尾張氏の謎を解く その66


今回は海部氏系と思われる神社を見ていきましょう。川上谷川を遡ると久美浜町海士に至ります。ここは川上の庄海部の里であり、初期海部氏の本拠地とされ、矢田神社が鎮座しています。鎮座場所からして海部氏の神社と思われますが、そうでないかもしれません。はっきりさせるために、早速行ってみます。


鎮座地を示すグーグル地図画像。海士のほぼ中心の谷間を登った場所に位置します。

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鳥居。

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参道の巨木。根に連なる部分が薄い板のようになっています。

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矢田神社社殿。

祭神は建田勢命で和田津見命、武諸隅命が配祀されています。建田勢命は天火明命の六世孫ですから海部氏の関係と思われます。けれども「丹後舊事記」の矢田神社の項には垂仁天皇の朝、麻須郎によって勧請されたとあり、海部氏の拠点内に鎮座する神社であるにもかかわらず川上麻須が登場していました。祭神や鎮座地に関しては、矢田神社。海部里矢須田邑。祭神 大宇賀大明神 豊宇気持 延喜式小社とあり、豊受大神らしき(しかし微妙に異なる)神が祭神として記載されています。

もっと詳しく知るために近代デジタルライブラリの「京都府熊野郡誌」を参照します。コマ番号は241となります。内容は以下の通り。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925932/2

矢田神社 式内村社 海部村大字海士小字宮ノ奥鎮座
祭神 建田背命。相殿 和田津見命、武諸隅命。
由緒 式内社にして其の創立最も古し、按ずるに海士の地は往古神服連海部直の居住地にして、館跡を六宮廻(ロクノマハリ)といふ。海部直は丹後の国造但馬国造等の祖にして、扶桑略記にも丹波国熊野郡川上庄海部里為二国府一とあり、されば海部直の祖たる建田背命及び其御子武諸隅命和田津見命を斎き祀れるも、深き由緒の存する処にして、また其の子孫の祝として代々仕へ来れるも、縁由する処を知るに足る。而して口碑の伝ふる処に依れば、元矢須田に鎮座ありしが、中世現地に移転せりといひ伝ふ。さればにや古来橋爪海士両所の氏神として尊崇し来れる処なり。

由緒の概要を現代文にします。

海士(あま)の地は遠い昔から神服連海部直の居住地であり、館跡を六宮廻(ロクノマハリ)と言う。海部直は丹後国造、但馬国造等の祖で、扶桑略記にも丹波国熊野郡川上庄海部里は国府であると記載あり、海部直の祖である建田背命とその御子武諸隅命、和田津見命を祀るのも、深い由緒が存在する。しかしながら、言い伝えによれば元は矢須田に鎮座していたが、中世になって現地に移転したと伝えられている。だから古来より橋爪と海士の両所の氏神として尊崇されてきたものである。

上記由緒だけで様々な考察が必要となりそうです。神服連海部直云々の記述は後の回で検討するとして、海部里が国府だったとするのはやや理解に苦しみます。海部直は丹後国造(多分丹波国造の誤り)の祖で居住地が海部里だから、熊野郡誌は自動的にここを国府と推定したものと思われます。また祭神に関しては「丹後舊事記」と「熊野郡誌」では全く異なっています。

由緒の「而して口碑の伝ふる処に依れば、」までは海部氏との関係を強調しているようですが、それ以降はこれに反してと言いたげな記述で、元は矢須田に鎮座していたと続きます。上記から矢須田邑は現在の橋爪で、久美浜高校の南側一帯となり、かつてはこの辺りに矢田神社が鎮座していたことになります。


矢須田邑(現在の橋爪)の位置を示すグーグル地図画像。

矢須田村の地名から旧鎮座地は須田である可能性も浮上します。仮に矢須田村が須田であれば須郎の庄(里)が該当します。須郎の庄は川上麻須の本拠地であり、既に書いたように矢田神社は川上麻須が勧請したものとなるので、矢須田村=須田の仮説も多少の根拠が出てきます。

「丹波舊事記」の川上麻須郎の項には、将軍道主の命と共に當國において熊野郡川上の庄に伊豆志禰の神社、丸田の神社、矢田の神社、三島田の神社を祭る。との記事もあります。

三嶋田神社は鎮座地が久美浜町金谷で、川上麻須の本拠地となる京丹後市久美浜町須田天王谷132に鎮座する衆良神社(すらじんじゃ)よりさらに南の川上谷川上流部となります。丸田神社も既に書いたように川の河口部に鎮座しており、流域全体を川上氏が押さえていたことになります。なお、衆良神社に関しては「その64」にて書いていますので参照ください。

ここまで見た限りでは、川上谷川流域はやはり川上麻須の支配地のようです。それを証するかのように、「丹後舊事記」は熊野郡の延喜式竝小社11座の内、7座までを川上麻須の勧請としていました。海部氏はどこに行ってしまったのでしょう?

少し話がそれたので矢田神社に戻ります。同社の社名に関係しそうな矢田部氏は物部氏の系統であり、「新撰姓氏録」には以下の記載がありました。

左京 神別 矢田部連 - 伊香我色乎命の後。
河内国 神別 矢田部首 - 神饒速日命六世孫の伊香我色雄命の後。


物部氏の「先代旧事本紀」は矢田部造の遠祖を武諸隅命としており、彼は矢田神社祭神の一人でもあります。他の例からも探っていきましょう。京都府京丹後市峰山町矢田に鎮座する矢田神社の祭神は矢田部氏の祖とされる伊香色雄命で、物部氏が関係します。また、与謝郡野田川町石川矢田4626 には矢田部神社が鎮座しており、祭神は伊香色男命です。ちなみに、相殿で祀られる和田津見命は安曇族の神となります。

一方で、海部氏の「勘注系図」には矢田神社と関係しそうな大矢田宿禰や大矢田彦命などの名前も登場します。「丹後舊事記」(コマ番号32)は大矢田宿禰に関して以下のように記載しています。

大矢田宿禰
人皇十三代成務天皇の臣下即位四年甲戌諸国に立長置稲置神服連の府跡海部の矢須の里を国府とす此代葛野浦日村味鎌麿を朝子長者と號くと倭国史に傳見えたり。本朝歴史伝に曰く大矢田宿禰は成務、仲哀、神功の三代に仕て神功三韓征伐の後新羅に留り鎮守将軍となる新羅毎年八十艘の貢を入れる。


矢須田が上記では矢須になっています。矢須が正しいのなら須田とは関係しないことになりそうです…。それはさて置き、「丹後舊事記」における大矢田宿禰の記事では、大矢田宿禰が海部の矢須の里を国府にしたと読めます。矢田神社に関係するのは名前からしても大矢田宿禰のように思えるのですが、いかがなものでしょう?

ただ、神功皇后の三韓征伐に従軍したのは武振熊(たけふるくま)命で、彼は和珥臣(和珥氏)の遠祖とされています。Wikipediaには以下の記載がありました。

『新撰姓氏録』右京皇別真野臣条では、「彦国葺命(天足彦国押人命三世孫) - 大口納命 - 難波宿禰 - 大矢田宿禰」と続く系譜が記されるが、武振熊が「難波根子」と称されたことから、このうちの「難波宿禰」との関連が指摘される。

上記からすると難波根子武振熊命の子が大矢田宿禰になりますが、「勘注系図」には難波根子武振熊も登場しています。「勘注系図」ではこの辺りの時代が実に錯綜しており、酔石亭主の手には負えません。注記の部分は参考になる記述もありますが、海部直の最初である海部直都比(つひ)以前の系図は全く参考にならないと思われます。

さてはて、矢田神社は川上麻須(川上氏)、海部氏、和珥氏、物部氏、安曇族、豊受大神のどれと関係している神社なのでしょう?書いているうちに訳がわからなくなってしまいました。もっと詳しく書き込んでいこうとも思いましたが、同社に関連した内容や系図を分析していくと収拾のつかない事態となりますので、この辺で打ち止めにしておきます。

でも、なぜこれほどややこしくなっているのでしょう?問題の根本原因には「勘注系図」がありそうです。「勘注系図」が古代史の異なる要素のほぼ全てを取り込んだことに起因して混乱を極めたのではないでしょうか?

実は「勘注系図」に関する知識を仕入れるため、金久与一氏著の「古代海部氏の系図」(学生社)の旧版と新版、籠神社発行で現宮司海部光彦氏著の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」、前宮司海部穀定(よしさだ)氏著の「元初の最高神と大和朝廷の元始」(桜楓社)を事前に読んでいました。

ところが「古代海部氏の系図」旧版に書かれた「勘注系図」が新版ではほぼ省かれていたり、旧版の系図と「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」に書かれた海部直氏歴世系図(多分整理し直して書いたもの)が異なっていたりと、第三者には何が何だか訳が分からないことになっています。写真で部分的に掲載された系図には、一に云うの文言や祭神の亦名が極めて多く書き込まれており、それが混乱の元になっているようです。

「元初の最高神と大和朝廷の元始」は膨大な知識を駆使して560ページ以上もぎっしりと書かれていますが、豊受大神と天照大神の元伊勢与佐宮は籠神社奥宮の真名井神社であるという主張を最初から100ページにわたり書き込んでおられました。(注:この問題は後の回で検討します)そして肝心の系図に関してはほとんど言及されていません。系図に関してはむしろネット情報が詳しいように思えます。

いずれにしても、「勘注系図」に書かれた内容をそのまま一般図書で公開していただかない限り、きちんとした分析はできないことになります。これは是非関係者にお願いしたいと思っています。以上、矢田神社に関してあれこれ書いてきましたが、現状ではよくわからないと結論を出すしかなさそうです。

残念ながら、海部の里の中心部に位置する神社を探索したにもかかわらず、海部氏の存在を明確にできないまま終わってしまいました。「勘注系図」には神様も含む数多くの重要人物が登場している一方で、海部氏の本貫地における彼らの存在感はあまりにも薄く、実に不可解と言うしかなさそうです。

海部氏の系図と現時点における海部氏の実態との間には大きな落差があり、今後どう進めていけばいいのか難しいところです。けれども、海部の里には他にも海部氏の神社があるので、次回も彼らの痕跡を探してみましょう。

           尾張氏の謎を解く その67に続く
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