尾張氏の謎を解く その55


神谷神社から2㎞ほど南の式内社・村岳神社(むらおかじんじゃ)には、神谷神社と関係する伝説が残されていますので、ついでに村岳神社にも行ってみましょう。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

社名の表示はありません。画像の真ん中の空き地と木々がある辺りとなります。鎮座地は京丹後市久美浜町奥馬地村岡201。祭神は思兼神で、相殿神として倉稻魂命と武甕槌命が祀られています。

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神社の鳥居と境内。

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解説板。

石仏の伝説 熊野郡誌より
伝説によるに村岳神は太刀宮の臣下にして、四道将軍旦波道主命山陰巡見に際し、前途の 武運を祈らんが為め、出雲国なる八千矛神を勧請し給ふ。此の時臣下に命じ社地を選定せ しめらる。村岳神其の良地を祕す。依て神谷 に社地を定め給ふ。後、此の事露見し、太刀 宮憤り剣を抜いて追ふ。臣の神逃れて小字「 イシボトケ」に至り、大石の陰に隠る。太刀 宮斬らんとして誤て石を斬る石分れて二となる。臣和を乞ふ両神大根を下物として和睦の 宴を開かる。其の地を「ナカラガヒ」と言ふ。 蓋し「仲直り」の意ならん。
以下略

追記、平成六年当区の土地改良事業により 馬地谷小字「イシボトケ」より、村岳神社境内にこの石を移したものである。

上記由緒を簡略に書けば以下の通りです。

村岳神は太刀宮の神(丹波道主命)の臣下で、太刀宮の神が出雲国の八千矛神を勧請する際社地の選定を命じられたが、良地を秘して神谷に社地を定めた。このことが露見し太刀宮の神は剣を抜いて村岳神を追った。太刀宮の神は石仏の大石に隠れた村岳神を斬ろうとしたが誤って大石を斬り石は二つに分かれた。村岳の神は和を乞い、和睦の宴が開かれた。

随分人間臭い神様の振る舞いですが、丹波道主命(彦坐王)は出雲国にまで出向き出雲国に鎮座している八千矛神を勧請したとの記述は神谷神社と同じです。

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大石です。

確かに太刀で割られたように見えます。けれども、人が隠れるような大きさではありません。前回で書いた八幡神社の磐座の方がもっともらしく見えるのですが…。

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社殿。

神谷神社と村岳神社を見て回り、「但馬故事記」との関連で明らかになった部分があります。

まず丹後国熊野郡に鎮座する神谷神社の社殿は出雲地方に多い大社造りであり、由緒によれば丹波道主命(彦坐王)が出雲国より八千矛神などを勧請しています。また村岳神社の由緒にも四道将軍旦波道主命山陰巡見に際し、出雲国なる八千矛神を勧請し給ふなどと記載ありました。これらから丹波道主命(彦坐王)は出雲に行ったと確認されます。一方「但馬故事記」においても、彦坐王(丹波道主命)は西に向かって移動し、出雲にまで出向いていました。

つまり、彦坐王(丹波道主命)の動きに関して丹後国鎮座の二つの神社に見られる由緒と、但馬にて書かれた「但馬故事記」の内容はほぼ一致しているのです。偽書とされる「但馬故事記」ですが、他の記事はともかくとして、少なくとも彦坐王(丹波道主命)に関しては一定の信憑性があると言えるでしょう。だとすれば、検討のための史料として使っても問題ないはずです。

面白いのは、但馬国における四道将軍は彦坐王なのに、お隣の丹後国熊野郡では丹波道主命となっており、両国で明確に分かれている点です。ところが丹後国加佐郡について書かれた残欠では彦坐王の活躍しか見られません。

なぜこんな違いが生じるのか不思議でならず答えを探ってみたいとも思いましたが、酔石亭主の力量では無理なようです。いずれにしても、「但馬故事記」には一定程度の信憑性があると確認できたので、次回は同史料に書かれた彦坐王の動きに戻ります。

           尾張氏の謎を解く その56に続く

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