尾張氏の謎を解く その83


前回で天橋立観光協会のパワースポット三社参りを紹介していますが、三社以外にも重要な神社があるのではないでしょうか?「丹後舊事記」に以下の文面があり、内容が厄介そうに思えたことは既に書いています。

余社の宮邊を魚井原といふ事は天女宇賀能売命此地に通ひ止由居皇太神へ御饗を奉捧し神戸所有が故に魚井原と伝ふて天女を飯役明神と祭る。

与佐の宮辺りを真名井と言うのは天女である宇賀能売命がこの地に通い、止由居皇太神(豊受大神のことだが、天照大神にしないと意味が通じない)へお食事を捧げ奉り、神戸を所有していたので真名井と言うと伝えられる。天女を飯役明神として祀る。

天女を飯役明神と祭る」、とある以上、飯役の名の付いた神社がどこかに鎮座しているはずです。でも、どこに鎮座しているのでしょう?前回、和奈佐夫婦系の海部氏が与佐宮の伝承を比治の里から真名井神社に持ち込んだ前提で智恩寺と天橋立神社(橋立明神)を見てきました。従って、常識的に考えれば、智恩寺から真名井神社に行く途中にあると考えられます。

余社の宮邊を魚井原といふ」はやや意味が取りにくいのですが、真名井神社から籠神社周辺を含む相当広域な一帯を真名井と言う、となりそうです。従って、真名井神社や籠神社からさほど遠くない場所に飯役の名の付いた神社があるはずです。この問題はもう少し後で考えることにして、書かれた内容を先に見ていきます。

全体的にやや意味の取りにくい文章ですが、この話は明らかに比治の里において八乙女(巫女、天女、豊宇賀能売命)が天照大神(豊鋤入姫命一行)を饗応した伝承から引いています。ところが饗応した相手は、なぜか天照大神ではなく止由居皇太神(豊受大神)になってしまいました。

次に、天女を飯役明神として祭るとは何を意味しているのでしょう?そのまま理解すれば、天女をお食事担当の神様として祀る、になりますが…。「丹後舊事記」をチェックしたところ以下の記載がありました。

吹飯の浦。與佐郡板列の庄府中の海なり豊宇賀能咩の神比治の真奈井ケ原より通ひて與佐宮大神へ御饗を奉り給ひし跡なりとて此神を飯役大明神と称す。是所謂與佐宮神戸所也依て爰の海を宇気の浦と云なり。

吹飯の浦は与佐郡板列の庄、府中の海である。豊宇賀能咩の神(豊宇賀能売命)が比治の真奈井ケ原より通って与佐宮の大神(天照大神、豊受大神のいずれか不明だが、書き方からすると天照大神の可能性が高い)にお食事を供された跡なりと言われ、この神を飯役大明神と称す。この場所は与佐宮神戸の地で、この海を宇気(うけ)の浦と言う。

同じ「丹後舊事記」なのに、こちらは飯役大明神(天女、豊宇賀能売命)が天照大神(或いは豊受大神)を饗応した話になっています。前回で与佐宮に関して、「与謝郡誌」に「その他異なる諸説があるが、天照大神と豊受大神、すなわち内宮と外宮とを混同せる向もあって一定していない。」と書かれた内容をアップしていますが、「丹後舊事記」にも似通った混乱が見られます。なぜこんなことになってしまったのかは、もう少し後で検討してみます。

吹飯の浦(ふけひのうら)の(ふけ)は、(うけ、うけい)と同じで食事を意味するだけでなく、風が吹くなど複数の意味を持たせた地名のように感じられます。宇気(うけ)の浦とは正しく宇気持神=保食神の浦と言う意味でしょう。

天橋立の西側の潟海は阿蘇海でその北側部分(中野)が吹井(吹飯)の浦と称され、天橋立の東側が与謝海となります。府中は丹後国府を意味することから、飯役大明神の鎮座地は籠神社の近くとなるはずです。チェックしたところ、飯役社(いいやくのやしろ)が 178号線と中野浄水場に挟まれた場所に鎮座していました。社名や鎮座地から判断すると、ここまで書いてきた内容は飯役社のことだと理解してよさそうです。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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飯役社の鳥居。小さな神域です。あまり管理もされていないようですが…。

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社殿。画像サイズを大きくしています。扁額に飯役と書かれています。

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解説板。随分汚れていますが何とか読み取れます。

江戸時代後期の地誌、『宮津府志』・丹哥府志等には、この位置を溝尻村とする。中野・溝尻・小松等の大字の錯綜するこのあたり一帯に、この社を中心に、飯役・飯役前・飯役後・飯役浜・飯役立・飯役ノ上があり、北方妙立寺に至る間には、陣屋・大門・寺大門等がある。飯役社が大切な社であったし、この一帯が歴史的に重要な地であることをうかがわせる。
飯役社は諸国にみられる印鑰社(いんやくしゃ)と同じである。印は国衙の印章であり、鑰は印櫃のかぎ、或は穀倉開閉のかぎなどといわれるが、いずれにしても在地の国司役人によって儀式化された神事が行われた場所である。祭神は豊受大神・天照大神等一定しない。
祭祀の為の料として『丹後国田数帳』には、拝師郷七町四段余のうちに、一町歩(一・二ヘクタール)を割いて「印鎰社」に充てている。
現在の田数帳は室町時代初めころ、十五世紀中ごろの状況をもとに記されているが、この鎰役社(印鑰社、印鎰社、或いは飯役社の誤り)の創立はもっと遡って考えることが出来るかもしれない。
この社の存在を以ってこの付近に国衙が所在したと考えることはむずかしいにしても、密接な関係をもつ社ということは確かである。
社名の文字を古例に従わず「飯役」とするわけは、四月の一宮の大祭に、この社が供膳のことに関係を持ったからと伝えている。

いかがでしょう?由緒内容からすると相当重要な神社だったのは間違いなく、観光協会も今後は三社参りではなく四社参りに変更したらどうかなどと思ってしまいます。それはさて置き、「祭神は豊受大神・天照大神等一定しない」と書かれていることから、「与謝郡誌」、「丹後舊事記」に見られる混乱が飯役社の由緒においても露呈していると理解されます。

本当に厄介ですが、一体誰がこの混乱の元を作ったのでしょう?今までの流れからすると、与佐宮の伝承を持ち運んだ和奈佐夫婦系の海部氏以外に考えられません。ではどのような経緯により与佐宮に関する大混乱が起きたのか?多分、以下のような理由によるものと思われます。

大化4年(648年)に和奈佐夫婦系の海部氏は豊受大神のみを比治の里から天橋立の北側(現在の真名井神社鎮座地=海部氏の主張する与佐宮)に勧請しました。これに関連する内容を「勘注系図」から拾ってみます。同系図には、この年に豊受大神が久志比の真名井原の籠の川辺に天下りたまい、と書かれていました。もちろんこれは実際に神様が天下ったのではなく、和奈佐夫婦系海部氏が豊受大神を勧請した事実を神様の天下りとして記載したものです。

海部氏にとっての問題は、豊受大神の天下りが648年ではあまりにも時代が下りすぎてしまう点です。よって後代の海部氏は、これを遠い神代の話として位置付けました。そして崇神天皇の御代に天照大神が遷座になり、両神を共に与佐宮(=真名井神社)にてお祀り申し上げた、としたのです。

つまり、現実的には天照大神の与佐宮遷座が先で、その後和奈佐夫婦系の海部氏が豊受大神を天橋立北側に鎮座させているにもかかわらず、後代の海部氏はこれを、豊受大神の鎮座地である与佐宮(=真名井神社)に天照大神が遷座したと言う形で逆転させてしまったのです。

問題はこの逆転だけではありません。与佐宮を豊受大神と天照大神双方の元伊勢とする海部氏の主張は、地誌や地元史書の編者に強い影響を与えたはずです。編者たちは多分、与佐宮と言った場合、天照大神の元伊勢と理解していたと思いますが、丹後国一宮の宮司である海部氏側の主張に引きずられ、前回で書いたように幾つもの異なる説が登場する結果となったのです。

また前回で検討した智恩寺境内の与佐宮に関して、祭神は豊受大神で天照大神を奉斎すると言った、曖昧で結論を避けるような説まで登場しました。こうした海部氏への配慮により、与佐宮に関して、何が何だかわからないような混乱・混同を招く結果となったのです。

このため飯役社の解説板も、同社の重要性に言及しながら与佐宮かどうかの判断は避け、祭神も豊受大神・天照大神等一定しない。と書いてややこしい部分に立ち入らないようにしたと推測されます。

与佐宮は本来的には、「与謝郡誌」が「吉佐宮は内宮の皇大神なるは謂ふまでもなし。」と書くように天照大神の元伊勢です。それを海部氏が、豊受大神の降臨地(真名井神社)に天照大神が遷座し、そこが与佐宮であるとの伝承形成を図ったため後世の混乱を招く結果となったのです。我田引水的ですが、酔石亭主の視点で丹波道主命(彦坐王)の館を元伊勢与佐宮とすれば、この館が天照大神と豊受大神の本家・本元、元伊勢与佐宮になるのは言うまでもありません。

和奈佐夫婦系の海部氏が真名井神社に豊受大神を勧請する時点にまで時代を下っているので、この機会に海部氏の動きを史料に沿って再度具体的に見ていきます。(注:「その67」でほぼ同じ内容を書いています)なお、豊受大神を勧請した海部氏を本論考では和奈佐夫婦系の海部氏として書き、海部の里の海部氏とは分別している点ご留意ください。この分別を明確にするためにも、海部氏の動きを再度見ていくこととしたのです。

「勘注系図」によれば、24世孫丹波国造海部直伍佰道祝(いほじはふり)は大化元年(645年)から天武天皇9年(680年)の35年間奉仕しています。25世孫丹波国造海部直愛志(えし)祝は辛己年(681年)から養老元年(717年)まで奉仕しています。26世孫海部直千嶋(ちしま)祝は養老3年(719年)から天平勝宝元年(749年)まで奉仕しています。(注:千嶋の時代から丹波国造の表記が外れています)

この三人は海部氏の長い歴史において、極めて重要な役割を果たしたと思われます。上記の期間内の大化4年(648年)に豊受大神が天下って真名井神社が創建され、養老3年(719年)に彦火明命が天下って籠神社が創建された点からもそれが窺えます。

従ってこの時代の動きを他の史料などと照合しつつ検討すれば、海部氏と真名井神社、籠神社の関係を伝説ではなく、より現実的なものとして見ることができるはずです。と言うことで、そうした部分を詳しく見ていきましょう。

真名井神社の創建は大化4年(648年)なので、時代的な面を考慮すると、海部直伍佰道祝が豊受大神を比治の里から真名井神社鎮座地に勧請したようにも思えます。けれども彼は、事実関係はさて置き、丹波国造であり丹波国の国府は熊野郡川上の庄海部の里にあった(注:「丹後舊事記」には大矢田宿禰が海部の矢須の里を国府としたとある)ので、海部直愛志祝も含め海部の里に居続け、先祖の墓のある陵神社の祭祀を司っていたはずです。従って、豊受大神を比治の里から真名井神社鎮座地に勧請したのは、和奈佐夫婦の後裔で藤社神社の祭祀を司っていた海部氏と考えざるを得ないのです。

和銅6年(713年)には丹後国が丹波国より分立し、国府は天橋立付近に設置されました。この時期は25世孫丹波国造海部直愛志祝の時代で、次の26世孫海部直千嶋祝の時代になって丹波国造が外れているのは、丹後国分立の事実を反映しているためと考えられます。

興味深いのは、海部直愛志祝の奉仕(注:この時点では陵神社への奉仕)が717年に終わり、次の海部直千嶋祝の奉仕は719年から始まっている点です。二人の奉仕期間の間に、なぜ2年間程度の空白があるのでしょう?

事実関係はさて置き、海部の里にあったとされる国府が713年に天橋立付近に移り、自分たちの立場に危機感を覚えた海部直千嶋祝は、周到な準備の上、719年に国府近くの適地(現在の籠神社鎮座地)へと移動したのではないでしょうか?

それを証するかのように、「勘注系図」には、海部直千嶋祝は養老年間に籠宮を丹波の国府の始まりの地である海部の里から、丹後の国府の地に奉遷したと記されています。(注:「古代海部氏の系図」新版の記述による)従って、空白の2年間は海部氏が海部の里から現在の籠神社鎮座地へ移動するための準備期間であったことになります。

一方籠神社のホームページには、719年に真名井神社から籠神社に遷宮したと書かれています。けれども、「勘注系図」の記載内容や「京都府熊野郡誌」に見られる陵神社の由緒「神職たりし海部氏が当社より、養老年間与謝郡府中に転し、丹後の一の宮即ち籠神社に奉仕せる云々」などから、本流の海部氏は海部の里から移動して籠神社を創建したことになります。

仮に真名井神社から籠神社に遷宮したとすれば、籠神社の主祭神は豊受大神になるはずですが、実際には真名井神社で祀られていない彦火明命となっており、これも海部氏は海部の里から移動して籠神社を創建したことの傍証になりそうです。

さらに「勘注系図」注記には、養老3年(719年)に彦火明命が籠宮(籠神社)に天下ったとあり、真名井神社から遷宮した形とはなっていません。また小さい字で、豊受大神は天香語山の磐境に斎奉る。真名井神社がこれである。と別途記されています。「勘注系図」が籠神社と真名井神社を分別して書いているのも、海部氏が海部の里から移動して籠神社を創建したことの傍証になるとは思えませんか?

つまり、真名井神社は鱒留で藤社神社の祭祀を司っていた和奈佐夫婦系の海部氏が豊受大神を遷座させて祀ったものであり、籠神社は海部の里(久美浜町海士一帯)から移動した本流の海部氏が祀ったものと推定され、両神社は別の流れになっているのです。以上で和奈佐夫婦系海部氏と海部の里の海部氏を分別できました。

海部直伍佰道祝の時代には海部氏は彦火々出見尊を祀っており、海部氏が天火明命を自分たちの祖神で籠神社の祭神としたのは、海部直千嶋祝(注:Wikiには海部直愛志祝が彦火明命に改めたとある)の時代からとなります。祭神を彦火明命に改めたのは海部直千嶋祝、海部直愛志祝のいずれかと言う問題は残りますが、大きな問題とは思えないのでこの点は追及しないこととします。

二人のどちらが天火明命を籠神社祭神としたのかは別問題として、天火明命を祖神として現在にまで続く海部氏のありようが定まったのはこの時点ではないかと推測されます。天火明命が籠神社祭神となった時期は養老3年(719年)ですが、これとほぼ同時期にある重要な歴史書の編纂が終わっています。そう書けばどなたも養老4年(720年)に完成した「日本書紀」が頭に浮かぶと思います。

その中には天照国照彦火明命は尾張連等が遠祖なり、などと書かれています。720年は「日本書紀」が成立した時点ですから、実際にはずっと以前から朝廷と豪族たちのすり合わせ作業があったはずで、一般的に編纂作業が始まったのは天武天皇の時代とされています。ここで留意すべきは、天火明命が籠神社祭神となり海部氏の祖神になったことと、「日本書紀」の記述の間には関連性があると思われる点です。

すなわち、朝廷とのすり合わせ作業の中で尾張氏は天火明命を祖神にしたいと申告し、尾張氏と同じ海人系の海部氏もそれに合わせたため、719年に天火明命が籠神社祭神となり、海部氏の祖神となったのです。

天皇家の系図捏造に尾張氏が加担した点は大和編で書いています。そうした経緯も踏まえ、朝廷は天火明命を尾張氏の祖神とすることに同意し、海部氏も同様にするとの結論に至ったのでしょう。この時点で尾張氏と海部氏は祖神を同じくする同族関係となったのです。

以上、24世孫丹波国造海部直伍佰道祝(645年から680年まで奉仕)から25世孫丹波国造海部直愛志(681年から717年まで奉仕)、26世孫海部直千嶋祝(719年から749年まで奉仕)へと続く三人の時代に、海部氏にとって死活的に重要な事柄が立て続けに起きたと理解されますね。そう、ここで現代にまで続く海部氏のありようが決定付けられたのです。

海部氏に関する話が長くなったので、この辺で切り上げ飯役社に戻ります。海部穀定氏は「元初の最高神と大和朝廷の元初」で飯役社に関しかなりのページ数を割かれていました。同氏によれば、この地に鎮座していた浮渓(ふけい)大明神(吹井社)と印鎰社が合祀され、豊宇賀能売神の飯盛りの役と印鎰(いんやく)の鎰とが重なって、飯役の名称を生じたとしています。同氏は飯役社祭神を丹波道主、氷沼道主、豊宇賀能売神等だとしています。興味深いのは祭神が比治の里の状況を反映したものと思えることです。

また同氏によれば、飯役社は真名井大神(真名井神社)、籠宮大明神(籠神社)とは、極めて関係が深く、幕末以前までは、籠宮大神の御神幸の祭礼に御神輿の御旅所となっていたそうで、御饌の井、即ち真名井まであったとのこと。飯役社には与佐宮の伝承があり、和奈佐夫婦系の海部氏からすれば、藤社神社、智恩寺に続く第三次元伊勢与佐宮とでも言えそうな場所であり、飯役社が海部氏と関係が深いのも当然と思えます。次回は海部氏にとっての元伊勢本拠地・真名井神社を訪問します。

           尾張氏の謎を解く その84に続く
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