尾張氏の謎を解く その79


前回と前々回の検討の中で、月読命が丹波の謎の核心部に関係する重要な神として登場してきました。この神はなぜそんなに重要なのか?それは、月読命が保食神を斬り殺すことが最初の契機となって、豊受大神にまで繋がってきたと考えられるからです。

またそうであるだけに、月読命のありようや、なぜ保食神と関係してきたのかなどの部分で非常に難しい謎が出てきそうな気配です。神様だけでなく、比沼麻奈為神社の社殿にも理解しがたい部分がありました。それら全てが密接に絡み合っているとしたら、とてつもなく大変な謎となりそうです。どこまで謎に迫れるか何とも言えませんが、ともかく検討に入りましょう。

前回でアップした拝殿と本殿の写真を参照ください。屋根の両端にX字状の部材が天に向けて突き出しています。これを千木と言います。千木の先端を見ると、地面に対して垂直に削る形になっています。この削り方を外削ぎと言います。

一般的に外削ぎは男神を表し、女神を祀る神社は内削ぎ(千木を地面に対し水平に削る)となっています。一方鰹木(かつおぎ)の数に関して、奇数は陽数で男神、偶数は陰数で女神とされています。比沼麻奈為神社の場合は拝殿が5本、本殿が7本で奇数となっています。そう言えば、伊勢神宮外宮も千木は外削ぎで鰹木は9本で奇数となっていました。おかしいとは思いませんか?

豊受大神はここまでの検討からすると間違いなく女神のはずなのに、社殿の構成は男神を表現しているのです。もちろん外削ぎは男神、内削ぎは女神と言うのは一般論で例外もかなり見られます。でも、外宮も含め比沼麻奈為神社のような重要神社の社殿がなぜ男神なのでしょう?この不可解な事実の背後には、何か隠されたものがありそうです。例えば、保食神を斬り殺した月読命が関係しているのかもしれません。

月読命は多分男神のはずです。けれども本来的に考えると、天照大神は太陽神で陽ですから男神であるべきで、月読命は陰ですから女神となるべきです。ギリシア神話では、太陽神アポローンと月の女神アルテミスが登場することからもそれは裏付けられます。日本神話においては、様々な経緯により太陽神が女神天照大神となったため、月読命は男神にならざるを得ず男女が逆転してしまったのです。「倭姫命世記」には、月夜見命二座の御形は馬に乗る男とあり、こちらでも男神となります。

男神である月読命に関してさらに検討を続けます。「日本書紀」によれば、月讀尊は伊弉諾尊から夜之食国(よるのおすくに)を治めるよう委任されています。月読命は保食神の神格を持つ神だったのです。以上、月読命は保食神であり男神であったと確認されました。でも、これだけでは月読命の全容が把握できません。他の史料にも当たってみます。

外宮の「御鎮座次第記」には、多賀宮一座 止由気皇太神の荒御魂と記した後に、豊受皇太荒魂は伊弉諾尊が右眼を洗ったことに起因して生まれた月天子であり、天御中主霊貴であると書かれていました。そして天下りしてからの名前が豊受皇太神の荒魂と申し、多賀宮がこれであるとしています。「倭姫命世記」にもほぼ同様の記述があることから、豊受大神は月神であると理解されます。また、月天子の表記は男性を意味しているように感じられます。

ぶっ飛んでしまうのですが、ここから月読命=豊受太神荒御魂となり、豊受大神の内部には男神・月読命としての側面が存在していることになります。比沼麻奈為神社の千木が地面に対して垂直の外削ぎで男神となっているのは、同社主祭神・豊受大神の内部に男神・月読命としての側面があることによるのです。

これで千木の謎に説明が付きました。伊勢の外宮から月夜見宮を結ぶ参道は月読命が外宮の鎮座する豊受大神の許に通う道とされ、上記のような複雑極まりない関係からそうした所伝が生まれたものと思われます。

比沼麻奈為神社の千木が外削ぎである謎は何とか解けたものの、それは新たな謎を呼び込んでしまう結果となりそうです。豊受大神の中に月読命の部分が存在する、すなわち豊受大神=月読命に近似の状態となっているとすれば、保食神としての月読命が保食神を斬り殺したことになり、自分で自分を斬り殺したのとほぼ同じような話になってしまうのです。

全くややこしいのですが、この問題をもう少し現実に即して考えてみます。天照大神が月読命に保食神の元に降るよう命じたのは、保食神としての月読命に地元の保食神の農業技術を学ばせようとしたからではないでしょうか?ところが地元の保食神の技術は月読命のそれと大きく異なっていました。そこに誤解が生じ、月読命は保食神を斬り殺してしまったと推測されます。ではどんな誤解だったのか?

月読命は本来海人系の神なので、農業用の肥料に海産物の残り滓などを利用していたと仮定します。一方地元の保食神は糞尿を肥料にしていたとします。月読命にすれば、穢れたものを肥料にして農業をするなど考えられません。月読命はついカッとなって保食神を斬り殺してしまった。このように考えれば、あくまで推測にすぎませんが、月読命が保食神を殺した問題は一定の説明が付きそうです。

さて上記したように、月読命とは本来、月の位置から方位を読んで各地を航海した海人系の神となります。その傍証となるのが 長崎県壱岐市芦辺町国分東触464に鎮座する月讀神社です。祭神は中が月夜見尊、左が月弓尊、右が月讀尊となっており、全国の月読社の「元宮」とされているとのこと。月讀神社の詳細は以下の玄松子さんのホームページを参照ください。
http://www.genbu.net/data/iki/tukiyomi_title.htm

上記祭神はいずれも同じ神となり、月弓尊は弓月尊と考えれば秦氏との関係も浮上してきます。少し現在のテーマからそれてしまいますが、月読命と秦氏の関係を見ていきます。

「日本書紀」の顕宗天皇の段には、同天皇3年(487年)、阿閉臣事代が任那に派遣される途中、壱岐島に寄港し、ここで月読神が自分を祀れと宣託をしたので、都に帰り天皇に奏上して、壱岐島から月神を勧請したのが山城国葛野郡の葛野坐月読神社となります。同社は秦氏の松尾大社摂社で、秦氏との関係が浮き彫りにされてきます。月読神社の詳細は以下のホームページを参照ください。
http://www.matsunoo.or.jp/tukiyomi/yurai/yurai.html

壱岐に関してもう少し知る必要があり、「壱岐の自然と文化遺産研究保存会」ホームページを読んでみました。ここには壱岐のすべてが分かります、と書かれており、読んでみるとまさしくその通りで、難しい神社関係の記事を実にわかりやすく解説されています。とても参考になるので興味のある方は以下を参照ください。
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/index.html

上記ホームページには遣新羅使の墓の項がありました。詳細は以下を参照。
http://www.ikishi.sakura.ne.jp/kensiragishi.html

ここに出てくる遣新羅使(けんしらぎし)雪連宅満(ゆきのむらじかやまろ)は何と松尾大社の宮主を務めていたとのことです。雪連宅満がなぜ秦氏とこのように深い関係を持てたのか不思議ですが、調べたところ彼の母は秦大魚(はたのおおな)の娘でした。秦大魚は秦河勝の曾孫とされ、Wikipediaには以下の記述がありました。

天平2年(730年)従七位下・尾張少目であったとの記録がある。天平12年(740年)正六位上から外従五位下に昇叙され、のち翌天平13年(741年)三河守、天平18年(746年)下野守と、地方官を歴任した。
『万葉集』にある壹岐宅麻呂(雪連宅滿)の母は大魚の娘といわれ、ともに九州北部地方を本拠地として東へと活動の範囲を広げていき、山城国松尾大社に氏神を祀った秦氏と、これに南接する地に壱岐の月読を祀った壱岐氏(伊吉連)の縁を窺い知るものである。


壱岐氏は朝鮮半島→対馬→壱岐→九州の航海に関与していると理解されます。その航海に当たっては、月の満ち欠けを読み、最も適した時期を占ったのでしょう。天照大神に秦氏が関係していることは何度か書いていますが、豊受大神に関係する月読命も秦氏絡みでした。月読神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

『日本書紀』によれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。朝廷はこの月神に対して山背国(山城国)葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている。その後『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる。このほか『山城国風土記』逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている
前述のように顕宗天皇3年の記事は壱岐氏の伝承と考えられており、本拠地・壱岐島にある月読神社からの勧請(分祠)を伝えるものとされる。山城への勧請には、中央政権と朝鮮半島との関係において対馬・壱岐の重要視が背景にあるとされる。壱岐・対馬の氏族が卜部として中央の祭祀に携わるようになった時期を併せ考えると、月読神社の実際の創建は6世紀中頃から後半と推測されている。


月読命と秦氏のかかわりは崇神天皇期より時代が下ることになりますし、秦氏は現在のテーマではないのでこの辺で打ち止めとします。

では次に、月読命が丹波道主命(彦坐王)の館にいたかどうかを検討します。現実的な意味においては、月読命が丹波道主命(彦坐王)の館にいないと、天照大神の命を受けて保食神の元に降るなどできません。月読命が海人系である点は既に確認しました。それを元にして以下のような仮説を提示できそうです。

川上の庄にいた川上氏や海部氏は、言うまでもなく海人系と考えられます。月読命を祀る壱岐氏も朝鮮半島から対馬、壱岐、九州へと至る海路を掌握し航海に関与した海人系となります。だとすれば、月読命を祀る壱岐氏の前身も川上の庄にいて、丹波道主命(彦坐王)と共に比治の里に入ったのではないでしょうか?

月読命(=壱岐氏の前身)は航海に関与するだけでなく、保食神の神格も持っていることから、府の丘にある丹波道主命(彦坐王)の館において天照大神(八咫鏡を奉じる豊鋤入姫命一行)の依頼で地元の保食神と接触。既に書いたような誤解により地元の保食神を殺してしまったのです。

それが契機となって月読命は天照大神から疎んじられ、殺された側の保食神は天照大神の命により(実際には丹波道主命の命により)地元の巫女たちの手で祀られるようになり、巫女たちは海部氏との関係などから豊宇賀能売命に変容。遂には豊受大神として伊勢神宮外宮に遷座するまでに至ったと考えられます。当初はこの問題を以下のように考えていました。

遠い昔月読命が保食神を斬り殺した。殺された保食神(宇気持神)を地元の巫女たちが祀った。保食神が憑依した巫女は豊宇賀能売命に変容した。時代が下り豊宇賀能売命に変容した巫女は天照大神を饗応した。それが契機になって豊宇賀能売命(八乙女、巫女)は豊受大神に変容した。

このように、当初は神様の変容を時代差のある3段階で考えていたのです。けれども、丹波道主命(彦坐王)が天照大神(豊鋤入姫命一行)と月読命(壱岐氏の前身)を府の丘に連れてきた前提で考えると、この3段階がほとんど同時的に発生したようにも思えてきます。いつの段階、いつの時代でこれらの変容が起きたか確定するのはかなり困難ですが、ここでは3段階の変容が起きたのは間違いないと言う点だけをはっきりさせたいと思います。

以上で、丹波における謎の核心部分もある程度整理できたように思えますし、月読命と保食神の伝承の発祥はこの地がオリジナルになった可能性も否定はできません。上記のストーリーは元伊勢与佐宮所在地が丹波道主命(彦坐王)の館にあったとする酔石亭主の仮説とも整合し、全ての登場人物(神)が近くにいて、しかもかなり具体性を帯びていることから、この場所の伝承がオリジナルなものであるとの推測を補強する材料になると思います。

比沼麻奈為神社の位置付けに関しては、「その76」で丹波道主命(彦坐王)と天照大神(八咫鏡)を奉じる豊鋤入姫命の一行が立ち去り大和に帰還した以降の神祭りの場、と書きました。基本的にその考えで変更はなさそうですが、参考までに他の史料を見ていきます。

海部穀定氏は「元初の最高神と大和朝廷の元始」において、久次村慶長検地帳の原本が現存していて真名井の名称が見え、慶長以前の古社であって云々と書いています。つまり、創建時期やそれに関係する内容への言及を避けているのです。そして、同じ久次村に鎮座していて、京丹後市峰山町赤坂字宮向29に遷座した咋岡神社や藤社神社との違いに論考を向けてしまい、位置付けを明確にしないまま終わっていました。咋岡神社は以下に詳しいので参照ください。
http://jinja.kojiyama.net/?p=13761

しばしば参考にする白水社の「日本の神々」を読んでも、比沼麻奈為神社の創建時期に関しては全く触れられておらず、不詳と言うことなのでしょう。ただ、付近の平地には弥生後期から古墳前期にかけての宮谷遺跡があり、近くに古墳時代後期の円墳四基がある。としており、一帯には弥生時代から古墳時代後期にかけての歴史が存在していると考えられます。宮谷遺跡に関しては以下のPDFファイルを参照ください。
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J21.pdf

比沼麻奈為神社創建以前の、丹波道主命(彦坐王)と天照大神(八咫鏡)を奉じる豊鋤入姫命の一行が府の丘の館にいた頃、巫女たちは館で保食神を祀り、また天照大神(実態は八咫鏡を奉じる豊鋤入姫命一行)の饗応(酒や食事などでもてなすこと)に従事していたと思われます。

そうした痕跡は「丹後舊事記」の記事にも見られ、比沼麻奈為神社の祭神に関しては、真奈為大明神、豊宇賀能売命、相殿 和奈佐翁 和奈佐女とありました。真奈為大明神とは豊受大神のことでしょうか?豊宇賀能売命は保食神を祀る天女、巫女、八乙女を意味しており、現在の比沼麻奈為神社祭神・豊受大神とは異なります。(注:現在のその他の祭神は瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命)

また和奈佐夫婦に関しては、既に書いたように海部氏の関係者であり、豊受大神の祭祀を取り込むため必要な人物だと考えられます。海部氏の女も保食神を祀る巫女に加わった可能性があるのは既に指摘していますが、当然天照大神の饗応にも参加していたことになるでしょう。籠神社(真名井神社を含む)が天照大神と豊受大神の元伊勢与佐宮を標榜する裏の根拠はここにあるのではないでしょうか?いずれにしても、「丹後舊事記」に記載の祭神から比沼麻奈為神社創建当時の雰囲気が伝わってくるように感じられました。

「丹哥府志」(江戸時代の終わりごろに編纂された地誌)には比治真名井神社(比沼麻奈為神社)に関して、崇神天皇十年丹後道主命その子八乙女をして豊受皇太神を斎奉らしむ、是を真名井の神社といふ。との記述があります。

「丹哥府志」には比沼麻奈為神社の創建年代と内容が書かれていますが、これを二段階に考え、丹後道主命(彦坐王)が八乙女に豊受皇太神(実際は宇気持神)を奉斎させたのが府の丘の館で、丹後道主命(彦坐王)が同地を去った後の神祭りの場所が真名井の神社(比沼麻奈為神社)とすれば、よりすっきり整理できるはずです。

比治の里における謎解きと各神社などの位置付けは以上です。遠い昔の歴史を完全に復元するのは不可能ですが、丹波の謎の核心部分に多少なりとも迫れたのではないかと思っています。

ただ、元伊勢とされる場所は他にも幾つか存在しており、これらに関しても一定の位置付けを行う必要があるでしょう。現時点では、和奈佐夫婦系の後裔となる海部氏が関与するもの、すなわち豊受大神を比治の里(藤社神社)から真名井神社鎮座地に勧請する過程で元伊勢になったと思われるもの、天照大神の移動や豊受大神の丹波から伊勢への遷座に伴うものの二つに分類できそうです。

次回からは比治の里を離れ、和奈佐夫婦系の海部氏が豊受大神を比治の里から真名井神社鎮座地に勧請する過程で元伊勢になったと推定される場所などを見ていきます。

            尾張氏の謎を解く その80に続く
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