尾張氏の謎を解く その76


丹波の謎の核心部はさすがに難しく肩が凝ります。今回は丹波道主命の館跡を探しに行ってみましょう。酔石亭主は豊受大神と天照大神の元伊勢与佐宮所在地を、比沼麻奈為神社ではなく丹波道主命の館と推定しています。その意味でも今回はかなり重要な探索となるはずです。ここで「その70」の記事を参照しますが、書いた時点からかなりの時間が経過していますので以下に再掲します。

「丹後舊事記」の記事に戻ります。その中で問題になるのが、「比治眞名為と(本ヶ村今の五ヶ村の事)の間に府の岡と云所有是則将軍道主の館跡也」と書かれた部分です。文面通りに解釈すると、比治眞名為(本ヶ村今の五ヶ村)の間に府の岡があって、丹波道主命の館跡があるとなるのですが、「の間に」の文章からすると比治眞名為と五箇村の間に府の岡があってそこに丹波道主命の館跡があると考えるべきでしょう。この問題は現地訪問の上再度考えてみることにします。

比治の里に入り磯砂山側の調査を終え、ようやく「その70」で書いた現場を探索する段階に至ったようです。酔石亭主は「丹後舊事記」の記事から、比治眞名為と五箇村の間に府の岡があって、そこが丹波道主命の館跡だと思っています。この考えが正しいかどうか、「丹後舊事記」の内容を現在の地名区分から検証してみましょう。まず、五箇村に関して峰山町五箇とグーグル地図に入力します。次に比治眞名為は比沼麻奈為神社所在地を含むと考え、峰山町久次で入力します。そして両者の間に位置しそうな場所を探ってみます。

峰山町五箇はちょうど五箇小の全体を含みそこから南に広がり、磯砂山にまで至ります。峰山町久次はその北側に広がり久次岳までを含みます。五箇と久次に挟まれた狭い部分(五箇小のすぐ東)は峰山町二箇の一部分となります。従って、現在の二箇辺りに府の丘があったのではないかと推定されます。


五箇小付近を示すグーグル画像。

小学校の東側の丘に神社らしき建物が見えています。グーグル画像を拡大いただくと一目瞭然ですが、この場所は久次岳の尾根が半島のように平野部にせり出した突端に位置しています。ここからは平地部分のほぼ全体を見渡すことができ、かつ丘の上に当たるので防御面でも優れた場所と言えます。元伊勢外宮を主張する藤社神社と比較しても、こちらの方が断然元伊勢としての優位性を持っていると言えます。

もちろん峰山町久次において元伊勢外宮を主張しているのは比沼麻奈為神社であり、丹波道主命の館ではありません。この問題は一旦横に置き取り敢えず現地に行ってみましょう。

272_convert_20150729083526.jpg
丘の前から撮影。

道路で分断されていますが、この丘は画像左手の五箇小へと続いていたことになります。

266_convert_20150729083637.jpg
丘へと続く石段。 途中に何やら解説板がありそうです。

267_convert_20150729083706.jpg
解説板。

文字がかすれて読みにくい。正確ではないかもしれませんが、以下に書き出します。

船岡
船岡神社境内のこの岡を、昔から船岡と呼んでいます。
ここは、四道将軍、丹波道主命の館であったので「府の岡」と呼ばれていたのが、後に「船岡」に変わってきたのであろうといわれています。
丹波道主命は丹波比古多々須美知能宇斯王命(たにはのひこたたすみちのうしのみこと)いい、彦坐王(崇神天皇の弟)の子であつて、崇神天皇即位十年に四道将軍に任ぜられ、山陰道に下り、丹波の小見(こみ)、比治(ひじ)の真名井原(まないはら)に館をつくりました。
ここで、食物の神の豊受大神をまつって、八乙女(やおとめ)に奉仕させるとともに、里ごとにも、豊受大神を祭らせて、善政を行いましたので、人々はその徳を慕い丹波道主命を尊称していたといわれています。
この付近一帯から横穴が発見され、須恵器、土師器、金環、鉄刀、鉄鏃等が出土しました。


正しくこの場所が丹波道主命(彦坐王)の館跡でした。解説板の文字はかすれているものの、非常に重要な内容が書かれています。まず比治真名井が元伊勢与佐宮であるのは既に確定していますが、その場所は異説がありました。けれども、今までの検討から比治真名井は五箇と丹波道主命が関係付けられていると判明しています。

そしてこの場所が五箇であり(注:現在の行政区画では五箇の隣の峰山町二箇)、比治真名井であり、丹波道主命(彦坐王)の館もある以上、彼の館こそが元祖・本家本元・元伊勢与佐宮所在地となるはずです。丹波道主命(彦坐王)に護られ天照大神を奉じてこの地に入った豊鋤入姫命の一行も、彼の館にいるのが最も安全となります。

「倭姫世記」には「崇神天皇の39年に但波の吉佐宮に遷幸し、四年間奉斎。この年に豊宇介神が天下って(天照大神に) 御饗を奉る。」と言った記事が見られます。これは宇気持神を祀る八乙女が天照大神(豊鋤入姫命一行)を饗応することを意味し、その記述に整合し得る場所は、比治の里にある丹波道主命(彦坐王)の館以外に見当たらないのです。この問題を別の視点からも見ていきます。

上記の解説板には「丹波の小見(こみ)、比治(ひじ)の真名井原(まないはら)に館をつくりました。」と書かれています。一方「倭姫世記」には、大略以下のような記事が見られました。

雄略天皇の22年、倭姫命の夢の中に天照大神が現れ、「私は一所にのみ座しているので大変苦しく、食事を摂るのも安らかではありません。だから、丹波の国の与佐の小見の比沼の魚井原にいる道主(丹波道主命)の子・八乎止女の奉斎する御饌都神止由居太神(みつけかみ とゆけのおおかみ)を私の国に迎えて欲しい」とお告げになられました。

解説板と「倭姫世記」の記事の両方を突き合わせて読めば、本家本元・元伊勢与佐宮所在地は丹波道主命(彦坐王)の館であると確認できますね。

また解説板には、丹波道主命(彦坐王)は「ここで、食物の神の豊受大神をまつって、八乙女(やおとめ)に奉仕させる」と書かれています。この記述は、豊受大神を祀る元伊勢与佐宮が丹波道主命(彦坐王)の館にあり、それを八乙女が担っていることを意味しています。解説板には八乙女が丹波道主命の娘としていないので、酔石亭主の考え通り、八乙女は地元の巫女たちと考えていいでしょう。(注:但し、海部氏の女たちも祭祀を担った可能性がある)

ただ、解説板で「食物の神の豊受大神をまつって」とある部分は微妙な問題があります。酔石亭主の視点では、丹波道主命(彦坐王)は、天照大神(八咫鏡)の鎮座地を求める豊鋤入姫命一行を護りながらこの地に入りました。

そして豊鋤入姫命一行を饗応したのが宇気持神=保食神を祀る八乙女たちです。従って、本来は食物の神の宇気持神をまつって、と書くべきでしょう。これが後代になり、「倭姫世記」などで、豊宇介神(とようけのかみ、これも微妙に豊受大神とは異なっている)が天下って天照大神を饗応したと言う話に変形していったのです。

269_convert_20150729083744.jpg
船岡神社の社殿。

268_convert_20150729083827.jpg
解説石板。画像サイズを大きくしています。

271_convert_20150729083859.jpg
船岡山(府の丘)から見た磯砂山。

「その70」で「出雲国風土記」の船岡山の項に、「郡役所の東北一里一百歩にある。阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)が曳いて来て据えた船が、すなわちこの山である。だから船岡山という。」と言う記事があると書きました。同じ船岡山であるのが少し気になります。

大変面白いのは、写真から、古代だけでなく現代もこの一帯が比治の里の中心地になっていると理解されることです。地図画像でチェックしたところ、周辺には郵便局、駐在所、保育所、ウッディいさなご(峰山町林業総合センター)などが見られました。

         尾張氏の謎を解く その77に続く
スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる