尾張氏の謎を解く その70


前回で丹波の謎の核心部が近くなったと実感しました。すぐにも現場に駆け付けたいところですが、慌てず急がずじっくり進めたいと思います。笛連王の記事にはまだまだ重要な内容が含まれていますので、その部分を以下に再度掲載します。

笛連王。日本古事記神服海部の亙の子なり母は節名節媛と云大日本根子彦国牽尊の尊(孝元天皇)奉仕父の府跡を領す與佐の比治の山麓笛原を府とす。

既に書いたように、海部氏第81代宮司の海部穀定氏は「元初の最高神と大和朝廷の元始」において豊受大神と天照大神の元伊勢与佐宮は籠神社の奥宮・真名井神社であると100ページもの枚数を費やして断定されています。


真名井神社の位置を示すグーグル地図画像。

地図画像にある傘松公園から見た天橋立は絶景です。

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天橋立。

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股のぞきして見る天橋立。実際は画像を反転させただけですが…。

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冠島沓島遥拝所。

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天火明命が降臨したとされる冠島。

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解説板。画像サイズを大きくしています。

天橋立に関しては後の回で詳しく書きます。さて、海部穀定氏の主張の最も大きな根拠は与佐郡の地名は与佐宮に由来するもので、他の候補地は与佐郡に含まれないという点にあり、ここから与佐宮は真名井神社鎮座地以外にないと断定されています。酔石亭主は豊受大神が降臨したのが伊去奈子嶽(磯砂山)である以上、その山麓一帯に与佐宮があったはずと考えます。問題はこの一帯が与佐郡ではなく丹後国丹波郡に含まれていることです。

磯砂山一帯が丹波郡であり与佐郡ではないのなら、海部穀定氏の主張が正しいことになります。けれども、丹波郡や与佐郡の郡域は丹波国から丹後国が分立した後に定められたと思われ、それ以前は範囲が異なっていたかもしれないし、そもそも崇神天皇の時代にこのような行政区画があったとは思えません。一般的に言えば、郡の施行は701年の大宝律令以降となるはずです。

さてそこで、笛連王の記事をよく読んでみると「與佐の比治の山麓笛原を府とす」と書かれていました。與佐とは与佐であり比治の山は磯砂山(と周辺一帯の山の総称)を意味しています。従って、磯砂山と久次岳に挟まれた平地一帯も与佐に含まれることになりそうです。

他の例も見ていきましょう。「丹後舊事記」の咋石嶽(久次岳)の項には、「此地は往昔與佐郡の内なりしを和銅六年国造の後丹波郡と成る咋村の後の山をいふ」とありました。読みやすい形にした現代文では、「久次岳は、遠い昔与佐郡に含まれていて和銅6年に丹後国が分立した後丹波郡となった咋村の後ろの山を言う」となります。久次岳の位置関係は前回の磯砂山を示す地図画像を参照ください。

これらの記事からすれば、磯砂山と久次岳に挟まれた平地一帯が、かつては与佐郡内であったと考えて間違いなさそうです。以上から、分国前の磯砂山と久次岳に挟まれた平地一帯は与佐郡であり、与佐宮がそこあったとしても問題はないと思われます。これで海部穀定氏が強く主張される根拠はほぼ消えたと言えるでしょう。

なお、「日本書紀」の雄略天皇22年には「餘社郡」の地名が見られ、7世紀に丹波国の与射評が設置されているのは木簡により確認され、評の設置は大化5年(649年)あるいは白雉4年(653年)となります。

不思議でならないのは、なぜ海部穀定氏がこれほどまでに元伊勢にこだわるのかという点です。「勘注系図」において実在が疑われる18世か19世孫辺りまではさて置いても、海部直の名が初めて付いた海部直都比(つひ)の時代は6世紀頃と想定されます。

その時代から海部氏は自分たちの祖先を陵神社で祀り、648年からは真名井神社にて豊受大神を祀り、719年の丹後一宮・籠神社創建後は祖神天火明命を祀り続け現代にまで至っているのです。彼らの歴史は気が遠くなるほど長く、誰もが敬意を表せずにはいられないと思います。だからこそ海部氏の系図は国宝に指定されたのでしょう。つまり籠神社が元伊勢与佐宮であろうとなかろうと、その格式の高さや価値は変わらないのです。

ここまで与佐郡の範囲について考察してきましたが、郡名だけでは与佐宮所在地の根拠にはなりません。さらに追及するため「丹後舊事記」を再び参照します。

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「丹後舊事記」の記事。

倭姫世紀但波の國興佐小見比治眞名井ヶ原に坐す但波道主命
永井信濃守宮津府志増補に曰く和銅の国分後此の地丹波郡と成る、比治眞名為と(本ヶ村今の五ヶ村の事)の間に府の岡と云所有是則将軍道主の館跡也道主御饌都の神を信仰の事は咋石ヶ嶽の頂に半面四方の大岩有石の面に宇気持身死し形あり是を崇て神と祭りて数多の女君神仕をなさしめ
…以下略。

倭姫世紀、丹波国与佐小見比治眞名井ヶ原に坐す丹波道主命
永井信濃守宮津府志増補に、この地は和銅の国分後丹波郡になったとある。比治真名井と(本箇村今の五箇村の事)の間に府の岡と言うところがある。これは将軍道主の館跡である。丹波道主命が御饌都(みけつ)の神を信仰されることは、咋石ヶ嶽(現在の久次岳)の頂に半面四方の大岩があり、石の面に豊受大神の死形があり、これを崇めて神として祀り、数多の女君に神仕をさせ
…以下略

出だしの部分が「倭姫世記」とあることから、この記事は天照大神の元伊勢与佐宮にも関係してきそうです。その後には、丹波国の与佐小見比治眞名井ヶ原に坐す丹波波道主命、と続いています。この原文は「倭姫世記」にあり、…坐道主の後には、「丹波道主命の子である八乎止女(やおとめ)の奉斎する御饌津(みけつ)神。止由気皇太神(とゆけおおかみ、豊受大神)乎」と続きます。

これは「倭姫世記」に、雄略天皇の21年に倭姫命の夢の中に天照大神が現れて、一人では安心して食事もできないので、丹波国の与佐小見比治眞名井ヶ原にいる丹波道主命の子である八乎止女が奉斎する御饌津神、豊受大神を私の国に呼んでほしいと神教えされた、と記載ある部分を「丹後舊事記」が引用したものです。

御饌津神(=保食神、うけもちのかみ、以降は保食神に統一します)は食物を司る神様のことで、他にも幾つかの別名があり、「倭姫世記」には亦名倉稲魂是なりともあります。「丹波道主命の子である八乎止女」は、実際には丹波道主命の子ではなく、地元で保食神を祀っていた巫女たちと考えられます。「丹後舊事記」に数多の女君に神仕をさせ…と記載されているところからもそう理解されます。

一方「その56」で、天照大神は彦坐王の軍勢に護られて移動していた、との推測を書いています。それを前提として現実的に考えれば、丹波道主命(彦坐王)と共に五箇村に入った天照大神(八咫鏡を奉じる豊鋤入姫命一行)を饗応したのが、これら地元の巫女たちとなるのです。天照大神を饗応したのが契機となって、保食神を祀る地元の巫女たちは豊受大神に変容したのです。

「倭姫世記」の三十九年壬戌には、「但波の吉佐宮(余社宮)に遷幸しこの年に豊宇介神 が天降って(天照大神に)御饗を奉る。」との記事が見られ、上記の内容とも整合してきます。巫女たちの饗応と豊宇介神(豊受大神とは表記が微妙に異なる)の饗応では違うと思われるかもしれません。

けれども、豊受大神(実際には豊受大神ではなく保食神)はこの時点より遥か以前に伊去奈子嶽に降臨(実際には久次岳に降臨)している訳ですから、崇神天皇の39年に天照大神を饗応したのは、保食神を祀る巫女たち(=八乎止女、=豊宇介神)とならざるを得ないのです。

この部分は実にややこしいのでもう少し説明を加えます。「丹後舊事記」の上記記事には、久次岳にある大岩の面に宇気持(うけもち、保食神のこと)の死形があって、これを神として多数の女君(巫女)が仕えると書かれています。

ここから、豊受大神(実際は保食神)の降臨地は伊去奈子嶽ではなく、伊去奈子嶽を遥拝する久次岳の麓となります。死んだはずの保食神が崇神天皇の39年に天照大神を饗応するなど不可能で、話をきちんと整合させるためには以下の経緯を補足する必要があります。

「倭姫世記」三十九年壬戌の記述は、久次岳で死んだ宇気持(保食神)を祀る巫女が当地に遷幸された天照大神を饗応したことを意味します。この保食神を祀る巫女が八乎止女であり、丹波道主命(彦坐王)に護られて比治の里に入った天照大神を饗応したことが契機となって、祀る立場だった八乎止女が祀られる立場に変容し、豊受大神となりました。八乎止女の後継の巫女たちは、引き続きその豊受大神を祀ったと考えられます。

よって、とてもややこしいのですが、巫女たち=八乎止女=豊宇介神(豊受大神)となるのです。豊宇介神の名前が豊受大神と微妙に異なるのは、天降って天照大神に御饗を奉る段階では、豊宇介神が豊受大神そのものではなく保食神を祀る巫女であることによります。そして、天照大神を饗応することが契機となり豊受大神に変容しているので、変容前段階の名前を豊受大神とはできず微妙に変えられているのです。

このことは熊野郡に鎮座する各神社祭神の名前にも反映されており、「丹後舊事記」では熊野神社の祭神が大膳職豊宇気持命、豊宇賀能咋命となり、矢田神社は大宇賀大明神、豊宇気持、衆良神社では豊宇気持命、意布伎神社では大御気都姫命となっている点からも確認されます。

川上の庄にこれだけ豊受大神的な名前の神が祀られているのは、丹波道主命の妃である川上麻須郎女一行や海部氏が地元に戻った折に持ち帰り勧請したからと思われます。同様に、海部氏の手で五箇から天橋立近くに勧請されたのが真名井神社ではないかと想像します。まあ、現段階では単なる想像の域を出ませんが…。

それはともかく、五箇における巫女たちの存在を上記のように理解すれば、豊宇介神(巫女、八乎止女、豊受大神)が崇神天皇39年に天照大神を饗応しても不可解な話ではなくなります。ここまでを時系列的に見ていきます。

遠い昔伊去奈子嶽に保食神が降臨した(実際には久次岳の麓)→保食神が死んで久次岳の岩に死形が残った→保食神を巫女たち(八乎止女)が祀った→巫女たちは崇神天皇の御代に遷幸した天照大神を饗応した→それを契機に巫女たちが祀る立場から祀られる立場の豊受大神に変容した。天照大神を饗応した巫女たちは豊受大神の前身であり、且つ保食神を祀っていたので保食神要素が色濃く残る豊宇介神や豊宇気持神と言った名前になった。

巫女たちが一人の豊受大神に変容するのはおかしな気もしますが、八乎止女を8人の巫女の集合体と考え、それが豊受大神に変容したと考えたいと思います。けれども個々の巫女は豊受大神そのものではなく、川上氏や海部氏が熊野郡に戻った際に同行して、豊宇気持神などとして祀られた、或いは祭祀を司ったものと思われます。どうにもうまく整理して書きにくいのですが、これはひとえに酔石亭主の力量不足によるものであり、ご了承ください。

保食神、巫女(八乎止女)、豊受大神の関係は混乱を招きやすいので、それぞれの立ち位置を後の回でさらに詳しく整理・検討してみます。

以上から、丹波道主命(彦坐王)が五箇村に来た点、豊受大神と天照大神の元伊勢与佐宮に丹波道主命(彦坐王)が関与している点もほぼ明らかになりました。


峰山町五箇の位置を示すグーグル地図画像。

与佐宮に関して別の角度からも見ていきます。与佐宮のあった場所の名称は比沼(比治)真名井であり、海部穀定氏はこれを天橋立の北側に鎮座する奥宮・真名井神社に比定しています。真名井神社境内の石碑に眞名井神社 豊受大神元津宮ナリとあり、匏宮、与佐宮など幾つかの古名の後に一云 比沼真名井 とあることからもそれは確認され、比沼真名井=与佐宮となるのです。

.酔石亭主はまだ場所の特定までできていませんが、比沼(比治)真名井は五箇村(現在の峰山町五箇)周辺のどこかにあると考えています。つまり、名称自体はどちらも同じで、比定地が異なっている状態となっているのです。さてそこで、「丹後舊事記」には以下の記載がありました。

倭姫世紀但波の國興佐小見比治眞名井ヶ原に坐す但波道主命
永井信濃守宮津府志増補に曰く和銅の国分後此の地丹波郡と成る、比治眞名為と(本ヶ村今の五ヶ村の事)の間に府の岡と云所有是則将軍道主の館跡


「倭姫世記」は比治眞名井ヶ原と丹波道主命を、「丹後舊事記」は比治眞名井ヶ原と五箇村、丹波道主命を結び付けています。つまり比治真名井にある与佐宮は、五箇村と丹波道主命が結び付いていなければならないのです。それは、ここまで書いてきた流れを見ても明らかです。

五箇村には丹波道主命の館までありますが、奥宮・真名井神社には五箇も丹波道主命が同地に赴いた伝承や館跡もありません。従って、真名井神社は五箇村にあった与佐宮の伝承を海部氏が大化4年(648年)に持ち込んで創建したものと考えるべきでしょう。第二次元伊勢与佐宮ですね。真名井神社の祭神が豊受大神的な名ではなく豊受大神そのものであるのは、大化4年まで時代が下り、神が豊受大神に整理・集約されたためかもしれません。

また「丹後舊事記」には、但波の國興佐小見比治眞名井ヶ原に坐す但波道主命とあるので、比治眞名井ヶ原が元伊勢与佐宮であるなら、丹波道主命の館を与佐宮に比定すべきと言うのが論理的帰結になりそうです。まあ、場所の特定は論理だけでは不可能なので、現地で実地検証するしかなさそうですが…。

いずれにしても、五箇村は丹波国時点において与佐郡内にあり海部穀定氏が主張されるように丹波郡ではなかったことや上記の検討結果などから、五箇村が元伊勢与佐宮所在地になる可能性が高そうです。

但し、伊勢神宮の実質的な創建は持統天皇から文武天皇の時代にかけてのことと考えられ、600年代の終わり頃と推定されます。これに対し海部氏が豊受大神を勧請して真名井神社を創建したのは大化4年(648年)であり、伊勢神宮よりも早くなっています。真名井神社に続く籠神社の創建も719年ですから、伊勢神宮創建よりほんの少し遅れるにすぎません。伝説的な部分を横に置き実質面で考えれば、真名井神社は元祖・元伊勢与佐宮と言い得るかもしれません。

また1300年以上もの長きに亘り、海部氏が奥宮真名井神社と籠神社において神々を祭祀してきた事実だけを取り上げても、同社は比類ない歴史と格式を備えた神社と言えるのです。

「丹後舊事記」の記事に戻ります。その中で問題になるのが、「比治眞名為と(本ヶ村今の五ヶ村の事)の間に府の岡と云所有是則将軍道主の館跡也」と書かれた部分です。文面通りに解釈すると、比治眞名為(本ヶ村今の五ヶ村)の間に府の岡があって、丹波道主命の館跡があるとなるのですが、「の間に」の文章からすると比治眞名為と五箇村の間に府の岡があってそこに丹波道主命の館跡があると考えるべきでしょう。この問題は現地訪問の上再度考えてみることにします。

「丹後舊事記」には別の元伊勢も書かれています。「その67」の二枚目の写真を参照ください。ここには倭姫世記云々の記事の後に豊鋤入姫命の項があり、崇神天皇6年とか、美濃国笠縫邑とか書かれており、かなり間違いが多いと思われます。それらはさて置いて、記事には天照大神を加佐郡の神守里内宮邑に移して4年間奉斎したとの記述が見られます。別の元伊勢与佐宮伝説となりそうですが、この点は後の回で検討します。

次の倭姫尊の項には、天照大神を天橋立で4年間奉斎し、これが與の宮(与佐宮)で、宮津府志に、今の文殊堂の跡也と記されている、などとあります。文殊堂とは天橋立にある智恩寺(ちおんじ)のことです。この寺のホームページは以下を参照ください。
http://www.monjudo-chionji.jp/

もちろんこのホームページに元伊勢与佐宮のことなど何も書かれてはいません。全くややこしいのですが、これら別の元伊勢与佐宮問題も後できちんと整理したいと思います。

ここまでを簡単に纏めます。丹波道主命(彦坐王)は川上の庄で娶った川上麻須郎女を伴い、鏡(天火明命)を奉じる伊福部氏、笛吹連、海部氏などの軍勢を率い、天照大神(八咫鏡)の鎮座地を求める豊鋤入姫命の一行を護りながら、海部の里から豊受大神が降臨した元伊勢与佐宮の地である五箇村へと向かったことになります。丹波道主命(彦坐王)の動きにほとんど全ての要素が絡んでいると理解され、これらの流れからしても、元伊勢与佐宮は五箇村にあったと考えるしかありません。

長い検討の結果役者もほぼ出揃い、全体がうまく整合しながら、丹波における謎の核心部へと続く流れが見えてきました。「丹後舊事記」の笛連王と倭姫世記の記事はさらに詳しく検討すべきですが、現場の状況と併せて進める必要があるので後に回し、彦坐王(丹波道主命)の動きに沿いつつ312号線を移動していきたいと思います。

            尾張氏の謎を解く その71に続く

注:海部氏が関係する部分になって記事の難度が飛躍的に増してきたようです。今回分だけでも四苦八苦して書き上げました。この先、丹波の謎の核心部に入ればさらに難度が増し、ストーリーを練り上げるのに時間がかかりそうです。なので本シリーズは一旦お休みして、しばらくの間お気楽記事を書くことにします。
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