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尾張氏の謎を解く その60

尾張氏の謎を解く
06 /21 2015

前回まで「丹後風土記残欠」と「国司文書 但馬故事記」の記述に基づき、かなりしつこく彦坐王と天火明命の動きを追ってきました。なぜ彦坐王の動きをここまでしつこく追ってきたのか?それは彦坐王=丹波道主命であること、天火明命は彦坐王の遠征部隊が奉じる鏡であることなどを明らかにするためでもありました。

しかし、実は他にもっと大きな目的があったのです。彦坐王の行動が美濃や尾張に繋がるためには、是非とも因幡国へ向かってもらわなければならず、そのために彼の動きをしつこく追っていた次第です。「但馬故事記」によると、幸いにも彦坐王は因幡国に赴いていました。因幡国は出雲国に行く途中の国なのでそれも当然ではありますが…。

彦坐王が立ち寄った諸寄(現在の美方郡新温泉町諸寄)は鳥取市に近くなっており、因幡国の加露の港(現在の鳥取市賀露)は正に鳥取市内となります。因幡国には何があるのでしょう?この部分は実に重要なので、彦坐王と関連する歴史を伝えていそうな神社から見ていきます。

因幡国における最も重要な神社は、当然のことながら同国一宮となる宇倍神社で鎮座地は鳥取県鳥取市国府町宮下651となります。鳥取市賀露と宇倍神社の距離は10㎞もありません。これだけ近いのであれば、彦坐王は宇倍神社の鎮座地付近にも立ち寄ったと推定されます。そして宇倍神社一帯は伊福部氏の本拠地でした。それらと関係する同社祭神について以下Wikipediaより引用します。

『神祇志料』は祭神を『国造本紀』にある因幡国造の祖先、彦多都彦(ひこたつひこ)命とするが、延暦3年(784年)撰述の『因幡国伊福部臣古志』にある伊福部氏の祖先、武牟口(たけむくち)命とする説もあり…中略…『因幡国伊福部臣古志』には伊福部氏の第16世、伊其和斯彦宿禰(いきわしひこのすくね)が因幡国造となり、成務天皇から賜った太刀等を神として祀ったとあるのが当社の創祀かもしれない。

宇倍神社ホームページは以下を参照ください。
http://www.ubejinja.or.jp/new-about/

宇倍神社の鎮座地は稲葉山山麓となり、岐阜県岐阜市にも稲葉山(金華山)があって山麓には美濃国三宮となる伊奈波神社(いなばじんじゃ)が鎮座しています。間違いなく何かが繋がっていそうですが、その検討はもっと後の回となります。


宇倍神社鎮座地を示すグーグル地図画像。

国庁跡もすぐ近くにあることから、宇倍神社鎮座地の地理的重要性が理解できます。

宇倍神社祭神とされる因幡国造の祖先・彦多都彦命は彦坐王の子となります。(注:一般的には同社祭神は武内宿禰)彦多都彦命は丹波道主命と同一人物ともされ、酔石亭主の視点では彦坐王=丹波道主命なので、この三者は同一人物となります。ここからも彦坐王は、因幡国における伊福部氏の拠点・宇倍神社付近に立ち寄ったと確認されます。(注:彦坐王の時代に宇倍神社が存在していた可能性はほとんどないと思われます)そして、宇倍神社の祠官家は代々伊福部氏が務めているのです。

いかがでしょう?正にどんぴしゃりですね。彦坐王に率いられた伊福部氏を主力とする遠征部隊は大和を出て山城国経由丹波国に進軍。陸耳御笠を誅殺し、お礼参りに出向いた出雲国の帰路、因幡国を訪問したのです。

これに起因して、宇倍神社の祭神が彦多都彦命(彦坐王)となり、祠官家は代々伊福部氏が務めることとなりました。因幡国造が彦多都彦命(彦坐王)の子孫なのか、伊福部氏の系統なのかは大きな問題ではありません。因幡国造に関する混乱は両者が共に因幡国に入った事実を反映したものだったのです。

ただ、彦坐王に率いられた伊福部氏が因幡国に入る前に同国には既に製鉄の民である伊福部氏がいたと推定されます。(注:当時は伊福部氏と言う名前など存在せず、単に製鉄炉を吹く民だったのでしょう)

彦坐王は伊福部氏を主力とする東方遠征部隊を率いて美濃から尾張に入ったと当初は書きました。同時に、そう考えるには大和における伊福部氏の存在が少なすぎるとの疑問も提示しています。この疑問はここで解けたことになります。そう、彦坐王率いる遠征部隊は、因幡国の伊福部氏(吹く民)を部隊に加えて、一旦大和に帰還した後、美濃・尾張に向けて進発したのです。

吉田家本「神名帳」には因幡国の宇倍神社に関して、竹内宿祢(武内宿禰)垂迹の地であると書かれ、さらに彼は当国宇部山、大和葛城堺、美濃国不破ノ関、の三ヶ国に同日同時に顕現したと書かれています。これはとても奇妙な伝説ですが、どう考えればいいのでしょう?

この謎は武内宿禰を伊福部氏に置き換えれば簡単に解けてしまいます。彦坐王に率いられ大和葛城を出た伊福部氏は丹波国から因幡国にある宇倍神社の地を目指して進軍し、同地の伊福部氏を伴って美濃国の不破に向かったのです。

つまり、因幡国宇部山、大和葛城堺、美濃国不破ノ関、の三ヶ国に同日同時に顕現したのは、武内宿禰ではなく伊福部氏だった。そう考えれば、上記の奇妙な伝説は整合性のあるものとなるのです。

この考え方に沿うような史料がないか調べたところ、「因幡誌」(寛政7年、1795年)は伊福部氏第十四代の武牟口命を武内宿禰と読み違えた可能性があるとしており、この指摘は酔石亭主の見解を補強する材料となっています。

出雲国は日本における製鉄や鍛冶の始まりの地であり、そのお隣が因幡国となれば、この地に伊福部氏が多数いてもおかしくはありません。「各務原市史」は「和名抄」、「日本古代人名事典」などを参考にした伊福部(五百木部など他の表記も含めて伊福部とする)の全国分布を記載しており、美濃が111例、出雲が36例、因幡が28例で、それ以外は各数例にとどまっています。

でも、なぜ本家本元の出雲国や因幡国は少なく、美濃国に圧倒的な数の伊福部氏がいるのでしょう?答えはもう出ていますね。伊福部氏の本拠地であった因幡国から(多分出雲国からも)相当数の伊福部氏が引き抜かれ、彦坐王の遠征部隊に加えられたから因幡国(と出雲国)の人数が減り、美濃国は増えているのです。

因幡国造に関しては因幡氏(因幡国造氏)がありますが、これは桓武天皇の寵愛を受けた因幡国造浄成女の時代以降の話と考えられます。彼女は宝亀2年(771年)に因幡国造姓を賜り同年に因幡国造に任じられました。

因幡国における伊福部氏をさらに見ていきます。鳥取市古郡家字西土居161には中臣崇健(なかとみたかたけ)神社が鎮座しており、伊福部氏が深く崇敬していた神社だったとのこと。当社は邑美郡唯一の式内社で、「因幡国伊福部臣古志」によれば法美郡の伊福部氏の第26代都牟自臣(つむじおみ)の子の二人が邑美郡に分家して奉仕しているとのことです。伊福部氏は郡領として奉仕していることから、彼らが中臣崇健神社を崇敬するのは当然のこととなります。(注:この部分は白水社の「日本の神々」を参照しました)同社詳細は以下を参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/kochou_2005/e/be092b1f3777382f265c4ce95fc71782

上記ブログにもある程度書かれていますが、同社の近くに位置する古郡家一号墳は平面形態が畿内地方の王陵クラスの古墳と類似しており、副葬品の鏡は特殊な形態を持ち、同種のものは奈良県橿原市の新沢千塚500号墳から一面出土しているのみで、さらに丹後地方との関係を示す円筒埴輪を伴っています。因幡国最大の古墳が畿内と丹後との関係を物語っているのは、彦坐王との関係がその背後にあると見るしかありません。

鳥取市岩吉には伊和神社が鎮座しており、祭神は大己貴神で天照太神、素盞嗚尊が合祀されていますが、「神名帳考証」は祭神を彦坐王としています。この地名、神社名、祭神はとても気になります。後で何か関連が出てきそうな気もしますが…。

伊福吉部徳足比売(いふきべいおきべのとこたりひめ、和銅元年(708年)没)は伊福部都牟自の娘(采女、別の説もあり)で文武天皇の時代に異例の出世を遂げ、没後宇倍神社背後の稲葉山に葬られました。遺骨を収めた骨蔵器は重要文化財に指定されています。

いかがでしょう?因幡国一宮の宇倍神社は伊福部氏の神社と言っても過言ではありません。また、その他の様々な例から見ても同国における彼らの存在感は極めて高いものがあったと理解されます。

以上の検討を踏まえると、因幡国に来た彦坐王は同国の伊福部氏を遠征部隊に加え、一旦大和に帰ってから美濃尾張に向かったことになります。これで基本的な流れは固まりました。

と言うことで、美濃方面へ移動したいところですが、既に書いたように丹後国には海部氏や豊受大神、天照大神の元伊勢、笛吹連関連の人物、伊福部氏の存在などまだまだ多くの検討すべき事項が残っています。狭い範囲内に様々な要素が有機的に絡み合い、どこから手を付けていけばいいのか悩ましい限りです。

酔石亭主の視点では、彦坐王は伊福部氏を主力とした遠征部隊を率いて、丹波国に来たことになります。その考えが正しいとすれば、当然丹波国には伊福部氏の痕跡が残っているはずです。どこに伊福部氏の痕跡が見られるかは比較的簡単に調べられるので、手始めに伊福部氏から検討に入ることとします。

            尾張氏の謎を解く その61に続く
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酔石亭主

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