神山であり、今で言う荒神山神社は、犬上・愛知・神前・蒲生四郡の祓殿及び御祈所と定められていました。

詳細は以下の同社ホームページを参照ください。
http://kojinyama.org/

いかがでしょう?時代も天智天皇の頃で、四ヶ所の祓殿の一つが大津市の唐崎であり、もう一つが彦根市の荒神山(唐崎)となり、両者がリンクしていると理解されます。ここまでの検討で、三輪山山頂に鎮座していた神坐日向神社の櫛御方命が近江の荒神山に勧請されて日向神社となり、後に唐崎の地に遷座して唐崎神社になったところまで確認できました。

では一旦横に置いた、荒神山の日向神社(後の唐崎神社)と多賀大社境内の日向神社はどう関係しているのかを検討します。まず三輪山の例で考えてみましょう。三輪山山頂には神坐日向神社が鎮座しておりこれが奥宮と考えられます。そして山麓の高宮社が里宮に相当します。

一方、荒神山の日向神社は山頂に鎮座していたので奥宮となります。三輪山の例から判断すれば、荒神山に鎮座する日向神社の里宮は高宮となります。さてそこで、荒神山から地図を東に見ていくと、驚いたことに高宮の地名がありました。さらに、多賀大社のすぐ近くには高宮池があります。三輪山のおける神坐日向神社(奥宮)と高宮社(里宮)の関係は、荒神山における日向神社(奥宮)と多賀神社における日向神社(高宮で里宮)の関係と全くの相似形となっているのです。


高宮池の位置を示すグーグル地図画像。

以上から荒神山の日向神社が奥宮で、多賀大社の末社日向神社がその里宮になると証明されました。荒神山山麓に鎮座する唐崎神社は多分、里宮の日向神社が多賀大社境内に鎮座した後に、山頂の奥宮である日向神社が遷座したものなのです。その過程で祭神も変わり唐崎神社の主祭神は大己貴神、相殿神は大山咋神となってしまいました。これは遷座に当たって日吉大社西本宮、東本宮の祭神が取り入れられたことによるものと思われます。では全体のストーリーを纏めてみましょう。

667年に天智天皇が大津京へ遷都の折、三輪山の大己貴神を勧請した。大己貴神は船で琵琶湖を渡り大津市唐崎に上陸した。一方神坐日向神社に鎮座していた櫛御方命は彦根市日夏町の唐崎に上陸して荒神山山頂に鎮座し、日向神社(奥宮)が創建された。いつの頃かは不明だが、彦根市高宮町辺りに里宮としての日向神社が創建された。

日向神社(高宮、里宮)は犬上郡において最も格式の高い多賀大社境内地に遷座し、摂社となった。それを証明するかのように多賀大社近くには高宮池がある。(注:高宮池の位置関係からして荒神山から多賀大社境内地に遷座したとも言い得る)

様々な変遷により日向神社の由緒は失われ現在に至った。天平13年(741年)行基が奥山寺を創建するに当たり日向神社(奥宮)が山麓の唐崎に遷座され唐崎神社と称された。と、ここまで書いてきて全く別の可能性が頭に閃きました。多賀大社の現在の祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命です。ただWikiによると、『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。とのことです。

さてそこで、伊勢神宮外宮の別宮に多賀宮(たかのみや)があり祭神は豊受大御神荒御魂(とようけのおおみかみのあらみたま)となっています。外宮のホームページには以下の記載がありました。

『延暦儀式帳』に「高宮一院 等由氣太神宮之荒御玉神也」とみえ、古くは高宮とも称されております。恐らくは小高い丘の上にご鎮座になっていることからそう呼ばれたのでしょう。

外宮の多賀宮に関連するホームページは以下を参照ください。
http://www.isejingu.or.jp/geku_2.html

いかがでしょう?伊勢神宮外宮の別宮である多賀宮(たかのみや)はかつて高宮と称されていた。これと同様に考えると、荒神山に鎮座した日向神社(奥宮)の里宮が高宮であり、それが後になって多賀大社になったとは考えられませんか?多賀大社のすぐ近くにある高宮池の存在はその傍証になりそうです。社名の変遷としては高宮→多可神社(式内社名)→多賀神社→多賀大社になると思われます。

犬上氏は多分この高宮を取り込んで自分たちの祖神を祀ったのでしょう。その上で社名を多可神社に変えてしまったのです。そうなると元の高宮(日向神社)が消滅することになりまずいので、別に高宮の元の名前である日向神社を建てて同じ境内で祀ったのです。

多賀大社の創建時期は不明とされていますが、上記の検討結果を踏まえると、天智天皇による667年の大津京遷都から「古事記」が編纂された712年の間となります。また「古事記」にも「伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀」との記述があり、編纂時点で既に多賀大社の前身が存在していたのは間違いありません。

さらに、奥宮の創建から里宮の創建に至るには一定の年月が必要と考えられるので、多賀大社創建は600年代の終わりから700年代初頭に絞られそうに思えます。天武天皇13年(684年)以降の犬上氏は犬上朝臣(いぬかみのあそみ)を名乗るようになったので、多分この頃以降に多賀大社が創建されたのでしょう。

多賀大社の創建時期にまで踏み込んだところで日向神社の探索は終了です。すぐに書き終わると思っていたら、予想以上に長い記事となってしまいました。ここまでのスケールに発展したのも大きく想定を超えるものです。日向神社の撮影も門前町のついでに一枚撮っただけです。こんなことならもっと多く写真を撮影し、関係する各所も訪問すべきでしたが、今となっては後の祭りですね。

それはともかくとして、日向神社創建の経緯を何とか筋が通るように復元できたので、これを元に新たな由緒でも作成いただけたらと思います。次回は多賀大社を紹介する予定ですが、記事を書く気力も失せたので写真だけにしようなどと思っています。

              近江探訪 その3に続く
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