尾張氏の謎を解く その81


前回は和奈佐夫婦系海部氏の移動を検討するはずが、またも丹波道主命(彦坐王)の話で終わってしまいました。今回は海部氏の移動に関係しそうな部分に移ります。比治の里を出た海部氏は豊受大神を奉じながら現在の312号線に沿って移動し、天橋立の南側に至ります。この辺りに与佐宮の痕跡がないか探してみましょう。

近代デジタルライブラリ「与謝郡誌 下」(コマ番号250、251)で吉佐宮趾の項を見ると、頭痛がするほど細かく書いてありました。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978723

かなり重要な文章なので、全文を赤字で以下に書き出し、その概要を青字で現代文にしてあります。内容の正確性は、酔石亭主の読解力が乏しいため保証の限りではありませんが、検討に必要な事項は青字の概要の中にほぼ含まれています。

吉佐宮趾
崇神天皇の朝皇女豊鋤入姫命が皇太神の御霊代、即ち三種神器の内八咫鏡と叢雲剱を奉じて大和国笠縫邑より當國に御神幸あり。社壇を橋立の洲先に卜して宮殿を御造営あらせられ、吉佐の宮と申し霊代を奉安神事せらるゝこと四年、のち伊勢国五十鈴川上に奉遷し、内宮皇太神の神都に奠め給ひしといへる旧社にて、我国体上最も尊厳の地位を占むる霊蹟なれば、伊勢に御遷幸の後にても依然宮殿を存置して皇太神を奉祀せしも、文殊堂の雪山和尚が諸堂拡張の為めに、切戸を渡して橋立の厚松内に宮殿を移したるが今の橋立明神なり。文殊境内なる宮跡は今本堂の東北なる本光菴の前仁当れるが、古来神聖の境域として苟くも汚穢不敬等のことある無く、約四坪計りは厳然として保存せられ今要目樹壹株を栽ゑられてあり。

尤も吉佐宮に就ては種々異説ありて倭姫世紀には「奉天照太神於笠縫邑遷之于旦波與佐宮今加佐所在内宮即其處居焉四年又遷于伊勢五十鈴川上號曰内宮、事在垂仁天皇二十五年機歴十代至雄略天皇祀豊受皇于伊勢所謂外宮是也云々」と載せ神社啓蒙には「與謝宮在二丹後国與佐郡川森一所祭神一座」と云ひ和漢三才図曾には「與佐宮在二與謝獅川守一云々」となし又大神宮御遷幸図説には丹波吉佐宮今丹後に属し丹後の神森云々と云ひて河守に比定し、加佐郡舞鶴町紺屋天香山鎮座笶原神社慶長五年康子 冬十一月十四日国守細川越中守忠輿再建の標札に「丹後州神座郡田辺城外西嶺有笑原神宮焉豊受大神神幸之古跡而所謂為真名井原與謝宮三處之一而此嶺別有天香或藤孝之名焉、祭神天皇即位卅九壬戌歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙剱月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎮其御霊代又遷與謝郡九志渡島以奉齋此時始有與佐郡名焉云々」と録し、日本地理志料には「豊鋤入姫命齋皇太神於丹波吉佐官云々吉佐宮趾在文殊村郷名取此云々」と載す。丹後細見録、丹後舊事記及び丹後州宮津府志には孰れも「橋立大明神余社郡天橋立、祭神豊受皇太神宮、崇神天皇三十九年天照皇太神宮を崇め奉る與佐宮倭姫の垂跡なり」と云ひ、神祇志科式外論神の部に「等由気太神與謝郡切戸にありて與謝宮と云ひしを後世橋立に遷して改て橋立明神といふ。(按与謝宮趾今切戸に在り何頃よりか其近傍に文珠堂ありしが奸僧雪山なる者其仏の栄えるまにまに遂に本社を今地に遷して其趾に文珠堂を構へたりしなりといふ甚だ憎むべき所業なりと云ふべしさて古は切戸より橋立の内府中真井原までも悉く本社の境内なりしといふ云々)天照太神の御饌都神等由気太神を祀る。雄酪天皇御世大御神の御教に依て此太神を伊勢の度曾山田原に遷坐奉らしめ給ひき云々」と掲げ、尚ほ皇太神四年鎮座考(吉佐宮考)には「皇太神は籠神社に四年間御鎮座ありて後伊勢の五十鈴川上に御遷幸」の由を記す。

其他諸書の載する説もおのづから異るものあり、又皇大神と豊受大神即も内宮と外宮とを混同せる向もありて一定せず。按ずるに此の両者は倭姫世紀にある如く判然別個にして、皇大神を吉佐宮に齋き奉るのとき、典御饌神に丹波郡の眞名井原に降臨御鎮座あらせられたら豊受大神を橋立近辺に迎へ奉り(今府中村に豊受大神を祀る真名井神社は其宮なりとも伝ふ)皇大神の伊勢に御遷幸の後は祭祀も頽れしを、雄略天皇の朝に皇大神の御託宣により真名井原へ勅使を御差遣(此の真名井原とは府中の真名井原か或は其故地たる丹波郡の真名井かを知らず)伊勢の度曾に奉遷したるが豊受大神なれば、吉佐宮は内宮の皇大神なるは謂ふまでもなし。


吉佐宮趾
崇神天皇の時代に皇女・豊鋤入姫命が天照大神の御霊代である八咫鏡と叢雲剱を奉じて大和国笠縫邑より丹波国に御神幸された。遷座場所を占って天橋立の洲先に宮殿を造営し、吉佐の宮と呼んだ。天照大神が伊勢に遷座した後もここで奉祀していたが、文殊堂の雪山和尚が諸堂拡張のために、天橋立の切戸を渡して天橋立内に宮殿を移したのが今の橋立明神である。文殊境内の宮跡は現在本堂の東北にある本光菴の前に当たり、古来神聖の境域として約四坪ほどに樹木が植えられている。

吉佐宮に関しては種々異説があって倭姫世紀には現在の加佐所在内宮、神社啓蒙には与佐宮は丹後国与佐郡川森、和漢三才図曾には与佐宮は與謝獅川守、大神宮御遷幸図説は丹後の神森で河守に比定している。

笶原神社再建の標札には豊受大神神幸の古跡で真名井原與謝宮三所のひとつとある。日本地理志料は豊鋤入姫命が天照大神を祀る吉佐宮趾は文殊村にあるとしている。丹後細見録、丹後舊事記及び丹後州宮津府志はいずれも、橋立大明神余社郡天橋立、祭神は豊受大神で、崇神天皇三十九年に天照大神を奉斎し、與佐宮は倭姫の垂跡だとする。神祇志科式外論神の部には、等由気太神の與謝宮が與謝郡切戸にあったが後世橋立に遷して橋立明神と言うとある。

皇太神四年鎮座考(吉佐宮考)は、天照大神は籠神社に四年間御鎮座して後伊勢の五十鈴川上に御遷幸したとの由緒をを記す。その他異なる諸説があるが、天照大神と豊受大神、すなわち内宮と外宮とを混同せる向もあって一定していない。

思うにこの両者ははっきり別であって、天照大神を吉佐宮に奉斎するとき、丹波郡の眞名井原に降臨された豊受大神を橋立近辺にお迎えし(現在、府中村に豊受大神を祀る真名井神社はその其宮であるとも伝えられる)、天照大神が伊勢に御遷幸の後は祭祀も廃れたが、雄略天皇の時代に天照大神の御託宣により真名井原(この真名井原とは府中の真名井原か或はその故地である丹波郡の真名井かわからない)から伊勢の度曾に遷座されたのが豊受大神なので、吉佐宮は内宮の天照大神であるのは言うまでもない。

「与謝郡誌」は天照大神の与佐宮を橋立の洲先(現在の智恩寺境内)に比定し、後に天橋立に遷したのが橋立明神(現在の天橋立神社)だとして、かなりの行数を割いています。この考えを基本に据えつつ、異説もほぼ網羅しているのは、客観的で公平な姿勢であると言えるでしょう。

ただ、「日本地理志料は豊鋤入姫命が天照大神を祀る吉佐宮趾は文殊村にあるとしている。丹後細見録、丹後舊事記及び丹後州宮津府志はいずれも、橋立大明神余社郡天橋立、祭神は豊受大神で、崇神天皇三十九年に天照大神を奉斎し、與佐宮は倭姫の垂跡だとする。神祇志科式外論神の部には、等由気太神の與謝宮が與謝郡切戸にあったが後世橋立に遷して橋立明神と言うとある。」と書かれているように、天照大神の元伊勢与佐宮が智恩寺境内(と橋立明神=天橋立神社)である説、場所は同じでも祭神は豊受大神で天照大神を奉斎するとの説、同じ場所で与佐宮を等由気太神(豊受大神)のものとして、祭神も等由気太神とする説など、それぞれが史料によって異なっており、読み手の混乱を招く原因となっています。

その他の比定地では、四つの史料が川守(大江町の元伊勢三社)を与佐宮としています。元伊勢三社もかなり重要そうなので、後の回でよく検討する必要があります。他には笶原神社、籠神社(実際には真名井神社)説があり、驚いたことに籠神社が最も小さい扱いになっています。なお「与謝郡誌」は与佐宮を天照大神の遷座地としていますが、それが本来的な考え方だと思います。但し、今までの検討から天照大神の元伊勢与佐宮は比治の里にある丹波道主命(彦坐王)の館以外に考えられません。

「与謝郡誌」は与佐宮比定地に関して比治の里にある丹波道主命の館を挙げていませんが、真名井原とは府中の真名井原か或はその故地である丹波郡の真名井かわからない、と書いています。これは真名井原が海部穀定氏の主張される真名井神社一帯なのか、或いはその故地である丹波郡(当時の与佐郡内)の真名井、つまり比治の里であるかどうかわからないと言う意味で、比治の里(但し、天照大神ではなく豊受大神の故地としての場所)も頭に入っているものと考えられます。

与佐宮に関しては、その場所がどこかだけでなく、豊受大神と天照大神のどちらのものか或いは両方のものかと言う問題が複合しているため、極めて複雑で理解しがたいものになってしまいました。その原因となったのが海部氏です。

後代の海部氏が真名井神社を豊受大神と天照大神の両方の元宮(元伊勢与佐宮)としたため、その考え方が複数の地誌や歴史史料、「与謝郡誌」編者に一定の影響を及ぼし、和奈佐夫婦系の海部氏が豊受大神を比治の里から真名井神社鎮座地に運ぶ途中立ち寄った智恩寺境内地(と橋立明神=天橋立神社)が、豊受大神と天照大神のどちらを祀る元伊勢与佐宮なのかと言った議論を引き起こしてしまったのです。(注:寺伝によれば、智恩寺は大同3年(808年)に平城天皇の勅願寺として創建されたことになります。それが事実かどうかは別として、与佐宮の伝承が持ち込まれた時点で智恩寺は存在していません)

けれども酔石亭主の視点では、智恩寺境内と橋立明神、笶原神社、真名井神社が和奈佐夫婦系海部氏の移動に伴うもの(但し笶原神社は籠神社創建以降のもの)、川守(大江町の元伊勢三社)は天照大神と豊受大神が与佐宮から大和へ移動される途中の立ち寄り場所となります。川守は彦坐王と陸耳御笠の激戦があった加佐郡川守郷に当たり、その内容は既に書いたように「丹後風土記残欠」に出てきます。上記の各比定地はいずれも後の回で見ていく予定です。

と言うことで、次回は天照大神の元伊勢与佐宮とされてしまった智恩寺境内と橋立明神(天橋立神社)に行ってみましょう。

             尾張氏の謎を解く その82に続く
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