尾張氏の謎を解く その69


「その67」において、「豊受大神はどこから勧請されたのでしょう?現時点では明確にできないものの、その場所こそが豊受大神と天照大神の本家本元・元伊勢与佐宮になると推定されます。」と書いています。よくよく考えてみれば、この問題には一つのヒントがありました。それが「丹後風土記残欠」の最初に見られる記事で、豊受大神は当国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に降臨したと書かれています。

神は山に降臨するのが一般的ですが、これは象徴的な意味でそうなっている可能性もあり、実際には山の麓の、例えば山を遥拝できるような場所に降臨したと考えるべきでしょう。だとすれば、豊受大神は伊去奈子嶽の麓のどこかから海部氏によって奥宮真名井神社の地に勧請され、それが大化4年(648年)だったと考えられます。その考え方で正しいとするには、海部氏が伊去奈子嶽の麓にいたことを証明しなければならず、少なくともその可能性を示唆するような史料が必要です。

海部氏が648年前後に伊去奈子嶽の麓に来たとして、その時代は道の整備もある程度進み、比較的楽に現地へ赴くことができたでしょう。しかし、地元で祀られていた神様を突然奪うようにして別の場所へと勧請するのは、そう簡単ではありません。

多分海部氏は、648年よりもっと以前に伊去奈子嶽の麓へ向かっており、地元民とも一定の信頼関係を持った上で豊受大神を真名井神社の地に勧請したはずです。そうした推測の根拠となりそうな記事が「丹後舊事記」にないかチェックしてみます。

「丹後舊事記」で海部氏が居を移した記事がないか探してみると、笛連王の項に参考となりそうな内容が出てきました。記事からすると海部氏の関連ですが、この人物は名前からしても大和編に登場した葛木坐火雷神社の笛吹連と関係しそうに思われます。記事の内容は前回の一枚目の画像の中にあるので、以下に書き出します。

笛連王。日本古事記神服海部の亙の子なり母は節名節媛と云大日本根子彦国牽尊の尊(孝元天皇)奉仕父の府跡を領す與佐の比治の山麓笛原を府とす。順国志に曰く比沼真名井ケ原の辺五ケの庄本ケの邑に砂山と云高山有麓に磯砂山笛原寺と云真言宗の伽藍あり和哥名所志に笛の浦と記す山中に海部の名有の名所とす是笛連が館跡なり。

笛連王は神服連海部直の子で、母は節名節媛と言う。孝元天皇に奉仕して父の府後を領し、与佐の比治の山麓笛原を府とした。順国志には比沼真名井ケ原の辺り五箇の庄本箇の村に砂山(磯砂山)と言う高山があって、麓に磯砂山笛原寺と言う真言宗の伽藍がある。和哥名所志に笛の浦と記されている。山中に海部の名があり名所とする。これは笛連王の館跡である。

この記事には実に重要な情報が数多く含まれているので、じっくり見ていくこととします。笛連王は第八代・孝元天皇の時代の人物だと書かれていますが、この点には疑問もあります。神服連海部直は前回で書いたように天火明命の六世孫・建田勢命になり、その子が笛連王となります。しかし、海部氏の系図の中にこの人物は出てきません。笛連王は、名前からしてもまず間違いなく葛木坐火雷神社の笛吹連に関係しています。彼らの祖は天香山命で、伊福部氏や尾張氏、海部氏と同じ流れの中にいます。

葛木坐火雷神社の由緒には、崇神天皇の御代の十年建埴安彦が兵を挙げ、大彦命は笛吹連櫂子(かじこ、かじし)等を率いて建埴安彦と戦い、櫂子の放った矢が安彦の胸を射抜き賊軍は降伏したとあります。櫂子は笛吹連の祖とされ父は六世孫の建多析命となり建田勢命の兄弟ですから、基本的には笛吹連の祖櫂子と笛連王は同時代の人物となっています。

これらからも、笛連王は笛吹連系の人物であり、伊福部氏などを主力とした彦坐王(丹波道主命)の遠征部隊に同行したと理解されます。伊福部氏も大和では笛吹連の近所にいたと推定され、同行する契機にはなりそうです。

後代になって笛連王が海部氏として扱われたのは、海部直の祖である建田勢命が笛吹連の祖櫂子の父・建多析命と兄弟だったからではないでしょうか?そうした関係のみならず、川上の庄に入った彦坐王(丹波道主命)が海部氏の一部を遠征軍に組み入れ、祖先神からすると同族とも言える笛吹連のメンバーに加えたと考えれば、笛連王が海部氏として記載されたことの説明は付くと思います。

一方笛連王の記事には、「山中に海部の名があり名所とする。これは笛連王の館跡である。」との記載もありました。この記事から海部氏は他の軍勢と共に「比沼真名井ケ原の辺り五箇の庄本箇の村」に入ったものと推察されます。上記の検討により、海部氏が伊去奈子嶽の麓に行ったことの証明は一定程度できたものと思われます。

従って、川上の庄に入った丹波道主命(彦坐王)は川上麻須の女である川上麻須郎女(かわかみますろめ)を娶り、彼女と共に伊福部氏や笛吹連、海部氏を従えて、記事にある「比沼真名井ケ原の辺り五箇の庄本箇の村」に入ったことになります。

では、五箇の庄本箇の村はどこにあるのでしょう?もちろんこの村は伊去奈子嶽の山麓でなければなりませんが、場所は海部氏の動きから推理できそうです。海部氏は大化4年(648年)に豊受大神を天橋立のすぐ北側にある現在の真名井神社鎮座地に勧請しました。従って彼らは、川上の庄海部の里よりも天橋立により近い場所へと移動しているはずです。地図で確認してみましょう。


グーグル地図画像。

地図で見ると178(178号線)と記載ある辺りが海部の里に相当し、312号線で天橋立まで行けることになりそうです。天橋立は与謝野町と表示ある「町」の右上辺りとなります。画像を拡大して確認ください。次に海部の里一帯の地図画像をチェックします。


久美浜町海士(海部の里)一帯の地図画像。

いかがでしょう?久美浜高校付近は丹波国国府があったとされる場所です。そのすぐ南にある312号線を東に向かうと天橋立に至ります。よって、その途中に五箇の庄本箇の村があり、笛連王の館と海部の名がある場所が存在すると考えられます。またその場所には砂山(磯砂山)があるはずです。地図で調べてみましょう。


磯砂山を示す地図画像。

磯砂山と久次岳に挟まれた狭い平地をほぼ東西に312号線が走っています。磯砂山の山名を調べたところ、(いそすなやま)ではなく(いさなごやま)でした。何と、この山こそが豊受大神が降臨したとされる伊去奈子嶽だったのです。ようやく丹波における謎の核心部へと続く道が見えてきました。

           尾張氏の謎を解く その70に続く
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