尾張氏の謎を解く その64


伊福部氏系神社を検討した前回で既に、初期海部氏の本貫地があるとされる川上谷川流域にまで足を踏み入れました。海部氏と伊福部氏。彼らはどんな関係を持っているのでしょう?尾張においても海部郡内に伊福部神社が鎮座しており、海部氏と伊福部氏は一定の関係を持っているように見え、その構図が丹後でも当て嵌まりそうな気配です。

いや、丹後における構図が遠く尾張にまで持ち込まれたと考えるべきで、海部氏、伊福部氏、尾張氏はいずれも祖神を天火明命としていることがその背景にあったと思われます。ともあれ、川上谷川流域には海部氏の痕跡が数多く見られると推定されるので、それらを探索する必要があります。

久美浜町は北近畿タンゴ宮津線の久美浜駅一帯(神谷神社のあるエリア)と、甲山駅付近から南に川上谷川が流れる流域一帯の二つのエリアに分かれます。いずれも丹波道主命(彦坐王)の影響が色濃く出ていますが、川上谷川流域は特に重要な場所となりそうです。


両地域の大雑把な位置を示すグーグル地図画像。

地図画像に海士(あま)公民館とあることから、この一帯がかつての海部氏の本貫地と理解されます。けれども、川上の庄や川上谷川の名前から判断できるように、川上谷川流域一帯一帯は丹波道主命(彦坐王)と極めて関係の深い川上麻須の拠点となり、一方久美浜町海士(あま、かつての海部里)が海部氏の拠点となっています。これらからすると、川上谷川流域の主たる豪族は川上麻須のように思えてきます。この一帯に海部氏の痕跡が数多くあるのかやや不安になってきました…。


久美浜町海士の位置を示すグーグル画像。

画像から海士の範囲が意外に狭いと理解されます。一帯は東西を山に挟まれ、その中心を川上谷川が流れ、南北に長い谷戸地形のような場所です。かつては海か湿地だったと想定される田んぼや背後の山を除けば、海士はほぼ一つの集落分の大きさしかありません。そこが海部氏の拠点だとしたらあまりにも小さすぎるのではないでしょうか?もちろん古代と現代をそのまま比較はできないのですが…。

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川上谷川です。画像サイズを大きくしています。

背後の山が幾重にも重なり、手前の田園は広々として実に気持ちのいい光景です。

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川上谷川から見た海部の里(海士)。

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海士(あま)の案内板。

海士一帯はかつて熊野郡川上の庄海部の里と呼ばれており、正しく初期海部氏の本拠地でした。海部の里には矢田神社が鎮座していますが、こちらはもう少し後の回で検討します。

気になるのは、既に書いたように丹波道主命が川上麻須(かわかみます)の子川上麻須郎女(かわかみますろめ)を妻としている点です。川上の庄が海部氏の拠点なら丹波道主命(彦坐王)の妻は海部氏になるはずです。ところが妻は川上麻須の子であり、しかも二人の子である日葉酢媛命は垂仁天皇の皇妃となっています。

丹波の支配者となった丹波道主命(彦坐王)に繋がったのは海部氏ではなく川上麻須。川の名前や川上の庄の地名も川上麻須の関係で、海部氏の本貫地は海士の狭い地域に限定される。上記からすると、川上谷川流域における海部氏の存在感はさほど大きくないように思えてきます。この厄介そうな問題をどう考えればいいのでしょう?海部氏は一旦横に置き、まずは当地の有力者である川上麻須の検討から進めるしかなさそうです。

「丹後舊事記」には、川上麻須郎(川上麻須)は当国熊野郡川上の庄須郎の庄に館を造る、開化天皇より崇神、垂仁の朝に至る。とありました。(注:「丹後舊事記」は天明年間(1781年~89年)に其白堂が編纂し、文化7年(1810年)年に小松国康が加筆したもので、近代デジタルライブラリで閲覧できます)

「丹後舊事記」は近代デジタルライブラリのコマ番号22から始まります。詳細は以下を参照ください。川上麻須郎はコマ番号31に出てきます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1175321

また、川上麻須郎は将軍道主の命と共に當國において熊野郡川上の庄に伊豆志禰の神社、丸田の神社、矢田の神社、三島田の神社を祭る。とも書かれています。これらの記事からも、川上の庄(久美浜町)においては丹波道主命(彦坐王)と川上麻須の存在感が大きい点、両者は密接な関係にある点が読み取れます。

川上の庄に含まれる須郎の庄には川上麻須の館があるとのこと。早速行ってみましょう。須郎の庄がどこになるのかが問題ですが、川上谷川の上流部に久美浜町須田と言う地名がありました。須郎と須田とくればこの場所に館があったのでしょう。


久美浜町須田の位置を示すグーグル地図画像。

地図画像にある野村機械の野の辺りに周辺の案内板が立っていました。

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案内板。画像サイズを大きくしています。

案内板の右端中央の新庄の少し左に現在地の表示があり、その少し上に川上麻須館跡と書かれています。それにしても周辺一帯は古墳が多いですね。これだけでも川上の庄の重要性が見て取れますが、ともかく館跡方面に行ってみます。

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横穴古墳かも知れない穴があります。

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こちらは閉じられていません。中を覗くと古墳のように思えます。

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衆良神社(すらじんじゃ)の石碑と鳥居。地図画像で703と表示ある辺りの南の山に位置します。

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境内に向かう石段と鳥居。

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拝殿。

由緒内容は以下となります。原文は近代デジタルライブラリの「京都府熊野郡誌」コマ番号263を参照ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925932/2

衆良神社 無格社 川上村大字須田小字東側鎮座祭神不詳。
按ずるに河上摩須を祀れるものの如し。 由緒 式内小社にして、延喜式には衆良(モロヨシ)神社とあれどスラの仮名なるべく、地名須田と音相近し。丹後一覧記には垂仁天皇の朝の勧請と伝ふ、所在に就ても諸書異説あれど信憑するに足らず。大字須田は河上摩須居住の地にして、小字下山は其の館跡なりといひ、古来平民の此山に居住するを忌む。又殿垣、オノミヤ(王の宮か)などの地名ありて、此処を館跡なりともいへど、下山の方正しきが如し。河上摩須は丹波道主王の外舅にして、上代地方の豪族たりしなり。祭神を按ずるに當国式社考に河上摩須良とあり、良は摩須郎女の良にて正しくは河上摩須なり、恐らくは真に近きが如し。

衆良神社の鎮座地は京丹後市久美浜町須田天王谷132で、祭神は河上摩須となっています。川上麻須は川上麻須郎とも書き須郎が衆良に転じて社名になったのかもしれません。「京都府熊野郡誌」には大字須田は河上摩須居住の地にして、小字下山は其の館跡で、古来平民はこの山に居住するのを忌むとあることから、衆良神社のすぐ近くに彼の館があったのでしょう。

「丹後舊事記」の記述や川上麻須が関与した神社の配置を見る限りでは、川上の庄の全体が川上麻須の支配地と読めてしまいます。さらに久美浜町にある多くの神社が川上麻須の勧請によるもので、一方丹波道主命(彦坐王)の勧請となるのが、川上庄甲山村の熊野神社、神谷村の神谷神社、太刀宮大明神、意布伎神社などとなります。以上から、川上の庄(久美浜町)の支配者は川上麻須と丹波道主命(彦坐王)と言っても過言ではありません。

つまり初期海部氏にとって本貫地であるはずの川上の庄には、なぜか海部氏系神社がほとんどないことになるのです。海部氏の系図には天火明命の14世孫に川上真稚命(かわかみまわかのみこと)なんて名前も出てきます。川上真稚命は丹波道主命や川上麻須と同一人物との説もあるようですが、彦坐王の時代より遅すぎますし、疑問に思えます。

川上氏が海部氏の一族でないとすると、熊野郡川上の庄海部の里にいる海部氏は、川上氏の支配地のほんの一部を間借りしているような状態になってしまいます。久美浜町(川上の庄)における海部氏の検討に入ったつもりが、調べていくにつれて川上氏になってしまいました。次回は、川上麻須や丹波道主命創建の神社をいくつかピックアップして見ていきましょう。

          尾張氏の謎を解く その65に続く
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