尾張氏の謎を解く その90


尾張氏の謎解きも今回から美濃・尾張編に入ります。話が終わりに(尾張に)至らない前回までの段階で、89回分も費やしたとは我ながら驚きです。それだけ大量に書いたのに、いまだ尾張氏の姿がほとんど見られないのも妙な話です。多分最終段階になっての登場となるのでしょう。落語みたいに「真打ち登場!」となるかどうかは何とも言えませんが…。

さて、本シリーズにおける尾張氏の謎解きは、尾張氏高尾張邑発祥説を否定するところから始まりました。「その1」からお読みいただければ、高尾張邑発祥説は間違いであると確認できるはずで、謎の解明には従来と異なる視点が必要になります。

酔石亭主がいつも参考にしている大和岩雄氏は、葛木坐火雷神社に関して伊福部氏の関与があると断定しておられました。その視点は非常に興味深いものの、大和における伊福部氏の存在感は薄く、逆に強いのは出雲、因幡、美濃、尾張となります。

一方、尾張氏の祖神は天火明命とされ、尾張氏のみならず伊福部氏や海部氏も同様でした。海部氏に関する検討は丹波編でほぼ完了していることから、次に検討すべき課題は伊福部氏の存在とそのありようになるはずです。

尾張氏の発祥地や祖神問題の背後に伊福部氏の存在があると仮定した場合、古代の初め頃、大和の伊福部氏が天火明命を尾張に持ち込んだ。後代になって勢力を増した尾張氏は、伊福部氏の奉斎する天火明命を朝廷の了解の元、自分たちの祖神に取り込んだ、との筋書きが浮上してきます。つまり、尾張氏の謎を形成した陰の主役は尾張氏自身ではなく伊福部氏だったと推定されるのです。

そうした可能性を検討する中で、鏡作坐天照御魂神社を訪問し、天火明命の実体は鏡であると確認できました。天火明命の実体が鏡であるなら、伊福部氏が鏡を尾張に持ち込むのにさほどの労力は必要なさそうです。問題は、一氏族に過ぎない伊福部氏が、大和王権の最も重要な威信財である鏡を奉じつつ単独で移動するのは難しいと思われる点です。

そこで調べたところ、四道将軍の一人である丹波道主命(彦坐王)が近江を経由して美濃・尾張に向かい、伊福部氏はその軍勢に加わっていたと言う道筋が見えてきました。とは言え、丹波道主命(彦坐王)は名前からしても丹波と関係があり、また伊福部氏は大和における存在感が薄く、因幡国や出雲国に数多いと言う大きな問題が残ってしまいます。

これらの問題点を解消するため丹波編において探索を続けた結果、丹波道主命(彦坐王)は丹波から因幡、出雲にまで遠征し、同地の息吹く民(伊福部氏)を軍勢に組み入れたと判明しました。さらに丹波にいた海部氏の一部も同行させて一旦大和に帰還。体制を整えて美濃・尾張の遠征に出立したと思われます。その前提で考えれば、上記した問題点は全て解消されることになります。

以上のような流れを経て、彦坐王に率いられた遠征部隊は大和を再度出立し、近江の各地に痕跡を残しつつ美濃・尾張へと歩を進めたのです。この時点で軍勢の主力は名実ともに伊福部氏となり、美濃・尾張編の主軸となるのは彼らのはずです。もちろん遠征部隊を率いた彦坐王も登場しなければなりません。(注:話が美濃・尾張編になりますので、以降は原則的に彦坐王単独の名前で表記します)

既に書いたように、不破の地峡帯を越える手前の北側に伊福部氏の神社がありました。となると、彦坐王の痕跡も同様にあるのではと考えられます。調べてみると幾つかの神社祭神が彦坐王となっていましたので、以下に列記します。内容は基本的に滋賀県神社庁のホームページより引用しています。

佐波加刀神社 (さわかとじんじゃ) 鎮座地: 滋賀県長浜市木之本町川合1277。
祭神は日子坐王とその子の大俣王、小俣王。
由緒:本社鎮座の年代は明らかでないが日子坐王は開化天皇の皇子で御母は姥津媛命であり大俣王以下七柱の王方は何れも同皇子の御子であります。旧事本紀(十国造本記)に本社の祭神たる彦坐王の3世の孫大蛇牟夜別を成務天皇の後世淡海国造に定められたとあるところより推察するならば、その国造の子孫がここに繁行すると共に、いつの世にか祖先たる彦坐王を始めとし関係の他の王を併せて奉斎する1社を創立したのが本社の起りと思われます。当初は百聞山に鎮座していたものが天平年間になり現在地に遷座したとされます。鎮座地は琵琶湖の北端部近くとなります。

草岡神社 (くさおかじんじゃ)鎮座地: 滋賀県長浜市余呉町国安52。
祭神は高御産巣日神、神御産巣日神、日子坐王命、菅原道真。
由緒:第9代開化天皇の第3皇子、彦坐王当地に降臨し給い、余呉の庄の開発並びに郷民を愛撫し、産殖に治水事業に努められた。なお、国造本紀によると彦坐王3世孫の大陀牟夜別が淡海国造に任じられています。

その他の地域では、 滋賀県大津市西の庄15-16に鎮座する石坐神社 (いわいじんじゃ)があり、近江国府の初代国造・治田連がその四代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を、神体山として祀ったものとのことです。滋賀県草津市南笠町925に鎮座する治田神社(はるたじんじゃ)も、この地方の開拓者治田連彦人が祖神として、開化天皇とその皇子彦座命の神霊を勧請したものとされます。他には、滋賀県愛知郡愛荘町蚊野2268に鎮座する軽野(かるのじんじゃ)も彦坐王が祭神となっていまいした。

滋賀県神社庁の公式ホームページは以下を参照ください。
http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-search.html?view:term=20

上記から、一旦大和に帰還した彦坐王が美濃・尾張に向かう途中立ち寄ったことに起因して、近江に数多くの彦坐王を祀る神社が勧請されたと理解されます。各神社の由緒から判断すると彦坐王の子孫が彼を祀った可能性も出てきます。

琵琶湖周辺には彦坐王だけでなく、息長氏の痕跡も濃厚に残っています。しかも、両者は無関係ではありません。丹波編で登場した人物に天之御影神(天御蔭命)がいて、その女である息長水依比売(おきながのみずよりひめ)が彦坐王の妃になっているからです。

その43」において彌加宜(みかげ)神社をアップしていますが、祭神は天御蔭命で丹波道主命(=彦坐王)が祭り給うところなり、とあります。事実関係は別としても、両者が絡む伝説は少なからずあるのです。近江においては御上神社の祭神が天御蔭命となっており、「近江探訪 その25」にて取り上げていますので参照ください。

また天御蔭命は、籠神社発行の「元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図」において天火明命の11世孫として記載されています。一方「勘注系図」によると3世孫に倭宿禰命がいて彼の亦名が天御蔭命となっています。どちらが正しいのかはさて置き、近江では様々な要素が実に複雑に絡み合っていると理解されますね。

近江の話は本筋ではないのでこの辺で切り上げ、彦坐王の動きを見ていきましょう。彦坐王に率いられた伊福部氏を主力とする遠征部隊は不破の地峡帯を抜けて美濃に入りました。不破の地峡帯は伊吹山塊と養老山地に挟まれた後代の不破関がある一帯で、彼らはここを越えたことになります。不破関の詳細は記事タイトル「不破関」にて書いていますので参照ください。

不破の地峡帯を抜けると、早速伊福部氏系の神社が登場してきます。それが岐阜県不破郡垂井町伊吹1484番地の1に鎮座する伊富岐神社(いぶきじんじゃ)です。と言うことで、美濃・尾張編における最初の目的地・伊富岐神社に行ってみましょう。

         尾張氏の謎を解く その91に続く
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