尾張氏の謎を解く その85


今回は現代にまで続く海部氏の本拠地・籠神社(このじんじゃ)を見ていきます。鎮座地は京都府宮津市大垣430となります。

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神門。

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神門をズーム。

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神門越しに見る拝殿。

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重文の狛犬。

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もう一体。

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解説板。

こちらも神門に入って先は撮影禁止のようなので、写真はこれだけです。籠神社に関してはそれほど書くことがありません。「勘注系図」には養老3年(719年)彦火明命が籠宮に天下りされた。故に籠大神と称し奉る、とあります。これが籠神社の創建年となります。同社の詳細は籠神社ホームページに実に詳しく記載されていますので、参照ください。
http://www.motoise.jp/

籠神社創建時点における海部氏は26世孫海部直千嶋祝で、「勘注系図」に籠神宮祝部の祖なりと書かれ、養老3年(719年)から天平勝宝元年(749年)まで31年間にわたり神職として奉仕しています。彼の弟が海部直千足で丹波直等の祖なりとあり、もう一人の弟の海部直千成は笶原神宮祝部の祖なりと記載され、養老5年(721年)から天平8年(736年)まで同社に奉仕しています。笶原神宮とは笶原神社のことで、「その46」にて紹介しています。

この中で以下のように書いています。

鳥居の扁額には総社笶原魚井匏宮(やはらまないよさみや)とあります。匏宮は与佐宮で天照大神の元伊勢与佐宮を意味するはずです。でも、そうした伝承はここには存在せず、残欠にある天香語山命(天香山命)の伝説成立は、籠神社が創建された養老3年(719年)以降のものと思われます。ただこれだけ詳しい話がある以上、伝説の元になった何かがあったと考えても良さそうです。

天香語山命の伝説は「丹後風土記残欠」の田造郷の項にありますが、その前に「加佐郡誌」の以下の記載を見ていきます。

笶原神社(式内)(舞鶴町字紺屋小字天香山鎮座)
祭神 豊受大神 月夜見神
由緒 当社の由緒は慶長五年細川忠興社殿再建の際の棟札に詳である。曰く丹後州紳座郡田邊城外西嶺有笶原神宮焉、豊受大神神幸之古跡而所謂爲眞名井原與佐宮三處之一而此嶺別有天香或藤岡之名焉、崇神天皇即位世九壬戊歳使豊鋤入姫命遷天照太神草薙劔月夜見神于此地以奉齋一年三月矣然後鎭其、
…以下略

わからない部分もありますが、概要を書きます。

丹後神座郡田邊城外の西嶺に笶原神社がある。笶原神社は豊受大神が神幸された古跡で、いわゆる真名井原与佐宮三所の一つである。この嶺には天香或いは藤岡の別名がある。崇神天皇39年(?)豊鋤入姫命が天照太神、草薙劔、月夜見神をこの地に遷し奉斎した。

上記では豊受大神の降臨した場所が笶原神社=与佐宮となっています。その後、崇神天皇の御代に豊鋤入姫命が天照太神(と草薙劔、月夜見神)をこの地に遷したと書かれていることから、真名井神社とほぼ同じ伝承と言えそうです。地名も同様で、笶原神社のある西嶺(「丹後風土記残欠」では矢原山)の別名は天香、藤岡とされ、一方真名井神社背後の山も天香語山で、藤岡となっています。

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真名井神社で見た天香語山旧参道の石柱。

いかがでしょう?真名井神社と笶原神社の伝承は基本構造が全く同じと理解されますね。そして各神社の創建順序は真名井神社→籠神社→笶原神社となっています。だとすれば、笶原神社の伝承は真名井神社から籠神社を経て伝えられたと考えるしかありません。

既に書いたように、海部直千成が笶原神宮祝部の祖となり笶原神社を創建し、養老5年(721年)から奉仕しています。そして真名井神社は、和奈佐夫婦系海部氏が比治の里から豊受大神の伝承を持ち込んだものでした。

海部直千成は「勘注系図」では3兄弟の一人になっていますが、上記から判断すると和奈佐夫婦系の海部氏だった可能性が高そうです。つまり、笶原神社は和奈佐夫婦系海部氏による豊受大神伝承(後に元伊勢与佐宮伝承となる)持ち運びの最終地点とも言えるのです。続いて残欠の田造郷の項を以下に再度掲載します。

田造郷
田造と号した理由は、遠い昔、天孫降臨のとき、豊宇気大神の教えに従って天香語山命と天村雲命が当国の伊去奈子嶽(いさなごだけ)に天降った。天村雲命と天道姫命は共に大神を祭って、新嘗を執り行いたいと欲した。すると井戸水がたちまち変わって、神饌の用意ができなくなった。それ故に、泥(ひぢ)の真名井という。天道姫命は葦を抜き大神の心を占った。故に、名前を葦占山という。天道姫命は弓矢を天香語山命に授け命じて言った。その矢を三度放ち、矢の留まった所には必ず清い土地がある。天香語山命が命を受けて矢を放つと、当国の矢原山(やぶやま)に至った。山には根、枝、葉、が青々としていた。それで、その地を矢原(矢原訓屋布)という。その地に神籬を建てて大神を遷し祭り、懇田を定めた。巽(南東)の3里ほどの方角に霊泉湧き出した。天村雲命はその泉で潅漑したので、真名井と称する。また、かたわらに天吉葛(あまのよさつら)が生えている。その匏(よさ、瓢箪)で、真名井の水を盛り神饌を調進し長く大神を奉った。それで、真名井原、匏宮(与佐宮)と称する。春秋田を耕し、稲種を四方にあまねく蒔いて人民が豊かになったので、その地を田造という。


与佐宮の名前の起源も上記に書かれています。真名井の傍らに天吉葛(あまのよさつら)が生えていて、その匏(よさ、瓢箪)で真名井の水を盛り、神饌を調進し長く大神を奉ったのに起因して、与佐宮の名前が成立したことになっています。なお、「日本書紀」には一書に曰く、伊弉諾尊が天吉葛を生んだとあります。

与佐宮の名前の起源も書かれている以上、元伊勢与佐宮の根源は笶原神社にあるようにも見えてしまいますが、それはここまでの検討から間違いだと言えます。「勘注系図」によれば、海部直千成が笶原神宮祝部の祖として養老5年(721年)から同社の神職を務めています。従って、721年に笶原神社を創建した千成が、豊受大神と元伊勢与佐宮の伝承を籠神社(と真名井神社)から持ち運び、笶原神社周辺の地元民に伝え、それが風土記に採録されて本記事の伝説が成立したと考えられるのです。

笶原神社の由緒内容から、和奈佐夫婦系海部氏が比治の里をスタート地点として、各所に豊受大神(と元伊勢与佐宮)の伝承を持ち運んだ実態が見えてきませんか?

籠神社の特殊神事に御蔭神事があり、海部氏の極秘伝によれば、これは真名井神社の御祭神豊受大神の御生れの祭として発祥したが、後に豊受大神を祀った海部氏の祖神彦火明命が、宿縁により現身(うつしみ)の丹波道主命となって天下蒼生に御稜威を垂れ給う神事と伝えられているとのことです。この考え方では天火明命=丹波道主命となり、従って丹波道主命は海部氏の祖と言えることになってしまいます。

これを多次元同時存在と同社の宮司さんは呼ぶそうですが、首をかしげざるを得ない見方です。けれども、天火明命は丹波道主命(彦坐王)の軍勢が奉じる鏡ですから、その意味においては一定程度の整合性はあるとも言えそうです。

例えば、丹波道主命(彦坐王)が丹波において民衆の前で鏡を高々と掲げたとします。その威に打たれた民衆は鏡と丹波道主命(彦坐王)の前にひれ伏すはずです。その時点において、鏡と丹波道主命(彦坐王)は同化した存在とも言い得ます。鏡である天火明命が宿縁により現身の丹波道主命となるのは、こうした場面において顕現したと言えるのです。

          尾張氏の謎を解く その86に続く
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