尾張氏の謎を解く その93


今回から数回程度、やや寄り道的になりますが、もっと新しい時代の伊福部氏を見ていきます。伊福部氏の動きは非常に活発だったようで、主力は濃尾平野から尾張方面に向かったものの、この地に定着した集団の一部は北部にも足を伸ばしていました。不破の地峡帯から東に進むと、伊吹山地が濃尾平野に突き出したような場所に美濃赤坂の金生山があります。この山からは石灰岩を産出し、酔石亭主もかつて古生代の化石採集に訪れた場所です。


美濃赤坂・金生山の位置を示すグーグル画像。

もちろん古代においてセメントの原料となる石灰岩を掘ることはありません。壬申の乱におい大海人軍は、山の北側で産出する鉄鉱石(赤鉄鉱)から刀や槍を造り、大友皇子の近江軍を倒したのです。でもなぜ大海人皇子は美濃、尾張の軍勢や特殊技能民を味方に付けることができたのでしょう?

壬申の乱で大海人皇子に協力し、美濃の兵3千人を動員して不破道を塞いだのは美濃国安八磨郡(安八郡)の湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)を管理する湯沐令(ゆのうながし)・多品治(おおほんじ)でした。この人物や湯沐邑について見ていけば答えが得られるはずです。安八磨郡(あはちまのこおり)に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。

『日本書紀』壬申紀に、安八磨郡(あはちまのこおり)として現れる。この時期の評を書紀は郡に書き改めているので、当時の呼び名は安八磨評である。672年の安八磨郡には大海人皇子(後の天武天皇)の湯沐令として多品治がおり、郡全体が大海人皇子の湯沐邑だったと考えられる。壬申の乱では皇子のために真っ先に兵を挙げた。

大海人皇子を支援した湯沐令の多品治は名前からして多氏となります。天照大神を皇祖神とした天武天皇と、太陽の祭祀を司る多氏はどこか深いところで繋がっていたようです。では、湯沐邑(とうもくゆう、ゆのむら)とは何でしょう?この言葉は、一見すると温泉施設のある村みたいに思えますが、これは皇族を資養するために与えられた領地(食封)を意味し、古くは壬生部と称されていました。従って、湯沐令とは皇族の領地を管理する役人となります。

Wikiによれば安八磨郡全体が湯沐邑とのことで、和名抄にある池田郡六郷の額田郷、壬生郷、小島郷、伊福郷、春日郷、池田郷がそれに該当すると考えられます。湯沐邑のかつての名称が大化改新以前に皇族を養育するために設置された壬生部であり、その名前が見られること。さらに額田、壬生、伊福、春日の各郷名は皇族の養育に関係する部の名前であることなどから、安八磨郡全体が湯沐邑とされたのです。

上記の池田郡六郷はどこにあったのでしょう?この郡に相当する場所は現在の揖斐郡池田町一帯と考えられます。現在も同じ池田の地名があるのですから、当然と言えば当然ですね。


一帯を示すグーグル地図画像。

この中で、額田部連は伊福部氏同様、製鉄や鍛冶を職掌とした部民で鏡の製造とも関係があります。額田部連の中で湯坐の職掌を担当する部民が額田部湯坐連(奈良県大和郡山市額田を本拠地とする)を称しています。また大海人皇子の最初の結婚相手は鏡王の女の額田姫王とされ、「日本書紀」には、鏡王の娘で大海人皇子に嫁し十市皇女を生む、とあります。

壬生部は乳部とも記され、有力な皇子を養育するために置かれた部民です。そして大海人皇子の養育に携わったとされるのが凡海麁鎌(おおあまのあらかま、大海蒭蒲)で、凡海氏も冶金など金属系の技術を有する部族とされ、天火明命を祖としています。様々な氏族が深く絡み合っているようで、実に面白いですね。

ここまでに「湯」と言う文字が頻出しています。実は湯沐邑の湯と言う言葉自体が金属精錬に関係していました。湯は現在でも金属の鋳造に関連して使われており、金属をその融点まで熱して溶かしたものを意味します。

谷川健一氏は、女胎から取り上げた子供を丈夫に育てることが、蹈鞴炉から溶け出た金属を鍛えるという作業に重ねられ、そこから皇子や貴人の子供には丈夫に育つようにとの願いを込めて鍛冶や冶金に長けた氏族が壬生(養育係)として選ばれる習いがあったのではないか、としています。この説が正しいかどうか何とも言えませんが、一定程度筋が通る説明にはなりそうです。

以上から、湯沐邑の各郷は金属系の軍事部民が主体であると判明しました。この地こそが大海人皇子を軍事的に支え、壬申の乱を勝利に導いた最重要拠点だったのです。特に湯沐令の多品治が不破道を閉塞したことにより、大友皇子が天智天皇の陵墓築造の名目で徴兵していた美濃・尾張の軍勢がそっくりそのまま大海人皇子側の手に入ったのが大きいと思われます。

と言うことで、湯沐邑の各郷を見るため、大垣市北方の池田町に向かいます。グーグル地図画像の南から順に額田郷が現在の池田町八幡、池田郷が池田町本郷(養老線美濃本郷駅周辺)、壬生郷が池田町宮地・願成寺・小寺、春日郷が揖斐川町脛永から南にかけての細長い地域、伊福部氏に関係する伊福郷が粕川のすぐ南に当たる池田町沓井(くつい)・養基(やぎ)、小島郷が粕川の北側に当たる揖斐川町小島となります。(注:場所がわかりにくい場合は、グーグル地図画像にそれぞれの地名を入力して確認ください)

各郷の位置関係は以下の岐阜県古代史辞典と言うホームページに出ていますので参照ください。記事全体の終わりの方に位置関係図があります。美濃国の各郡や郷に関して、非常に詳しく書かれているのには驚かされます。
http://www.tokyocactus.org/mino/minogungou.html

さて、湯沐邑の中心となるのはもちろんかつての名称である壬生部にちなんだ壬生郷でしょう。壬生郷に含まれる願成寺には願成寺西墳之越古墳群があり、極めて規模の大きい群集墳となっています。現在までに100基以上の古墳が確認され、各墳丘の規模は直径10〜15m前後、高さ2m前後のものが多いようです。築造年代は古墳時代の後期の6世紀から7世紀と見られています。これだけ群集していることから、湯沐邑全体の首長や有力者が葬られた墓と思われます。この古墳群のありようからも、湯沐邑全体が纏まって大海人皇子の支配下にあったと確認されますね。

         尾張氏の謎を解く その94に続く
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